« 2015年12月 | トップページ | 2016年2月 »

2016-01-15

人の性格をタイプで語るうさんくささ

先日、人の依頼を受けて久しぶりにMBTIのフィードバック・カウンセリングを行った。MBTIについては以前こちらに概要をまとめているけれども、一言でいえば「ユングが提唱した心理学的タイプ論に基づく性格検査」ということになる(いかつい)。

性格検査といっても、検査単体ではMBTIとしての体をなさず、検査結果をきっかけにして自己洞察を深めるセッション(有資格者のサポートをFace to Faceで受けながら、自分でタイプ検証を行う)まで行って、はじめてMBTIの構造が成り立つ。Web上で検査だけ受けて「当たってる/当たってない」で終わってしまうと、それはMBTIの中核部分が抜け落ちた状態と言える。MBTIは性格検査というより、人の理解を深めるためのメソッドといったほうが適切なものだ。

…なんてくどくど語ると、“たかがツール”に心酔した有資格者の盲目的発言に聞こえて、うさんくささを覚えるかもしれない。

私ももともと「MBTIがいつでも誰にでも役立つからみんなやるべき!」とは思っていないので(まともな有資格者は、そんなこと言わないが)、先述したページに概要・案内をまとめて以降は、依頼があった際にお引き受けするにとどめている(まともな有資格者なら、そこまで控えめにすべきと考えているわけじゃない)。安易に方々でしゃべっても、有用性よりはうさんくささのほうが先に立つだろうなぁという思いがあって、話題をふられないかぎり人に話すことはしていない(臆病ともいう)。

かといって、全然使えないメソッドだと思っているわけでももちろんなくて、非常に有意義なものだと内々には思っている。そんな立場から、この「うさんくささ」について、ちょっと考えてみたい。

人の性格や資質からタイプ(類型)を見出そうという試みは古くからあるらしいのだけど、こうしたものにふれて、まず人の頭に思い浮かぶ一般的な抵抗は、「世の中いろんな人がいて、それこそが素晴らしいのに、多種多様な個別の人間をたかだか何個か何十個かに分類するなんて無理だし、不毛だ。専門づらして、人間を物のように扱うな」という反応じゃないかと思う。

その一方で、こうした性格タイプ論なりメソッドなり診断ツールなりを前にすると、これに関心を示す気持ちも生じるのが人の常だ。自分のことをより深く知りたいという気持ちはたいていの人にあり、SNSで自己診断ツールの類がよく流行るのは、その表れである。

つまりは、一人の人間のうちには「不毛だ」と「興味あり」のアンビバレントな(相反する)感情が生じていて、そのどちらを本人が意識するか、表に出すかが人によって違うだけなのかもしれない。

ここでは、そのうち前者の「不毛だ、馬鹿馬鹿しい」という気持ちにフォーカスして考えてみたい。というのは、そこには一つ、性格タイプ論に対する誤解があると思うからだ。

人の性格タイプ(類型)論を説く人も馬鹿じゃない、というか、その道の専門家だ。一般の人がぱっと思いつく疑念などは、最初のうちに検討済みである。つまり、個々人がそれぞれにユニークな存在であるということは当たり前とした上での、タイプ論なのだ。少なくともMBTIはそういう前提に立っている。

しかし、受け手側が受け取り方をまちがってしまっては、使えるものも使えない、有益なものも不毛に映るのは当然。「あなたのタイプはこれ」というのをそのまま受けとって、自分をそういう人格に固定化する診断のように受け止めてしまう。

大衆的なタイプ分けとして血液型を例にとるなら、たとえばO型が全員おおらか、A型が全員神経質なんてことないだろうことは、ちょいと考えればわかる。そんなの当たり前という人もいれば、「A型の割りに細かくないのよ」という人もいるけれども、とにかく現実として、血液のタイプによって性格が決定づけられたり、血液のタイプによって行動が一様に固定されるなどということはない(ちなみに、血液型と性格の相関関係は今のところ証明されていないと6~7年前に聞いた)。

完全に何タイプの行動をとる人間というのは(精神が健常な状態であれば)いないわけで、人が生来的な性格タイプをもつとしても、それだけで行動を選ぶわけじゃない。その人の知能や発達段階(5歳か20歳か50歳か)によっても選択は変わるし、それまでの人生経験によっても、そのとき置かれている状況によっても選択は変わる。誰かのタイプをこれと特定することによって、その人の行動を予測できると考えるのは愚かなことだ。

