長編、長尺、長文の密室に佇む
お正月、紀伊國屋書店に行ったら三島由紀夫が絶賛売出し中だった。「仮面の告白」「金閣寺」だけじゃないよ!というので、文豪の軽妙洒脱な作品を再評価するむきがあるらしい。
ダ・ヴィンチのサイトに「三島由紀夫の隠れた怪作が20万部突破!」というニュースがあったが、こういう事情か。
刊行から2015年6月まで17年間の発行部数が約4万部だった「命売ります」は、2015年10月13日で累計部数20万部を突破したというから、たった数ヶ月でうなぎのぼりだ。「命売ります」は三島由紀夫が1968年に「週刊プレイボーイ」で連載していたエンタメ小説だとか。
三島にこんな小説があったのか!というので、「命売ります」の隣で売られていたのが「三島由紀夫レター教室」。最初に5人の登場人物の紹介があり、その後は5人の手紙だけで構成される風変わりな小説だ。5人は境遇も年齢もさまざまだが、「筆まめ」という共通点がある。なんとなくこっちに惹かれて、先に買って帰ってきた。
「登場人物紹介」の終わりに、三島由紀夫はこんなことを書いている。
万事電話の世の中で、アメリカではすでにテレビ電話さえ、一部都市で実用化していますが、手紙の効用はやはりあるもので、このキチンと封をされた紙の密室の中では、人々は、ゆっくりあぐらをかいて語ることもできれば、寝そべって語ることもでき、相手かまわず、五時間の独白をきかせることもできるのです。そこでは、まるで大きなホテルの各室のように、もっともお行儀のいい格式張った会話から、閨(ねや)のむつ言(ごと)にいたるまで、余人にきかれずにかわすことができるのです。(*1)
書いた時代背景的に「万事電話の世の中で〜」となっているけれど、「万事ネットの世の中で〜」と読み替えると、今に通ずるところもあるように読めた。
語り手の言葉は短文化し、受け手はそれぞれの興味と力量をもって、散らかった短文を頭の中でくっつけたり入れ替えたり、自分で肉づけたりして構成だて、物ごとを解釈する。そんな世の中でも、語り手がひとまとまりにした密室の長編が、それはそれであっていい。あったほうがいい。小説でも、映画でも、長文のブログでも、五時間の独白でも。
自由とは多様化、多様な選択ができるようになること。ただ「短さ」に移行していくのではなくて、「短い」のも「長い」のも形式を選べるようになること。語り手は表現形式を、受け手は享受形式を。私は、語り手としても受け手としても、短いの長いのどちらも選べる興味と力量を、大事に育て続けたい。自由を得るには、相応の基礎体力が必要なのだ。
*1: 三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」(ちくま文庫)
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