世代論のおしゃべり
今日はたのしい会食だった。いろいろな話題にとんだけど、ひとつ世代論の話になった。私が質問をふったからだけど…。普段若い人とたくさんお話ししている人に、若い人のことや世代論をどう捉えているかなど、ざっくばらんにお話を聴けるのは健全で良い。どうしてもこういうのって、話してもいないのに、あるいは自分の身の周りのごく少数をみて「若者論」を振りかざしてしまうのが世の常、人の常。実際、生身の若者によく触れている人に話を聴くと、そうそう極端な若者論は出てこない。おんなじ人間だし、個体差もあるしな。とはいえ、やっぱりここが違うなぁという世代差を聴くのがまたおもしろい。
世代論といえば、この間も客先で、おしゃべり半分に話をしていた(まじめな話をした後に)。「こちらは若手を、ゆとり世代ださとり世代だと言っていても、若手からこちらをみたら、昔堅気の職人気質世代で頭堅いわ合理性に欠けるわと思われているかもしれない。世代の見方なんて相対的なもので、こちらからの見方が正しく、あちらからの見方がずれてるとかって話じゃないですものねー」とザクザク、げらげら。
そういえば最近読んだ本でも、この手の話にふれた。先週末に実家へ帰った時、以前ここでも取り上げた立川談春の「赤めだか」をおみやげに持って帰ったら、父のほうもちょうど最近読み終えたという原宏一の「握る男」を貸してくれたのだ。面白くて400ページほどを一気に読み終えた(といっても読むのが遅いので1週間かかったが…)。
両国の鮨屋に見習いとしてやってきた16歳の少年が、鮨屋にとどまらず外食チェーン、食品業界を全国またにかけて成り上がっていくさま(と、その行く末)を、当初は兄弟子だったが途中から臣下に転じる6歳年上の主人公の目線から描く27年間。
今の時代から振り返るように書かれているから、昭和50年代を生きた私のような読者だと、当時「子ども」だった当事者目線ももって読むし、今を生きる「大人」になった自分の目線でも読むし、双方を見渡した俯瞰視点からも読む。しぜんと複眼的に物語を味わってしまう構造になっていることが、私の年頃から上世代に独特の読書体験を与えてくれているように思った。
さて、鮨屋で修行する16歳の少年が、6歳年上の兄弟子分にふっかけるセリフを2つ。
山城の言うことなんか聞いてるからダメなんすよ。オカラで練習しろだの序列がどうだの、ああいう古い職人のこだわりが伸びる才能を潰しちゃうわけで。昔のやり方のほうがいいんなら、世の中、進歩してないすよ。実際、握り鮨だって日本伝統の食べ物ってことになってるけど、いま食べられてる鮨なんて最近のものなんすから
これは昭和56年当時に戻って、少年目線で読むと小気味よい。一方で大人になった自分が、古い職人のこだわりを振りかざしていないか、ちょっと自分の陳列棚を検品してみたくもなる。
昔ながらのやり方やしきたりにこだわるやつってのは、基本的に自分の頭じゃ考えられない小心者なんすよ。新しいものには柔軟に対応できない。けど、そんなやつだと悟られるのは怖い。馬鹿にされたくない。となれば頑固職人キャラに閉じこもってたほうが楽じゃないすか
「昔ながらのやり方やしきたり」にかぎらず、歴史浅かろうと「権威ある理論や方法論」も同じことで。「自分の頭じゃ考えられない小心者」ゆえにそれを押していないか、それが自分の頭で考えたゆえの選択であり、応用が効いているかどうか。
どんな性質のものも、それが「特徴」をもつかぎり、良い面と悪い面の両面をもっているはずなのだ。その時々でも良い悪いの価値づけは変わるし、時代の変化でも当然変化する。自分が「それ」の良い面だけ見て、裏面にひっくり返してみることを怠っていないか、良い言葉でも悪い言葉でも言い表せるフラットさをもって「それ」とつきあっているか、この辺はいつだって大事にしたいところ。
ユングは時代精神について「理性とはまったく無縁のものでありながら、あらゆる真理の絶対的基準として、常識を味方として押し通ろうとする不愉快さを特徴としている」と述べている。こんなスピードの速い時代、いっときの「時代精神」に心が絡め取られてしまわないで生きたい。
「俺たちの頃は、理由なんてわからずとも、とにかくがむしゃらに従っていた」とか「こんな苦労なしに次に駒を進めるなんて許せない」とかいうのはナンセンスだろう。時代が進むほどに、人は自由と合理性を手に入れていくもの。若者が自分の若い時分より自由や合理性を手に入れていることそれ自体に反発するのは、ちょっとお門違いかなという気がする。かといって、全部合わせときゃいいって単純な話でもないと思うのだけど、そこを考えるのが自分の頭だ。
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