MBTIのフィードバック・カウンセリングを行うにあたって、年末年始に「ユング心理学入門」を読み返していたのだけど、著者の河合隼雄さんが、この点に言及していて、ふむふむと感じ入った。

まず、タイプを分けることは、ある個人の人格に接近するための方向づけを与える座標軸の設定であり、個人を分類するための分類箱を設定するものではないことを強調したい。類型論の本を初めて読んだようなひとがおかしやすい誤りは、後者のような考えにとらわれてしまって、すぐに人間をA型とかB型とかにきめつけてしまうことである。こうなると個々の人間は分類箱にピンでとめられた昆虫の標本のように動きを失ってしまって、少なくともわれわれ心理療法家にとっては役立たないものとなってしまう。(*1)

人の性格を類型化するタイプ論というのは、個人の人格をより深く理解するための「座標軸」を提供するもので、個人を分類するための「標本箱」ではないのだ。今ここに生きている人の考え方や行動を決めつけるような理論、メソッド、ツールではない。送り手はそういう取り扱いをしてはならないし、受け手もそういう受け取り方をしてはならないのだ。絵にすると、こんな感じかな。

Photo

*1: 河合隼雄「ユング心理学入門」(培風館)

2016-01-11

長編、長尺、長文の密室に佇む

お正月、紀伊國屋書店に行ったら三島由紀夫が絶賛売出し中だった。「仮面の告白」「金閣寺」だけじゃないよ!というので、文豪の軽妙洒脱な作品を再評価するむきがあるらしい。

ダ・ヴィンチのサイトに「三島由紀夫の隠れた怪作が20万部突破!」というニュースがあったが、こういう事情か。

刊行から2015年6月まで17年間の発行部数が約4万部だった「命売ります」は、2015年10月13日で累計部数20万部を突破したというから、たった数ヶ月でうなぎのぼりだ。「命売ります」は三島由紀夫が1968年に「週刊プレイボーイ」で連載していたエンタメ小説だとか。

三島にこんな小説があったのか!というので、「命売ります」の隣で売られていたのが「三島由紀夫レター教室」。最初に5人の登場人物の紹介があり、その後は5人の手紙だけで構成される風変わりな小説だ。5人は境遇も年齢もさまざまだが、「筆まめ」という共通点がある。なんとなくこっちに惹かれて、先に買って帰ってきた。

「登場人物紹介」の終わりに、三島由紀夫はこんなことを書いている。

万事電話の世の中で、アメリカではすでにテレビ電話さえ、一部都市で実用化していますが、手紙の効用はやはりあるもので、このキチンと封をされた紙の密室の中では、人々は、ゆっくりあぐらをかいて語ることもできれば、寝そべって語ることもでき、相手かまわず、五時間の独白をきかせることもできるのです。そこでは、まるで大きなホテルの各室のように、もっともお行儀のいい格式張った会話から、閨(ねや)のむつ言(ごと)にいたるまで、余人にきかれずにかわすことができるのです。(*1)

書いた時代背景的に「万事電話の世の中で〜」となっているけれど、「万事ネットの世の中で〜」と読み替えると、今に通ずるところもあるように読めた。

語り手の言葉は短文化し、受け手はそれぞれの興味と力量をもって、散らかった短文を頭の中でくっつけたり入れ替えたり、自分で肉づけたりして構成だて、物ごとを解釈する。そんな世の中でも、語り手がひとまとまりにした密室の長編が、それはそれであっていい。あったほうがいい。小説でも、映画でも、長文のブログでも、五時間の独白でも。

自由とは多様化、多様な選択ができるようになること。ただ「短さ」に移行していくのではなくて、「短い」のも「長い」のも形式を選べるようになること。語り手は表現形式を、受け手は享受形式を。私は、語り手としても受け手としても、短いの長いのどちらも選べる興味と力量を、大事に育て続けたい。自由を得るには、相応の基礎体力が必要なのだ。

*1: 三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」(ちくま文庫)

2016-01-08

研修の作りこみのさじ加減

研修の内製支援という仕事がある。クライアントが社内で「社員研修」や「勉強会」を開くのを裏方で必要とされるところだけサポートする仕事だ。

外部業者として研修を受託するスタイルだと、研修プログラムを設計したり、教材を開発したり、講師をコーディネートしたりを全部こちらでまかなうのだけど、内製支援の場合は、あくまでクライアントさんが主体となって、特に講師やファシリテーターとして前に立つ人は社内から適任者を出してやる、それを裏方でサポートするというわけだ。

