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2016-03-30

Bluetoothキーボードを買った

マイクロソフトの折りたたみ式Bluetoothキーボード、ユニバーサルフォールダブルキーボードなるものを買ってしまった。

Microsoft Universal Foldable Keyboard

先日、家電量販店で見かけて一目惚れ。何この薄さ!何この軽さ!何この小ささ!それでいて何このしっかりした打鍵感!と魅了された。あの日はタブレットを見に行ったのに、キーボードに心奪われて帰ってきたのだった(大人力を発揮して、買いはしなかった)。

落ち着いて考えてみよう。確かに、タブレットとスマホ持ちだったら、Bluetoothキーボードも重宝するだろう。けど、私はそもそも目当てのタブレットを買っていない。スマホだけしか持っていないで、あれ買って、実際どれくらい使うものだろうか。スマホのフリック入力もそこそこのスピードでは打てるし、スマホ画面の小ささ前提だと、そんなにキーボード使いたい状況って実は発生しないんじゃなかろうか。結局買っても使わないんじゃないかなぁ。

でも、ほら、あれじゃない、目当てのものと違うものに巡りあって全然違うもの買っちゃって、思いがけず世界広がったわーっていうのが、リアル店舗行く醍醐味ってもんじゃないの。それもそうだわね、あなたうまいこと言うわねぇ。なんてのを1週間だか10日だかやっていて、本日コーヒー飲んだ帰り道に酔った勢いでつい買ってしまった…。

ざっくり魅力を一覧すると。

・すごい薄い!(折りたたみ時11.5mm)
・すごい軽い!(180g)
・すごいコンパクト!(折りたたみ時の幅147.6mm)
・なのに、しっかりした打鍵感
・最大2台のデバイスとペアリング、ワンタッチで切替
・USBで充電、1回のフル充電で3ヶ月もつ(らしい)
・防滴
・PC/スマホ/タブレットの最近のOS一通り対応
・ダークグレイに白色LEDが美しい(安っぽくない)
・コピペ(x、c、v)、やり直し(z)ができるの素晴らしい
・店頭9,750円(税抜)は安くはないが、まぁまずまず

久しぶりにデジモノに心ときめいたから、買って後悔はない。が、気になったことは2つ。一つは、最初のペアリング接続のときに、それ用のボタンを「長押し3秒」するらしいのだけど、この案内ではわからなかった…。これはあれだ、「わかってる側から見ると意味わかるけど、わかってない側から見ると意味わからない説明」というやつだ。前者から見るとタイマーに見えるが、後者から見るとメロンに見える。

というのは、もうわかったからいいんだけど、もう一つは、「Enter」の位置が普通のキーボードより丸ひとつ分内側に入っている感じで、「Enter」の度にミスタイプ。なかなか慣れず、相当使わないと慣れる気がしない。あとは、実際どれくらい使うことになるか…。とりあえず、うまいことつきあっていきたい。で、タブレットは保留のままだ。

2016-03-29

劣等感に混在する優越感

人のもつ「劣等感コンプレックス」には、「優越感」が混在していると言う。河合隼雄さんの「コンプレックス」によれば、

自分は何も価値のない人間だからと自殺を図った人が、少し元気になってくると、自分と同じように悩んでいる世界中の人を救いたいなどということがある。死ぬより仕方がないという程の劣等感と、世界の悩める人を救ってみせる程の優越感が共存しているところが、劣等感の特徴である。

これを初めて読んだとき、折にふれ感じていたことを一言で言い表してもらえた感じがして、腹にすとんと落ちる感覚を覚えた。

それを知ってからは、自分の劣等感を感知する度、それに対置する自分の優越感を早々とっ捕まえるようにした。その優越感の妥当性の低さを脳内で自分に突きつけて論破すると、意外とあっさり劣等感コンプレックスから解放されるのだ。おかげで私はずいぶん劣等感と楽につきあってこられた気がする。心がある程度健康な状態であれば、おすすめのテクニックだ。

