研修の作りこみのさじ加減
研修の内製支援という仕事がある。クライアントが社内で「社員研修」や「勉強会」を開くのを裏方で必要とされるところだけサポートする仕事だ。
外部業者として研修を受託するスタイルだと、研修プログラムを設計したり、教材を開発したり、講師をコーディネートしたりを全部こちらでまかなうのだけど、内製支援の場合は、あくまでクライアントさんが主体となって、特に講師やファシリテーターとして前に立つ人は社内から適任者を出してやる、それを裏方でサポートするというわけだ。
というのはあくまで私の理解だけど、私が内製支援でやっているのはそんな感じで、始めから終わりまでつかず離れずやっていくことになる。
・まず発注者・起案者たるマネージャーさんの問題意識とかゴールイメージといったお話をうかがって
・研修や勉強会の狙いを明文化したり
・受講者分析やら、研修に割ける時間・予算といった条件面を整理して
・そこから研修でやると効果的なこと、これは研修ではなく時間をかけて現場で打つべき継続施策といった切り分けをして
・妥当な研修ゴールを設定したり
・そのゴールに向けてどういうプログラムを構成だて、どんな演習・演出をして、どんな構造・規模・環境の中で、誰が前に立ってしゃべったら、伝わるか、身につくか、頭が切り替わるか、現場が変わるかを設計したり
・それを具現化した講義スライド、演習課題、ワークシート、時間割などこしらえて
・必要な講師やファシリレーターの人選基準、準備物をリストアップして手配してもらったり
・受講者の募集・告知方法、事前課題の提示方法をサポートしたり
・当日の運営をサポートしたり
・実施効果を検証したり
・それを踏まえた成果・課題を整理して、継続施策を組み立てたり
クライアントがやるところはやらないで任せるか、後方サポートにまわる。向こうがこちらに任せたいところや見落としているところは、こちらがやる。講師は、この人に教わるべきという社員が人選され、その人たちと一緒に、発注者と二人三脚で学習の場を作る。これが個人的にはけっこう面白い仕事で、外部受託案件とは異質のやり甲斐がある。
そして、これを一つのクライアント先で一年、二年とやっていくと、クライアント側の研修担当者も作るプロセスの勝手がわかってきて、準備の熱も入って、今度は事前の構造化が過ぎるかなぁと思うことが出てきたりもする。それで、そこまでの作りこみは踏みとどまりませんか、と誘ってみることも出てくる。
こんなに問いがざっくりしていると、参加者は答えに窮するのではないか、もっと具体的にしたらいいんじゃないかと準備を念入りにぐいぐい作りこみだすと、当日の参加者がどんどん楽になっていってしまう。構造を作りこみすぎれば、「こちらの思いどおりに動かす」ための作りこみに堕してしまいかねない。
参加者が、ざっくりした構造でもよく話すようだったら、ざっくりしたままのほうが参加者の筋肉がよく動く。もし、こうざっくりだと何も出てこないという様子だったら、その場でこういうネタをふってブレイクダウンして発言しやすくしましょうとか。たくさんたくさん考えて想定しておくんだけど、目に見える「構造」には組み込まないで踏みとどまる。そういうことも、たぶん大事なのだ。当日みんながみんなで考える時間と空間と空気感を、つぶさずに残しておくこと。
これに近しいことを書いているなと、今日たまたま読んだ野矢茂樹さんのエッセイで感じ入った。哲学者の野矢茂樹さんは、北海道大学から東京大学に赴任し、哲学の教師としても30年のキャリアをもつ。
私は講義ノートをきちんと作り、それを頭に叩き込んで、立て板に水を流すがごとく、講義しようとしていた。でもね、立て板に水を流してごらんなさい。後に何も残らないでしょう?授業でいちばん楽なのは、教師が一方的に話をする「独演会」なのである。そして、たまにうまく話せたときには、そんな自分に満足して教室をあとにする。しかしそれは、自分だけ気持ちよさそうにカラオケを歌って悦に入っているおじさんと違いはない。自戒の念をこめて言うのだが、ナルシスティックになっちゃったら教師はおしまいなのである。授業は教師のパフォーマンスの場ではない。そんな授業は、ちょうど体育で教師だけが運動しているようなものだ。「私が運動するから君たちは見ていなさい!」そして教師の体力だけが向上していく。いや、動くのは学生であって、教師ではない。(*1)
野矢さんは、あるとき授業中に、自分のあらかじめ用意した講義ノートの中に納得できないところを見つけてしまって、頭の中が真っ白、しろどろもどろになってしまった。授業を終え、野矢さんはぐったり。しかし、その授業に参加した学生が授業後に声をかけてきて、「先生、今日の話はわかりやすかったですね」と言ったのだそうだ。
野矢さんは、「つっかかり、立ち止まって、思考のプロセスを学生に晒しながら、一歩一歩手探りで進んだ今日の授業の方が、彼らには分かりやすかったのである」と解釈を述べている。
哲学という授業の特有さもあるかもしれない、どれもこれもつっかかっていてはわかりづらくもあるだろう。けれど確かに、話し手が「思考のプロセスを晒しながら、一歩一歩手探りで進む」ことが、聴き手の理解を大いに促すということはある。
その場で、どんなふうに話しかけ、どんなふうに話を引き出し、どんなふうに関わったら、参加者の側に意味が生まれ、参加者の側に変化が生まれるのか。ここを主に、事前の作りこみのバランスをみるのも、けっこうナイーブなさじ加減というのがあって、そういうのを現場現場で支援できるといいなと思った。
*1: 野矢茂樹「哲学な日々 考えさせない時代に抗して」(講談社)
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