命日に思い刻む
母が他界して5年が経った。命日を迎える前の先週末、父とお墓参りに行ってきた。ゴシゴシ墓石をきれいにして線香とお花をそなえた。快晴だった。
お盆やゴールデンウィークに足を運んだときには、亡くなったその日のことを思い出すことはあまりしないようになったのだけど、命日となると、何かをあえて刻みこむように、あの日のことを思い出す。
ざらざらとした感覚が、だんだん遠のいていくのを引き止めるように。誰かのどこかの物語になってしまうのを拒むように。痛みの記憶というのはやっぱり、なかなか生々しくは記憶しきれない性(さが)なのかもしれない。それでも手放してしまうのがさみしくて、性に抗うようにして、あの日のことを思い出す。
夜明けの最後の息。本当に最期の、しゅーっと音をたてて吐きだされた長い息。医師に臨終を告げられて、まだ体温が残る手のひら。これが徐々に、間もなく冷えていくのかという恐怖。時間が完全に消失した病室。階下に運ばれ、さっきまで息していた母を前に、線香をあげて手をあわせる残酷。
家の車に乗り込む家族と別れ、母がおさまる箱に寄りそって葬儀屋が用意した寝台車に乗り込む自分。黒い箱から手を放すことができず、ただずっと箱に触れて無心だった車中。家に着き、通りに面したリビングの大きな窓を開け放して、家の中に丁重に運び込まれる細長く黒く重たい箱を、2月の空の下、通りに突っ立って震えながらじっと眺めていた。
悲しみは、よくもわるくも癒えていく。それでもきっと命日にはずっと、あなたの最期を思い出す。よくともわるくとも、悲しくともさびしくとも。あなたの尊さを思い、感謝する。笑顔を思い浮かべ、別れを思い出す。
きっとそうやって人は生きていくのだ。大事な人が独りでこの世を去っていくのを見送り、自分もいずれ独りでこの世を去っていくのを刻みこまれ、時々それに打ちのめされながら、腹をくくって生きていくのだ。だからきっとこの世界は尊いのだし、だから今自分とともにここに生きてくれている人がかけがえなくて仕方ないのだ。
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