とりとめもない大事なこと
敬愛する河合隼雄さんの「ユング心理学入門」やら「コンプレックス」など読み返していると、こんな深淵で壮大なこと、自分の言葉で的確に言い表せる日は一生来ないな、と思い至る。先日おしゃべりの流れでこの手の話になったのだけど、その場でうまいこと説明ができず、もっときちんと要点を整理して伝えられたらとページをめくり直してみたのだけど、まぁ到底無理なのだった。読めば読むほどに、到底無理だなということがひしひしとわかるばかりなのだった…。
私はそこを分かりやすく説明できる器じゃないなと思い知るとともに、そこを説明できることが自分の欲なり志しの核心にあるのでもないな、とも感じた。もちろん、そこにあるものを場面場面に応じて説明もでき、実用もできれば、それに越したことはない。そうなれたら嬉しい。けれど、私にはそれはちょっと身の丈を超えすぎている。そこを論じる研究者や学者のもつ欲や志しも正直見当たらない。
ただ一方で、この深淵で壮大すぎるものを(自分なりに)自分の中に宿して生きること、実用すること、これをうちにもって人に向き合うことはできるんじゃないかと、恐れ多くも思っていた。自分の欲なり志しなりも、そちらには感じられるのだった。
それは例えば、目の前にいる人の心の中にある、柔らかい核心をすくい上げるように話を聴くこと、言ってしまえばそれくらいのことだ。外的にみれば、ほとんどとりとめもないことだ。けれど、私にはそれがたいそう尊いことに思える。たいそう難儀なことだとも思う。そう思う人間が、その社会的価値がどうあれ、本当にそれをやろうと努めることには、一つの意味があるんじゃないかと思う。
あきらめが早いだけかもしれないが、仕方ないことは仕方ないとして、自分のできること、自分の心の向くほう、自分の目の前のことを大事にしようと。それでがっかりされても、それが自分なのだから仕方ない。それはもう、己の身の丈を自分で引き受けるほかないのだ。気張らないでいこう。そして自分の無理なところは素直に人に吸収させてもらって感謝すればいいのだ。
そう開き直ってみると、結局は誰しもそうなのかもしれないな、と思い至る。自分と比較するものじゃないが、ユングだって河合隼雄さんだって、膨大な臨床経験のもとに深淵で壮大な概念を語っているのだ。同時代を生きる周囲の多くの実務家だってそうである。何かを語ることができるのは、その人の背後に百、千、万の下支えする実体験があるからなのだ。それなしに何かを語ろうなんて、考えてみれば欲が芽生えないのも当然だし、志しの持ちようがないのも当然だ。
一つひとつ自分の持ちぶんを積み重ねているうち、おのずと抽象化してこぼれ落ちていく自分の言葉をつかまえたり、人の与えてくれる言葉と実体験を関連づけたりしながら、頭の中を時おり外化していけたらいいなと思う。まったく、ごちゃごちゃした話だ。
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