上に引用した例はちょっとものすごいけれども、例えばキャリアカウンセラー界隈でも、こうした劣等感と優越感の混在に遭遇することがある。

「自分がキャリアに思い悩んでいるときにカウンセラーに相談して助けてもらった、自分もこういうふうに人を助けたいと思い、キャリアカウンセラーの資格をとった。これからは、キャリアに悩んでいる人の力になりたい」と言う。

ちなみに、これ自体がどうというのではない。動機というのは、それ自体で良し悪しや優劣が価値づけされるものじゃない。動機の純度をもって人の活動の価値を判断するのは、慎重さを欠いている。私は「世間の素晴らしい達成の85%までは、不純な動機から始まっています」という村上春樹の言葉が好きだ。動機と活動を混同すると、活動それ自体の価値を見誤ってしまう。

それはそれとして、いざキャリアカウンセラーとして相談者の前に立つ段になっても、「自分がカウンセラーに感謝したように、自分も相談者から感謝されたい、認められたい、すごいと思われたい」という欲求にどっぷりつかったままで、それに自覚がない状態というのは極めてまずい。

こうした自分の欲求は、まずはあるものとして受け容れて、冷静に客観視して、それとどううまくつきあうか整理しておかないと、相談者に不利益を及ぼす。カウンセリング中、自覚のないまま自分の有能感を満足させるために働いてしまう。これではどちらの問題解消にあたっているのか、わからなくなってしまう。

私がむむっと思ったことがあるのは、有資格者となりキャリアカウンセリングをやるようになったはいいが、「相談者が感情をあらわにして自分の前で泣きだした」ことだとか、「話が一向に途切れずカウンセリングが何時間にも及んだ」とかいうのを得意げに語りだすケースだ。

相談者に聴いた話の内容は、立場上・業務上・研究上の必要に応じて最低限の人に共有したり、メンターに相談するなどして対処するものであって、必要以上の内容を、必要以上の人にべらべらしゃべるものではない。

その制御がきいていない場合、「自分はここまで相談者の心の内奥に迫った、引き出した」という自分の有能ぶりを他者に見せびらかしたい欲求に基づいて話していないか、自分に厳しく嫌疑をかける処置が必要だと思う。

カウンセラーは、こういう落とし穴にはまりやすい仕事だと思うし、こういう落とし穴にだけははまっちゃいけない仕事だとも思う。本当にぎりぎりの所に立ってやる仕事だ。だからまず自問しないといけない。

カウンセラーになって、悩める人のためにつくしたいと思う人は、先ず自問しなければならない。「先ず救われるべき人は、他人なのか、それとも自分なのか」と。

カウンセラーもただの人間であり、承認欲求もあるし、自分の仕事が誰かのためになっている実感を得られればうれしい。私たちにできるのは、欲求や感情の表れを押しとどめることではなく、その表れをきちんと掌握して意識下に置くことだ。

この扱いを間違うと、自分の心の中に欲求や、認めがたい感情がわくこと自体を否定してかかる。そうすると結局、自分の中の気持ちを取り逃すことになって、コントロールができなくなる。自分が聖人だと思うと失敗するのだ。

自分の不出来さを受け入れる目をもってこそ、自分なりにいい仕事ができるってことは多分にあると思う。どうしたって自分なりの最良しか尽くせないのだから、そこは腹をくくって自分なりの最良を果たすほかない。

それでもカウンセラーには、自分の側に相当の安定感が必要だし、相談者が負の心理状態で対面しても、はねのけず、むやみに引っ張り上げることもせず、じっくり心を寄せつつも、問題解決のシナリオも頭の中で模索し続けて一緒に考える、それを「上っ面じゃなく、きちんとやる」という強靭な精神力を要する。

なんてことをだらだら書いた後に思うのは、こうやって言葉を重ねて自分の領域を締め上げていくと、どんどん不寛容になっていって、身動きがとれなくなっていくんだよな、ということ。自分の行動の縛りを自分できつくしていって、隠居した婆さんのように腰が重たくなり、結局おまえ何の役にも立ってないじゃないかってことになる。書いているこの時間こそが、自分の中に幻の有能感を育てているんじゃないか、とも疑わしく思えてくる。