というのはあくまで私の理解だけど、私が内製支援でやっているのはそんな感じで、始めから終わりまでつかず離れずやっていくことになる。

・まず発注者・起案者たるマネージャーさんの問題意識とかゴールイメージといったお話をうかがって
・研修や勉強会の狙いを明文化したり
・受講者分析やら、研修に割ける時間・予算といった条件面を整理して
・そこから研修でやると効果的なこと、これは研修ではなく時間をかけて現場で打つべき継続施策といった切り分けをして
・妥当な研修ゴールを設定したり
・そのゴールに向けてどういうプログラムを構成だて、どんな演習・演出をして、どんな構造・規模・環境の中で、誰が前に立ってしゃべったら、伝わるか、身につくか、頭が切り替わるか、現場が変わるかを設計したり
・それを具現化した講義スライド、演習課題、ワークシート、時間割などこしらえて
・必要な講師やファシリレーターの人選基準、準備物をリストアップして手配してもらったり
・受講者の募集・告知方法、事前課題の提示方法をサポートしたり
・当日の運営をサポートしたり
・実施効果を検証したり
・それを踏まえた成果・課題を整理して、継続施策を組み立てたり

クライアントがやるところはやらないで任せるか、後方サポートにまわる。向こうがこちらに任せたいところや見落としているところは、こちらがやる。講師は、この人に教わるべきという社員が人選され、その人たちと一緒に、発注者と二人三脚で学習の場を作る。これが個人的にはけっこう面白い仕事で、外部受託案件とは異質のやり甲斐がある。

そして、これを一つのクライアント先で一年、二年とやっていくと、クライアント側の研修担当者も作るプロセスの勝手がわかってきて、準備の熱も入って、今度は事前の構造化が過ぎるかなぁと思うことが出てきたりもする。それで、そこまでの作りこみは踏みとどまりませんか、と誘ってみることも出てくる。

こんなに問いがざっくりしていると、参加者は答えに窮するのではないか、もっと具体的にしたらいいんじゃないかと準備を念入りにぐいぐい作りこみだすと、当日の参加者がどんどん楽になっていってしまう。構造を作りこみすぎれば、「こちらの思いどおりに動かす」ための作りこみに堕してしまいかねない。

参加者が、ざっくりした構造でもよく話すようだったら、ざっくりしたままのほうが参加者の筋肉がよく動く。もし、こうざっくりだと何も出てこないという様子だったら、その場でこういうネタをふってブレイクダウンして発言しやすくしましょうとか。たくさんたくさん考えて想定しておくんだけど、目に見える「構造」には組み込まないで踏みとどまる。そういうことも、たぶん大事なのだ。当日みんながみんなで考える時間と空間と空気感を、つぶさずに残しておくこと。

これに近しいことを書いているなと、今日たまたま読んだ野矢茂樹さんのエッセイで感じ入った。哲学者の野矢茂樹さんは、北海道大学から東京大学に赴任し、哲学の教師としても30年のキャリアをもつ。

私は講義ノートをきちんと作り、それを頭に叩き込んで、立て板に水を流すがごとく、講義しようとしていた。でもね、立て板に水を流してごらんなさい。後に何も残らないでしょう?授業でいちばん楽なのは、教師が一方的に話をする「独演会」なのである。そして、たまにうまく話せたときには、そんな自分に満足して教室をあとにする。しかしそれは、自分だけ気持ちよさそうにカラオケを歌って悦に入っているおじさんと違いはない。自戒の念をこめて言うのだが、ナルシスティックになっちゃったら教師はおしまいなのである。授業は教師のパフォーマンスの場ではない。そんな授業は、ちょうど体育で教師だけが運動しているようなものだ。「私が運動するから君たちは見ていなさい!」そして教師の体力だけが向上していく。いや、動くのは学生であって、教師ではない。(*1)

野矢さんは、あるとき授業中に、自分のあらかじめ用意した講義ノートの中に納得できないところを見つけてしまって、頭の中が真っ白、しろどろもどろになってしまった。授業を終え、野矢さんはぐったり。しかし、その授業に参加した学生が授業後に声をかけてきて、「先生、今日の話はわかりやすかったですね」と言ったのだそうだ。

野矢さんは、「つっかかり、立ち止まって、思考のプロセスを学生に晒しながら、一歩一歩手探りで進んだ今日の授業の方が、彼らには分かりやすかったのである」と解釈を述べている。

