集中が先か、静寂が先か
桜も満開を迎えて、そろそろ散り始める頃。会社も新しい期を迎えて、昨日はキックオフ(全社集会)があった。このひと月ほどは、組織変更、人事異動、入社や転職の通知を社内外から受け取ったりして、へぇ!!というものもいくつか。自分が動かなくても周囲が動くと、それはそれで自分にとっても環境変化になるものだなと思う。
とはいえ、私自身は会社の席をひとつ右に移っただけで、割りと淡々と仕事をしている。席は比較的静かな壁ぎわ、窓寄りの端っこ。自分の仕事の独立性を保ちたいという意思はけっこう強くあって、その辺の環境を長く維持し続けてもらっているのは、殊にありがたい。
今期は社内のこともいろいろやろうと思っているのだけど、外部のクライアントからのご相談も引き続きいただけて、これはこれで大事に続けていきたい。自分から社会に働きかけて「問題」を狩りにいく気概は乏しいのだけど、どこかで困っているというので呼ばれて相談を受けると俄然ドライブがかかって問題解決の絵を描かんとする、こういう人間にとって受託稼業というのはたいそうフィットする仕事であり、この役どころに巡りあえたことには感謝するばかりだ。
そんなわけで、今日もお客さんに出す提案書の骨子を書いていたのだけど、ひとまとまり書き上げたときに思ったのは、静けさありがたし!ということ。今日くらいの集中力を維持できる静けさがなかったら、今日のような言葉の連なりを提案書に書き表すことは、私にはできなかっただろうと振り返ったのだった。
業務環境というのは大いにパフォーマンスに影響するものだと、改めて実感したのが一つ。それはいいとして、今日は自分の周囲がけっこう出払っていてとりわけ静かだったので、それでしか今日くらいのものが書けないのではまずいな…と危機感を覚えたのが一つ。
お客さんからヒアリングした内容をひも解きながら、この研修のねらいはそもそも何なのかとか、その中でこの研修のゴールは何とすべきなのかとか、この研修をその後の現場のどんな行動変容につなげていくと研修をやった実利が出てくるのかとか、そのためには研修の中身をどんな構成で、どんな講義展開で、どんな演習なり演出で、どんな学習環境で…などと考える。
雲をつかむようなところから、地面に引きずり落としてくるところまで、お話の筋が通るように抽象度を上げ下げしながら言葉とイメージをつかんだりちぎったり格闘していこうとすると、どうしても静寂が必要になってくる。
自家発電の集中力があれば、外の環境がどうでも静寂は手に入るのかもしれないが、私はあいにくその辺のコントロールが弱くて、だいぶ環境依存である。静かな環境あっての集中力。没入感なんてなかなか得られず、私にとっては憧れの感覚だ。
でも、環境に恵まれて集中を手に入れたときは、脳内にいろんな人物が登場して充実感がある。とことん理想のビジョンを語ろうとする小人、あれもこれもと思いつくまま風呂敷を広げようとする小人、ひたすら現実的な落とし込みに熱心な小人、依頼主や受講者の心の機微に敏感な洞察力と思慮深さが売りの小人、言葉の表現にこだわる小人、話がロジカルにつながっているかに目くじらをたてる小人、風呂敷をせっせとたたむのに必死な小人、いろんな人が脳内に登場しては一家言もちだして、あーだこーだ言う。それをいいところどりしてまとめようとする小人もいる。
どの小人も別段優秀なわけじゃないが、いろんなタイプの小人が脳内に住んでいて、みんなで遠慮なく議論しあっている様はいい。にぎやかに議論して、内容が煮詰まってきて、提案書が仕上がりをみせると、水泳の後と同じような爽快感を覚える。まぁ、そこまででは自己満足。出してみてなんぼなんだけど。
何の話だっけか、ともかく今期も細々ながら役に立つ仕事を納められるように一つひとつ頑張ろうという話。あと、没入感まで贅沢は言わずとも、賑やかで濃密な脳内会議ができるよう、集中力はもう少し自家発電でいけるようにしたいところ、これは切実だ。
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