何事も加減なんだよな。加減って難しい。とりあえず頭と体と心をバランスよく動かすが吉なんだろう。意識をどうこうって考えるより、時間の使い方を少しいじると良さそうだ。

*引用:河合隼雄「コンプレックス」(岩波新書)

2016-03-27

人の気まぐれ、失業が生んだ文学

今日はふらっと神保町に行った。帰り道、なんとなく電車に乗るのをやめて靖国通りをてくてく歩いてみたら、ずっと桜の木の下を歩くこととなった。歩きだした時には桜の見頃だなんてすっかり忘れていたのに、気まぐれというのは不思議なものだ。

まぁでも、桜の木の下を数キロ歩いてみたものの大方は三分咲きといったところ。見頃は今週火曜からのぽかぽか陽気を迎えたあたりではなかろうか。

ただ、なぜだか靖国神社の付近だけ七分咲きか、八分咲きかというほど開いているのがあった。あれはなんだったんだろう。日当たりは他と同じようだったのに。「あたし見られてる」的な気合いがそうさせるのかしら。

さて、神保町を訪れたのも気まぐれなら、この本を手にしたのも気まぐれ。エリック・ホッファーの「現代という時代の気質」というエッセイ集がおもしろい。ホッファーは65歳まで沖仲仕として働いた独学の哲学者。

これによると、「文字」というのは紀元前三千年ごろに中東で発明されたらしい。何を最初の文字とするかで諸説あるのかもしれないが。いずれにせよ、文字の発明は「知識や観念の伝達に革命をもたらし、人間の歴史に一時代を画した」と言われる。

ただ実際には、文字の発明から何世紀もの間、その用途は「ひたすら財宝や倉庫の出入をもらさず記録する」にすぎなかったという。文字は書物を書くためではなく、帳簿をつけるために発明された。文字の技術を生業とした書記者は文官(事務官兼簿記係)だった。書記は何世紀もの間、記録をとりつづけた。彼らはその役割の範囲を超えることなく、苦情も夢想もしなかった。

その後どの文明でも、ある時点で書記は「作家」として登場するようになる。古代文明において「文学」がはじめて出現する。では、書記はどのような動機で著作活動を始めたのか。というと、答えはどの場合も同じで、失業したときからものを書き始めたという。エジプトでも、シュメールでも、ギリシャでも、中国でも。

一王国や一時代の崩壊を機に、書記が突如として地位を失う。やるべきことがなくなり、アイデンティティを奪われたとき、彼らは文筆業でもってふたたび脚光を浴びようと試みた。

みずからが有用であるという感覚の喪失と感動的な行動へのはげしい願望が、あらゆる人々(略)の内面で創造的な流れの堰を切ることがある

「現代という時代の気質」に収められたエッセイはどれも1960年代に書かれたものなんだけど、ここでいう「現代」がまったくもって今に通じていて、50年やそこらでは終わらない変化のただ中に、今自分は生きているのだということを実感させられる。

オートメーション化によって多数の失業者が出るとの予想は、当時も今も問題に挙げられる。ただホッファーは、人間に困難なのは「オートメーション化」を受け容れることではなく、「ドラスティックな変化」を受け容れることだとしていて、これもなるほどなぁ、確かになぁと。