哲学という授業の特有さもあるかもしれない、どれもこれもつっかかっていてはわかりづらくもあるだろう。けれど確かに、話し手が「思考のプロセスを晒しながら、一歩一歩手探りで進む」ことが、聴き手の理解を大いに促すということはある。

その場で、どんなふうに話しかけ、どんなふうに話を引き出し、どんなふうに関わったら、参加者の側に意味が生まれ、参加者の側に変化が生まれるのか。ここを主に、事前の作りこみのバランスをみるのも、けっこうナイーブなさじ加減というのがあって、そういうのを現場現場で支援できるといいなと思った。

*1: 野矢茂樹「哲学な日々 考えさせない時代に抗して」(講談社)

2016-01-06

立川談志の教え方

冬休み最終日の1月3日、ふらり新宿の紀伊国屋書店1階に立ち寄って、目にとまった3冊を買って帰ってきた。そのうちの1冊が、立川談春の「赤めだか」

「赤めだか」は立川談志さんのお弟子さんのエッセイで、談志さんが17歳の談春をどう育てていったかが、談春さん目線で語られていて面白い。ビートたけしに「談春さんは談志さんが残した最高傑作」と言わせしめる(帯より)談春さんゆえに、その軌跡をたどって語られる考え方、エピソードの描き方や捉え方にも深みがある。

面白そうだし、久しぶりにエッセイを読むのもライトでいいかなと思って手を出したのだけど、思いのほか自分の仕事と関係するところもあって(自然と自分の関心に引き寄せて読むのが人の常というのもあるのだろうが)、「師匠が弟子にどう関わるか」という観点で読めるのも面白い。その観点で、立川談志さんの教え方をメモ的に残す。

●学び手をよく観て、よく知る
高校をやめてきて、弟子入りしたばかりの17歳の談春。本人は「プロを目指すなら今まで覚えた根多は全て忘れろ」と云われるとばかり思っていたのに、談志さんは「どんな根多でもいいから、しゃべってごらん」と云う。「師匠、僕できません」と云っても、「何でもいいんだよ。口調を確かめるだけだから。ちょっとだけしゃべってごらん」「怒らないから演ってごらん」と、ものすごい優しい笑顔で云われたという。

まずは弟子の力量や癖を、よく観て、よく知ろう、そこから始める様子がうかがえるエピソードだ。

●やってみせる
その直後、「まあ、口調は悪くねェナ。よし小噺(こばなし)を教えてやる」と言って、談志さんは10分ほど、談春一人を相手に、目の前で小噺を演ってみせる。

「ま、こんなもんだ。今演ったものは覚えんでもいい。テープも録ってないしな。今度は、きちんと一席教えてやる。プロとはこういうものだということがわかればそれでいい。よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ。最初は俺が教えた通り覚えればいい。盗めるようになりゃ一人前だ。時間がかかるんだ。教える方に論理がないからそういういいかげんなことを云うんだ。いいか、落語を語るのに必要なのはリズムとメロディだ。それが基本だ。ま、それをクリアする自信があるなら今でも盗んでかまわんが、自信あるか?」

もったいぶらず、いきなり、みせるんだな。「プロとはこういうものだということがわか」るのには、みせるのが一番ってわかってのことだろう。「盗む方にもキャリアが必要」「教える方に論理がないからそういういいかげんなことを云うんだ」など、名言がつまっている。

●意味を言葉にして教える
「意外に思うかもしれないが、談志(イエモト)の稽古は教わる方にとってはこの上なく親切だ。お辞儀の仕方から、扇子の置き方まで教えてくれる」と談春。

教え方の丁寧さ。それは振る舞いだけではなく、その意味を丁寧に語り聞かせているところにあると思う。談志さんからすれば、その意味を伝えずして教える意味はないくらいに思われているのかもしれない。

「これは談志(オレ)の趣味だがお辞儀は丁寧にしろよ。きちんと頭を下げろ。次に扇子だが、座布団の前に平行に置け。結界と云ってな、扇子より座布団側が芸人、演者の世界、向こう側が観客の世界だ。観客が演者の世界に入ってくることは決して許さないんだ。たとえ前座だってお前はプロだ。観客に勉強させてもらうわけではない。あくまで与える側なんだ。そのくらいのプライドは持て。お辞儀が終わったら、しっかり正面を見据えろ。焦っていきなり話しだすことはない。堂々と見ろ。それができない奴を正面を切れないと云うんだ。正面が切れない芸人にはなるな。客席の最後列の真ん中の上、天井の辺りに目線を置け。キョロキョロする必要はない。マクラの間に左、右と見てゆくにはキャリアが必要なんだ、お前はまだその必要はない。大きな声でしゃべれ。加減がわからないのなら怒鳴れ。怒鳴ってもメロディが崩れないように話せれば立派なもんだ。そうなるまで稽古をしろ。
俺がしゃべった通りに、そっくりそのまま覚えてこい。物真似でかまわん。それができる奴をとりあえず芸の質が良いと云うんだ」

