劣等感に混在する優越感
人のもつ「劣等感コンプレックス」には、「優越感」が混在していると言う。河合隼雄さんの「コンプレックス」によれば、
自分は何も価値のない人間だからと自殺を図った人が、少し元気になってくると、自分と同じように悩んでいる世界中の人を救いたいなどということがある。死ぬより仕方がないという程の劣等感と、世界の悩める人を救ってみせる程の優越感が共存しているところが、劣等感の特徴である。
これを初めて読んだとき、折にふれ感じていたことを一言で言い表してもらえた感じがして、腹にすとんと落ちる感覚を覚えた。
それを知ってからは、自分の劣等感を感知する度、それに対置する自分の優越感を早々とっ捕まえるようにした。その優越感の妥当性の低さを脳内で自分に突きつけて論破すると、意外とあっさり劣等感コンプレックスから解放されるのだ。おかげで私はずいぶん劣等感と楽につきあってこられた気がする。心がある程度健康な状態であれば、おすすめのテクニックだ。
上に引用した例はちょっとものすごいけれども、例えばキャリアカウンセラー界隈でも、こうした劣等感と優越感の混在に遭遇することがある。
「自分がキャリアに思い悩んでいるときにカウンセラーに相談して助けてもらった、自分もこういうふうに人を助けたいと思い、キャリアカウンセラーの資格をとった。これからは、キャリアに悩んでいる人の力になりたい」と言う。
ちなみに、これ自体がどうというのではない。動機というのは、それ自体で良し悪しや優劣が価値づけされるものじゃない。動機の純度をもって人の活動の価値を判断するのは、慎重さを欠いている。私は「世間の素晴らしい達成の85%までは、不純な動機から始まっています」という村上春樹の言葉が好きだ。動機と活動を混同すると、活動それ自体の価値を見誤ってしまう。
それはそれとして、いざキャリアカウンセラーとして相談者の前に立つ段になっても、「自分がカウンセラーに感謝したように、自分も相談者から感謝されたい、認められたい、すごいと思われたい」という欲求にどっぷりつかったままで、それに自覚がない状態というのは極めてまずい。
こうした自分の欲求は、まずはあるものとして受け容れて、冷静に客観視して、それとどううまくつきあうか整理しておかないと、相談者に不利益を及ぼす。カウンセリング中、自覚のないまま自分の有能感を満足させるために働いてしまう。これではどちらの問題解消にあたっているのか、わからなくなってしまう。
私がむむっと思ったことがあるのは、有資格者となりキャリアカウンセリングをやるようになったはいいが、「相談者が感情をあらわにして自分の前で泣きだした」ことだとか、「話が一向に途切れずカウンセリングが何時間にも及んだ」とかいうのを得意げに語りだすケースだ。
相談者に聴いた話の内容は、立場上・業務上・研究上の必要に応じて最低限の人に共有したり、メンターに相談するなどして対処するものであって、必要以上の内容を、必要以上の人にべらべらしゃべるものではない。
その制御がきいていない場合、「自分はここまで相談者の心の内奥に迫った、引き出した」という自分の有能ぶりを他者に見せびらかしたい欲求に基づいて話していないか、自分に厳しく嫌疑をかける処置が必要だと思う。
カウンセラーは、こういう落とし穴にはまりやすい仕事だと思うし、こういう落とし穴にだけははまっちゃいけない仕事だとも思う。本当にぎりぎりの所に立ってやる仕事だ。だからまず自問しないといけない。
カウンセラーになって、悩める人のためにつくしたいと思う人は、先ず自問しなければならない。「先ず救われるべき人は、他人なのか、それとも自分なのか」と。
カウンセラーもただの人間であり、承認欲求もあるし、自分の仕事が誰かのためになっている実感を得られればうれしい。私たちにできるのは、欲求や感情の表れを押しとどめることではなく、その表れをきちんと掌握して意識下に置くことだ。
この扱いを間違うと、自分の心の中に欲求や、認めがたい感情がわくこと自体を否定してかかる。そうすると結局、自分の中の気持ちを取り逃すことになって、コントロールができなくなる。自分が聖人だと思うと失敗するのだ。
自分の不出来さを受け入れる目をもってこそ、自分なりにいい仕事ができるってことは多分にあると思う。どうしたって自分なりの最良しか尽くせないのだから、そこは腹をくくって自分なりの最良を果たすほかない。
それでもカウンセラーには、自分の側に相当の安定感が必要だし、相談者が負の心理状態で対面しても、はねのけず、むやみに引っ張り上げることもせず、じっくり心を寄せつつも、問題解決のシナリオも頭の中で模索し続けて一緒に考える、それを「上っ面じゃなく、きちんとやる」という強靭な精神力を要する。
なんてことをだらだら書いた後に思うのは、こうやって言葉を重ねて自分の領域を締め上げていくと、どんどん不寛容になっていって、身動きがとれなくなっていくんだよな、ということ。自分の行動の縛りを自分できつくしていって、隠居した婆さんのように腰が重たくなり、結局おまえ何の役にも立ってないじゃないかってことになる。書いているこの時間こそが、自分の中に幻の有能感を育てているんじゃないか、とも疑わしく思えてくる。
何事も加減なんだよな。加減って難しい。とりあえず頭と体と心をバランスよく動かすが吉なんだろう。意識をどうこうって考えるより、時間の使い方を少しいじると良さそうだ。
*引用:河合隼雄「コンプレックス」(岩波新書)
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