ドラスティックな変化って何かというと、ホッファーは「現代の主要な困難と課題」として、序文に4つの変化を想定している。

  1. 後進性から近代性への変化
  2. 従属から平等への変化
  3. 貧困から富裕への変化
  4. 仕事から余暇への変化

そう、どれも「きわめて望ましい変化、人類が幾千年もの間祈り求めてきた変化」。としつつ、

しかし、いかに望ましかろうと、ドラスティックな変化は人類がかつて経験した中で最も困難で危険な経験であるということもあきらかになりつつある。

習慣を断つことは「苦痛で損傷が大き」いし、価値を分解させることは「致命的な死の灰を降らせるかもしれない」。

こうした変化に直面する現代、人はどうなるか。ホッファーは二つの可能性、闇と光を示唆している。

一つは闇。

熟練したきわめて有能な人々が、自らが有用で価値があるという感覚をもてずに徒食する(略)。無為を余儀なくされた有能な人間の集団ほど爆発しやすいものはない。

もう一つは光。

過激主義や不寛容を生むような満たされぬ行為への願望が創造的エネルギーをどっと放流するかもしれないということが、人間本性の気まぐれな特徴のひとつである。

既存のものがくつがえされる中、その先に新しい価値を創造することができるかどうか。後者の気まぐれに期待を寄せたい。

あと、これもなぁ。

われわれは革命が変化の原因である、と考えていた。実際はその逆で、変化が革命の地盤を準備するのだ。(中略) 変化が先なのだ。事態が全然変化しないところでは、革命の可能性は最も少ない。

変化が先で、革命は後。読んでは、確かになぁ、なるほどなぁと、もう、そればっかり、感心しきり。

*エリック・ホッファー「現代という時代の気質」(ちくま学芸文庫)

2016-03-24

とりとめもない大事なこと

敬愛する河合隼雄さんの「ユング心理学入門」やら「コンプレックス」など読み返していると、こんな深淵で壮大なこと、自分の言葉で的確に言い表せる日は一生来ないな、と思い至る。先日おしゃべりの流れでこの手の話になったのだけど、その場でうまいこと説明ができず、もっときちんと要点を整理して伝えられたらとページをめくり直してみたのだけど、まぁ到底無理なのだった。読めば読むほどに、到底無理だなということがひしひしとわかるばかりなのだった…。

私はそこを分かりやすく説明できる器じゃないなと思い知るとともに、そこを説明できることが自分の欲なり志しの核心にあるのでもないな、とも感じた。もちろん、そこにあるものを場面場面に応じて説明もでき、実用もできれば、それに越したことはない。そうなれたら嬉しい。けれど、私にはそれはちょっと身の丈を超えすぎている。そこを論じる研究者や学者のもつ欲や志しも正直見当たらない。

ただ一方で、この深淵で壮大すぎるものを(自分なりに)自分の中に宿して生きること、実用すること、これをうちにもって人に向き合うことはできるんじゃないかと、恐れ多くも思っていた。自分の欲なり志しなりも、そちらには感じられるのだった。

それは例えば、目の前にいる人の心の中にある、柔らかい核心をすくい上げるように話を聴くこと、言ってしまえばそれくらいのことだ。外的にみれば、ほとんどとりとめもないことだ。けれど、私にはそれがたいそう尊いことに思える。たいそう難儀なことだとも思う。そう思う人間が、その社会的価値がどうあれ、本当にそれをやろうと努めることには、一つの意味があるんじゃないかと思う。

あきらめが早いだけかもしれないが、仕方ないことは仕方ないとして、自分のできること、自分の心の向くほう、自分の目の前のことを大事にしようと。それでがっかりされても、それが自分なのだから仕方ない。それはもう、己の身の丈を自分で引き受けるほかないのだ。気張らないでいこう。そして自分の無理なところは素直に人に吸収させてもらって感謝すればいいのだ。

そう開き直ってみると、結局は誰しもそうなのかもしれないな、と思い至る。自分と比較するものじゃないが、ユングだって河合隼雄さんだって、膨大な臨床経験のもとに深淵で壮大な概念を語っているのだ。同時代を生きる周囲の多くの実務家だってそうである。何かを語ることができるのは、その人の背後に百、千、万の下支えする実体験があるからなのだ。それなしに何かを語ろうなんて、考えてみれば欲が芽生えないのも当然だし、志しの持ちようがないのも当然だ。

一つひとつ自分の持ちぶんを積み重ねているうち、おのずと抽象化してこぼれ落ちていく自分の言葉をつかまえたり、人の与えてくれる言葉と実体験を関連づけたりしながら、頭の中を時おり外化していけたらいいなと思う。まったく、ごちゃごちゃした話だ。