目指すべきゴールや学習指針を具体的に示してあげて、あとは練習あるのみ!となったら放る。しばらく置いて、また様子をみてやる。そこに到達していない者にとっては、次に目指すべき具体的な目標設定というのが難しい。その目標に到達するための能率的な学習方法をこれと定めるのも難しい。そこのところを、うまいこと談志さんは導いている。

●段階的に難しい課題を与える
まずは「登場人物がご隠居さんと八っつぁんの二人しかいない。場面転換も少ない。右見て隠居さん、左見て八っつぁんとスラスラしゃべる。これで落語のリズムとメロディを徹底的に覚える」という前座用の小噺を教える。これをクリアすると、次は仕草や動物を演じるための形が入ってくる「狸」の稽古に進む。

これは談志さんに限らず、落語のオーソドックスな教え方ステップなのかもしれないが、こういうふうにきちんと段階を踏んで、難しい課題を与えていくのも、しっかり考えられているものだなぁと思う。談春は、談志(イエモト)が凄いのは「相手の進歩に合わせながら教える」ところだと記している。

●プロの目をもってこそ洞察できるフィードバックを与える
「狸」を演った談春に向かって、聴き終えた談志は頭をかかえ込んで、ウーンとうなる。ちょっと待ってくれと考え込んでしまう。長い沈黙の後、談志さんは話しだす。

「あのな坊や。お前は狸を演じようとして芝居をしている。それは間違っていない。正しい考え方なんだ。だが君はメロディで語ることができていない、不完全なんだ。それで動き、仕草を演じようとすると、わかりやすく云えば芝居をしようとすると、俺が見ると、見るに堪えないものができあがってしまう。型ができていない者が芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。型がしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば型破りになれる。どうだ、わかるか?難しすぎるか。結論を云えば型をつくるには稽古しかないんだ。狸という根多程度でメロディが崩れるということは稽古不足だ。語りと仕草が不自然でなく一致するように稽古しろ。いいか、俺はお前を否定しているわけではない。進歩は認めてやる。進歩しているからこそ、チェックするポイントが増えるんだ。もう一度、覚えなおしてこい」

相手の進歩に合わせて教えるには、相手の演っているのをよくよく観察して、何ができていて、何ができていないかを切り分ける必要がある。これをやるには、教える側が惜しまずにじっくり時間をかけて考えこむことも必要ということだ。

切り分けたら、できているところはそれはそれで具体的に褒め(そうしないと、そこも捨ててしまう)、足らぬところはそれとして指摘し、それはどうしたら改善されるかまでじっくり考えて言葉に起こし、相手に伝わるように語り聞かせる。あとは練習あるのみというところまで導く。本人にはわからない、プロだからこそつかめる問題の核心をとらえて、解決の道筋を言葉にしてフィードバックする。

「丁寧に教える」って、別に言葉を優しくとか甘ったるくすべしというんじゃなくて、こういうことだよなぁというポイントが散りばめられている。ほか、この後は談志さんのセリフを引いてメモに残しておきたい。

●「形式」ではなく「内容」でお前達と接する
「他所(よそ)は色々あるが立川(うち)流はなれ合いは好かん。俺は内容でお前達と接する。俺を抜いた、不要だと感じた奴は師匠と思わんでいい。呼ぶ必要もない。形式は優先しないのです。俺にヨイショする暇があるなら本の一冊も読め、映画の一本も観ろ。勿論芸の内容に関する疑問、質問ならいつでも、何でも答えてやるがな」

●絶妙なタイミングで、己の乗り越え方を説く
「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」と云った。
「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」

●その時代のテクノロジーを合理的に取り入れる
「俺は忙しい。昔ならともかく今は覚えるための教材も機械もたくさんある。だから下手な先輩に教わる必要はないんだ。名人のテープで覚えちまえばいい。覚えたものを俺が聴いてやる。直してやる。口伝を否定はしないが、教える側の都合にお前達の情熱を合わせる必要はないんだ。恵まれた時代なんだ」

