昨日、「12時間円柱描いた話読んだ?」という投げかけをもらった。「暮らしの旅あるき」というブログに書かれたお話で、最近私の周囲で話題になっていたのだ。
12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
これを読んだ&私が先日TechLIONというイベントで話した講演も聴きに来てくれた人が、双方の考え方は相反するという見方もできるかなというので、これを私がどう読んだのか、話を聴いてみたいとのことだった。
私はこれが話題になったとき、うんうんと普通に支持しながら読んだ。脳裏に、先日自分がTechLIONで話したのと、この話とが対極に感じられて、短期間に両者にふれた人の「どっちが正しいんだ」論争なり混乱なりが生じることも一応は想定したけれども、まぁそこまで大々的にどうなるというんでもないだろうと思ったし、私にとっては普通に共存できる話だったので、どっちも大事だね、というので決着していた。
声をかけてくれた人にとっても、この2つは肌感覚的に両方とも受け入れられていた。ごく自然に受け入れられるのだが、頭で明快に理解しようとすると、これってどうやって両者を共存させるものなんだ?というのがちょっともやっとする状態だった。だから前者の話し手たる私は、後者の話をどういうふうに捉えているんだろうと疑問に思った。それで仲良しなので、ここは本人に聴いてみようと問い合わせがあったわけだ。
私が、TechLIONで自分が話した話を是とし、12時間円柱の話を排除するのか。排除しないとするなら、私の中ではどんなふうに両者を共存させているのか。今回話題になった12時間円柱の話を、私はSNS上で支持する反応しか見ていなかったのだけど、その人によると「理不尽な精神論、無意味、非効率」という感じで、後には叩く意見も出てきているということだった。
で、問いを受けて自分から出てきた第一声は、「両方うまいとこどりして使ったらいいやん」であった。これはあくまで私の基本姿勢ということだけど、私は対極にあるようなものを二者とらえたときって、敵対関係より補完関係を基本にしてものをみる。なぜそうやってみるのを基本にしているかといえば、そのほうがお得だからだ。
対置する2つのものを、敵対関係とみたり優劣関係で区分けしようとすると、おのずと片方を排除することになり、自分が生きていく上での道具・打ち手を減らすことになる。それより、自分のキャパシティが許すかぎりは、両方に価値を見出して、両方とも自分の引き出しに入れておいて、適材適所使い分けられたほうが断然お得である。だから対極のものを捉えたときは、相補的な関係として頭の中に共存させる方向に動くのが基本だ。そのほうが頭の中も平和で楽ちんだ。
それに、対極の特徴をもったものの大方って、相補的な関係が成り立つものだと思っている。両極に同等の価値をもっていて、真ん中に立つ人がそれをどう捉えるか、どううまく使うかという話に思える。やり方次第で、それは毒にも作用するが。関係性をどうとらえるかは、自分が与えるフレーム次第、関係性をどう活かすかは、自分の手腕によるところも大きいのではないか。
だから、敵対関係にしか見えない、優劣関係にしか捉えられない場合には、一旦その対象物からは目を離して、自分のものの見方のほうをいじくってみている。自分が与えているその二つをくくる額縁(思考の枠組み)を別のものに差し替えられないか、それによって見え方を変えることはできないか、自分の視座を一つ高くして両方に価値を見出す見方はないものか、言葉遊びや視点の切り替えなどしてみると、新たな発見機会があったりする。こっちのほうが気持ちいいなとか、こっちのほうが有用性なり可能性があるなって捉え方に出会えたりする。
話をもとに戻して今回の件でいうと、時間かけなきゃしょうがない話と、合理的に学ぶ話って、どう区別してどう補完しあったらいいんだろうってことだけど、一つざっくり言えることとしては「知識」と「スキル」の別があるかなと思う。
特に、知識手前の「情報」については、知らないところから知っている状態って、他者の教えによって瞬時にステップアップ可能なことも多いので、知っている人に教わって知っている状態にしてしまったほうが能率的に先の学習ステップに進めるってことがままある。人類の歴史上、そんなことはいくらでもやってきた。
一方で、一般に「スキル」と言われる領域は、本人が繰り返し練習したり、いろいろ試行錯誤したり、いろんな種類を体験して内省して整理しないと身にならなかったりする。まず弁別能力が身につかない。ワインの味なんて、いくら知識を他者から学んでも、多くを飲まなきゃこれとあれは違うというふうに弁別できない。ただ、見分け方の知識をもっていることで、見分けるスキルを身につけやすくなるということはあるだろう。それを私は、相補的な関係を活かした学び方とみる。
私が話したTechLIONの講演の中の話でいえば、立川談志さんだって、全部を教えているわけじゃなくて、稽古となったら談春さん本人が数こなさなきゃ仕方ないことがわかっているから、最後は「できるようになるまで稽古しろ」と放っている。稽古にずっと付きそっているわけじゃない。稽古を繰り返して、本人が時間をかけてつかまなきゃいけないものと、ここは合理的に教えたら稽古の伸びも能率よくできるんじゃないのっていうのを、きちんと使い分けている。
加えて言えば、どういう学び方がいいかって、習得したいゴールの種類が「知識かスキルか」って違いだけで語れるものでもない。学ぶ人がどんな人で、今どんな状態で、どこで詰まっていて、どこまで行きたいかとか、学ぶ環境や時間、制約条件がどうかとか、変数が多すぎるのだ。
私の仕事は、いろんな変数が複雑に絡み合う中で、こういう学び方がいいんじゃないかっていう形を作っていく仕事だ。変数が多すぎるから、個別にデザインする価値があるのだ。
だから、細々だけどそういう仕事を生業にしている。それだって唯一無二の答えがあるわけじゃない。でも、そこで自分が出せるかぎりの知恵をしぼる。それがデザイナーの仕事じゃないかって思う。私の仕事はインストラクショナルデザインという分野だけど、他のいろんな分野のデザインの仕事も、同じじゃないかと想像する。
何かをデザインする仕事って、一般の人が一見、矛盾するものとみてどちらか一方に価値を置き、もう一方を無価値とみて排除しちゃったり、安易に優劣をつけてしまうところ、両方の特徴を見分けて、同等の価値を見出して、両方とも方法論や道具として懐にしまっておけることが大事じゃないかって思うのだ。それが、何かをデザインする人の基本的な構えじゃないかなと。
世の中にはたくさんの、AとBって対置するものがある。そのAとBの間のど真ん中に立って、両極の価値を知りながら、あちらを立てればこちらのバランスが崩れ、こちらを立てればあちらの価値が減じてしまうトレードオフを深く理解しながら、絶妙なバランスを模索して、その局面にあった輪郭を与えていって一つの形に落とし込む、それを提案・提供するのがデザインの仕事なんじゃないのかなと。
もちろん自分の専門外では、自分も「普通の人」になっちゃって、いろいろ振り回されちゃったりするんだけど、自分が専門で預かる領域の仕事道具ややり方においては、目的なり条件なり、その時々の状況に合わせて相性の合うものを選んだり、切ったり貼ったり、応用してオリジナルの形を提供できる人でありたいし、専門外の分野においても、そういう領域でみんな試行錯誤しているのだという想像力を働かせて、その道の専門家の仕事に敬意を示せるようでありたい。だから、あれもこれも排除せず、懐に入れておくのだ。
*1: これを書いていて思い出した話:「青みがかった写真」の弁別
最近のコメント