2016-03-17

夢への立ち入り禁止

花粉症になって、かれこれ7、8年になるだろうか。もっとかな。ちょうどみんなが続々と花粉症になっていく時期に私も流れに乗ってデビューしてしまったのだけど、一度なると治る人は稀なので(毎年期待するんだけど)、花粉症人口は増加の一途をたどり、花粉症対策の薬や関連グッズも年々充実していっている。

何年か前にアレグラという内服薬が一世を風靡して、私も手を出してみたけど、ある時ふと取説に目をやったら、副作用のところに「悪夢」と書いてあって、ぎょぎょぎょーっと思って飲むのを止めた。

以来、花粉症対策の内服薬には一切手を出していない。悪夢をみるのももちろん嫌なのだけど、薬の影響が夢に及ぶというのがこわいのだ。無防備の自分を乗っ取られる感じがして、それだけは勘弁と思ってしまう。

それが最近、もう一つ副作用が悪夢のものを発見してしまった。電気毛布だ。たぶん取説には書いていないと思うけど。

私はこの冬からだったか、敷き電気毛布を導入してホクホク寝ているのだけど(この買い物はして本当に良かった)、温度設定が1から7くらいまであって、これを3にすると決まって悪夢をみる。

通常は2にしているのだけど、特に寒い日などは3に合わせて寝た。そして悪夢をみた。これが何度か続いた。因果関係を言い切れるほど実験を重ねたわけじゃないが、続ける気もない。とにかく個人的に、電気毛布の温度設定は2にとどめておいたほうが身のためだと思うに至った。

私は普段、夢ってみているとしてもあまり覚えていなくて(だからみていないと思っている)、みたとしてもぼんやり曖昧な表現のものが多いんだけど、電気毛布3でみる夢は描かれるものが具象的で、線や色や質感がはっきりしていて対極的だ。それだけでも誰か他の人が創っているんじゃないかという感じがして不気味さがある。

無意識なんて自分の管理下にないんだけど、できるだけ異物が混入しないように生きていきたい。生きている間はできるだけ自然の純度を保って、自分のもとで意識から無意識への道筋をすーっと通しておきたい。いつか、遅くとも死ぬ直前には、自分が誰だかわからないという瞬間がやってくるのだろう。意識も手放した状態になってしまうんだろう。っていうのを考えるととってもこわいけど、意識があるうちはできるだけ、すーっとしておきたい(イメージです)。

2016-03-09

さらば30代

私の人生の30代が終わった。今日から40代だ。いやぁ、なんか、なんとなくなった気もするし、どすんとくる気もする。前夜は珍しく遅くまで外にいて、帰り道に0時を迎えたので、気がついたら四十になっていたんだけど、家に帰り着いて、あぁ終わったんだなぁと。人間が設けた、ただの節目じゃないかとも思いつつ、やっぱり十の位が変わるのは、そうでない誕生日とくらべて感慨深いものがあるなとも思う。

それも40代となると、人生の前半戦は終わり、もう二度と舞い戻ることはない感じがある。人生の終末が見えてくる復路の感じもありつつ、また一方で今がまっただ中じゃないか、今やらんでどうする、先々なんてないんだぞ、という感じもある。

そうやって振り返ると、30代はやっぱり、まだ若い感じがあったんだな。40代はもうどうしたって若くない感じがする。けど、70代から見たらまだまだ若い、現役ばりばりって世代とも思う。

ともあれ、気がつけば、問題提起している場合じゃなくて、待ったなし、言い訳なしの、問題解決する世代になっている。べきだとか、いかがなものかとか、これってどうなんだろう…なんてぶつぶつ言っている場合ではない。そう思うなら動け、という世代である。おまえの世代が動かなくてどうするんだよ、という世代である。

私はどうも、母がなくなった59歳を基準に自分の人生をとらえるのが癖になっている。そうすると、あと20年ないのか(もしれないのか)と思ってしまう。それで人生終わるとか考えると、やっぱりけっこう恐怖なのだった。

まぁだからといって縮こまっていてもそれこそもったいないので、会いたい人に会い、やりたいことをやり、健康に過ごして、幸せだったなぁって感謝できるように生きていくほかない。いつかいなくなっちゃうなんて、尊い世界だなぁと切に思いながら、一日を大事に生きていくほかないのだよな。

30代は歳をおうごと暮らしぶりが地味になっていった感があるんだけど、節目の40歳は、もう少し軽やかに、にぎにぎしくいけたらいいかな。40代は、さわさわと生きたいなと思います。この先10年も、よろしくお願いします。

2016-03-07

職種もロングテール

ちょうど今日、チームラボの猪子さんのインタビュー記事を読んでいて、最近考えていたことと重なるところがあったのでメモ。

ウェブサービスの会社というのは、理論上はやがて、すべてなくなると思っているんですね。たぶんグローバル・ワンサービスみたいになっていくと思うんだよね。(*1)

「一般性が高くて普遍的なもの」って、世界を牽引するごく少数の頭脳明晰で資金力ある人たちが研究し、発見し、社会に役立つようにひとつ大きな仕組みを作ってインフラサービス化しちゃったら、もう後いらないよなぁと。Google検索とかAmazonとかAWSとか。

一方、個別具体的なサービスというのは「数」を生み出しやすい。一つの普遍的な言説を、地域別でもカテゴリー別でもターゲット別でも、個別最適して価値化できる数だけサービス展開できる。

それに、人が発見した普遍的な言説をもとに始められるし、よそで個別最適化しているサービスに学んで、こっちでやってみても有効じゃないかと発想できる。その先の最適化の道のりはオリジナルにたどる必要があるけど、前者に比べればサービスの発想(発見)難易度は低いし、守備範囲も狭いから、実践の中で小さくPDCAをまわしていきやすい。それだって発展的に続けるのはもちろん難しいわけだけど、とにかく大きいのがひとつ普及しちゃったらおしまいってことにはならない。

そうすると、自分を含む多くの人たちの仕事は、グローバル・ワンサービスを活用したり差別化したりしつつ個別具体的な仕事をして「自分の傍(はた)を楽にする」(働くの語源だそうな)ことになるのかなと。

よく「何十年後になくなる仕事」とかがニュースになっているけど、今後の職種分類を考えると、わかりやすく一般化できる「これの専門」って職種の人は、ごく限定的になって、いろんな強みを掛けあわせた仕事、職種名が曖昧な仕事を担う人が増えて、自分が何かといろいろと役立つところで働いています、みたいな感じになるのかもなぁと考えた。職種より広義に、役割とか立ち位置とか活動拠点とか。

「これからはT型よりH型・π型人間が必要だ」とかもよく聞くけど、2コ3コ柱があるとかじゃなくて、この人は「A業界でのBの職務が人並みにできて、前職でC業界の経験があるからその辺の業界知識もそこそこあって人脈もある。学校ではD学を専攻していたからそっちも苦手じゃないし、友人関係でそっちの業界にも顔が利く。実家の稼業が○○県のE屋だからその辺の文化・風土も理解がある。愛嬌もあるし気も利くから、きっとこの辺に身をおいたら、いろいろやりたいこと、できることあるんじゃないの」とか、多くの人の仕事はそういういろんな小さな柱と、運やら縁やらをごちゃまぜにして、全人格的に関わっていくのかもしれないなぁなどと思う。

これまでも実際はそうだった気もする。そう考えると、これまでが職種分類を、実際より偏重ぎみに机上で扱っていただけなのかもしれない。

だいぶ雑に思いつきで書いているんだけど…。とにかく個別具体的で状況依存的な仕事なり活動は、世の中のそこら中にある。範囲は狭くとも、具体的な場所で、頭と体と心をくだいて人に役立つことに向かっていれば、ものすごい頭が良くなくても回転が速くなくてもそれなりにやっていける仕事・活動はバラエティ豊かにあるかなぁと。少なくとも、その数は「一般性が高くて普遍的なもの」を提供する仕事より数多く確保されるかなぁと、自分に都合のいい見通しを立てている。逆にいえば、「とにかくビッグな仕事」「多くの人の目にふれる仕事」とかにこだわっていると、仕事探しは昔よりも大変かもしれない。

「個別具体化したものの有用性は、その再利用性に反比例する」という再利用性のパラドックスがある。なにかを個別に作りこめば作りこむほど、その再利用は難しくなる。裏返すと、再利用性を重視して作りこめば作りこむほど、かゆいところには手が届かぬサービスとなる。

社会に価値提供できる範囲は狭くとも、一つひとつ作りこんで個別最適化したノウハウは自分の中にたまり、他での経験とも関連づいてシナプスが太くなっていく。そのままでは再利用性がないけれど、自分の中の一段上のレイヤーで暗黙知化されるそれは、「再利用できる汎用スキル」となる。そうやってニッチに手づくりで傍を楽にする仕事に人生をささげられたら幸せだ。その過程で形式知→システム化できるところも新たに出てきて、それはそれで後にプロダクトなりサービスなりに展開できるかもしれない。という能天気な脳内イメージをもっている。

*1:【亀山×猪子】猪子に出会ったから、自分は今のキャラになった┃NewsPicks

2016-03-05

洗練される定義、乖離する現実

仕事の役割分担でいうと、できるだけ多くの仕事領域を(一人と言わずとも)一つの職種でまかなってくれたほうが、チーム体制もシンプルだし、職種を新たに考えて作る必要もないので、話が早い。そうすると、インターネット界隈のように、その発展とともに仕事内容が専門分化しているまっただ中の業界では、一度定着した「Webデザイナー」なり「Webディレクター」なりの職種名はそのままに、そこに求められる職務範囲は拡張し、内容は複雑化し、レベルは高度化していく。あれもできてほしい、これもできてほしいとジョブディスクリプションの厚みは増していき、さすがにこれを「ひとりの人間の職務」とするのは無茶じゃない?っとハッとするその日まで、それが続く。これが自然な流れだろうか。

職種名というのは、個々の人間に直結したものではなく、ひとつの概念だ。概念を定義づけるジョブディスクリプションは、日ごとに洗練されて美しくなる。自分の職種名の記述が、あれもできるこれもできる人と洗練されていくのは気持ちがいいし、「我々はこうあるべきなのだ」と目標を明示的に掲げて共有することで、自身や組織、コミュニティを鼓舞する価値も見いだせる。企業視点でも、こういう人がいてくれたらなぁと採用したい像を言葉にあらわしていくと、どんどん完璧な像に仕上がっていく。概念というのは有形でなく、概念を示す職種名にはいろんな意味を与えられる。

一方で、概念を表す言葉って、推敲されて洗練されればされるほど現実から遠のいていく側面をもつのではないかと思う。それを全部満たすスーパーマンなんて早々いないよねってことになっていく。

まったくいないことはない。けど、そのスーパーマンを雇うだけの報酬や待遇、仕事内容、職場環境を、自社で用意できる企業、それを発信してスーパーマンに届けるだけの広報・宣伝力がある企業は、洗練さと反比例して減じていく。となると、自社の採用市場性を踏まえて、現実的な着地点まで要件を削り落とさないといけない。

企業は自社の市場性を忘れて採用活動を考えがちだし、個人は自分の市場性を忘れて求職活動を考えがちだ。自分のことは棚に上げて、市場に文句をつけたほうが楽なのだけど、解決は遠のく。市場の側より自分の側に問題点を設定したほうが解決策は講じやすい。

企業なら、特に市場に出回っていない新しい&難しい職能を求める場合、「全部入りの即戦力」前提ではなく、基本は外で買えないものと頭を切り替えて、種を買って育てる「ポテンシャル採用」を前提にしたほうが、望む体制づくりが能率的に進むかもしれない。

個人の側も、抽象語りに溺れてしまわないように注意して、「こうあるべきだ」の目標ことばを研ぎ澄ます時間はそこそこに、個別具体的な仕事をきちんと一つひとつ試行錯誤してやりぬくこと、その目の前の仕事をどれだけきちんとやり遂げられたのかを内省する時間を長めにとったほうが、実質伸びるんじゃないかなって気がする。キャリアデザインにおいて言えば、時間のかけ方はデザインする時間を短く濃厚に、現場でドリフトする時間を長く実直にもったほうが振り返って充実した人生を送れそう。

2016-03-01

むちゃな概念化

自分の身の周りの誰かなり一集団が、自分にとって解せない生き物だからというので、「○○とは解せない生き物だ」と、その概念全般を取り上げて断じてしまうのは世の中的にNGだ。

世の中的にNGなのだから、世の中に発信しなければ事は軽いわけで、もしそれでストレスがたまっていて如何ともしがたい状況であれば、例えば居酒屋の個室をとって、聞き流してくれる気の置けない友人に愚痴をこぼすというのであれば、鬱憤をためるより健康的かもしれない。手元のメモ帳に思いの丈をとりあえず走り書きするのもありかもしれない。話しているうち、書いているうちに、自分の側にもむちゃなところがあった気がするとかって内省できることもあるかもしれないし。誰でも見られるWebページのように「世の中」にこぼす以外の選択肢を用意できているといいのだと思う。

最近、とある「概念A」で自分が散々な目に遭ったというので、その「概念全般」を指して「あれ系は全部ダメだ」と放言してしまう事案を見聞きすることがある。でも、それはだいたい拡大解釈というやつなので、とりあえず一呼吸して「あれ系は全部ダメだ」という前に「例外はないのか」と問う時間を挟んでみるといいのだと思う。

そこで「例外なんてない、全部が全部ダメに決まってる!」と思う場合はおそらく冷静さを欠いているから、一晩寝かせると良さそうだ。一晩寝かせる余裕なんてないという場合には、「世の中」に発信するのではなくて、人気のない洞穴や原っぱや海岸や森林、騒がしすぎる居酒屋かカラオケボックスあたりで吐き出すとか。あるいは、Web上に乗っからないメモ帳でもいいし、誰か信頼をおけて迷惑がらなそうな友人宛のメールでも。

ひどいタクシー体験、ひどいコンビニ体験、ひどい若者体験、ひどい年配者体験、どこの話でも誰の話でも、とにかくひとっとびに「概念全般」にもっていかないのがいい。新宿、巣鴨、宮崎、札幌、岩手、ニューヨーク、たくさんいるタクシー運転手、コンビニ店員、若者、年配者の中で、本当に8〜9割がたがそうなのか、そう言い切れるだろうかと考えてみる。8〜9割そうだというのは、なかなかない。5〜6割そうだというのでも「概念全般」でくくってしまうのはちょっと乱暴だ。「例外」がどれくらいの大きさでありそうか伺ってみる一呼吸が肝要だ。

「世の中」に発信するというのは、自分の想定する「例外」の人も読むということだし、「例外」をよく知る人も読むということだ。それは人を不穏に陥れるし、不快や不愉快を生む。発信者と知り合いじゃない分、受け手側も反発しか覚えられない。書き手側につらい体験があったことを推し量るなど、なかなか難しい注文だ。

人はよく「一から十を学ぶ」ことを推奨するけれども、「一の体験から拡大解釈して十を学ばない」ことも大事だ。一から下手に学びすぎてもよろしくない。

いやいや、リスクを伴うわけだから、とにかく一度何かで嫌な目にあったら「これ系全般は要注意、近寄るべからず」って思っておくくらいが安全だと、そういう見方もありっちゃありかもしれない。だけど、何かあるごと、一の体験を十に広げて「これ系は全般ダメ」と自分の世界から排除していくと、どうなるか。すべてのリスクを完全に回避していった先に残るのは何もしない人生だけだ。それだと、本当につまらない人生になってしまう。だからやっぱり、バランスをとっていかざるをえない。やわらかく、いい按配でやっていきたい。

# って言いながら、だいぶ走り書いた状態でこれを人様にさらす私…

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