●華をもたせる、褒める、客に頭を下げる
本来は、前座から二ツ目にあがったときではなく、二ツ目から真打にあがったときに派手にお披露目を催すところ、談志さんは談春を含む四人の前座を二ツ目と認めたとき、大々的なお披露目のパーティーと落語会を設けよと云う。俺の存在が必要なら喜んで協力すると云い、企画は任せ、わからないことは志の輔に相談しろとまとめる。考えやすい構造を与え、本人たちの創造力を引き出す場を与えて、あとは任せる。褒めるときはしっかり褒めて、弟子のために客に頭を下げて礼を云う。

落語の世界となると「背中をみて盗め」的な職人的指導をイメージするけれど、談志さんの弟子への関わり方は、「よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ」を前提にした実践がつまっていて大変興味深い。ほかにもいろいろと面白どころ満載で、楽しく読める素敵なエッセイだ。

今けっこう売れているようだけど、Amazonのお薦めには出てこないんだよな。自分向けにカスタマイズされていくと、一般に売れている本が“面”に載ってこないってことかしら。一棟丸ごと本が並ぶ大型書店の1Fに平積みされているので目をひき、手にとってみて装丁&帯買いする。こういう本との巡り合いも、やっぱり残しておきたいと思った。

※関連スライド: 「今どきの若手育成にひそむ3つの思いこみ」
ご依頼を受けて、TechLIONというIT/Webエンジニア向けのイベントで登壇したときのスライド。

2016-01-03

ICカード払いはじめ

年の始めに「今年はこれを改めよう」と心に決めて、自分の行動をがらりと変えた記憶って全然ないんだけど、今年は一つそういうものがあって、早速昨日から実行に移している(元日はその機会がなかった)。

といっても、多くの私の友人は「今さらかい!」と突っ込むようなことなんだけど、「細々した買い物は、使えるかぎり交通系ICカードで支払う」のを始めたのだ。

昨日今日、コンビニやドラッグストアに入ると緊張の面持ちでレジ前に立ち、使えるカードの案内を静かに凝視して、「よし、ここは使える」と確認し、できるだけ自然に、しかし格好つけすぎないように初心者をわきまえてICカードを取り出し、カード決済をしている。

すいた近所のコンビニでデビューを飾ったため、挙動がゆっくりでも怪しまれず、内心で「ほぅ、こうやってやるのか」と思いつつ、基本の所作を習得することができた。大型の本屋さんでは、金額が数千円に及んだので、おじけずいて止めてしまった。チャージ金額を把握しておく必要があるのだなと学んだ。近所のスーパーではクレジットカードしか使えず断念。使えるお店・使えないお店情報は、インプットしている最中だ。

それでどうかって、いやぁ、楽だ。実に楽だ。カードを乗せて一発じゃないか。なんて楽なんだ。

じゃあなぜ、これまでやらなかったのか。慣れの問題が一番だ。これまで長いこと、細々した買い物といえば、財布を出して現金で支払うのが基本だったので、気がつくと財布を出して現金で決済を済ませてしまっていた。

持ち歩く電車の定期券はICカードになっていて、数千円のチャージ金額は入れたりしていたので、いつでも乗り換えることはできたのだけど、慣れから脱するのには、「よし、今日から!」という意識的な節目が必要だった。

ずいぶん前、コンビニで長いレジ待ちをしているときに、暇つぶしに人の決済手段をみていたら、思いのほかカード払いに切り替えている人が多く、自分もそろそろ変えたほうがいいかなと思ったことはあったのだ。

これは例えるなら、雨降りが止んで、周囲はみんな傘をたたんで歩いているのに、ひとり傘をさしている状態に近しいという感じがした。

が、それでもなんだかずるずるっと、そのまま現金払いを続けてしまっていた。なので、2016年の年始から!と年末に決めたのだ。って全然遅すぎるのだが、日常の暮らしに対する関心が希薄なので、この手のものはどうにも仕方ない…。

この先は、「ぼーっとしていても財布を出すのではなく、勝手に定期入れを出している」「チャージ残額を常にざっくり把握しておき、レジでブッブーということがないようにする」「チャージ金額が少なくなったら、余裕をもってチャージする」まで体が覚えてくれれば一人前だ。毎日のことなので、そこそこ短期間で体得し、今年は「細々した買い物」の発展を遂げられるだろうと期待している。

2016-01-01

年始のボヤと抱負

新年あけましておめでとうございます。旧年中おつきあいくださった皆さま、ここの話をつまみ読みしてくださった方には、改めて感謝しています。

今年も、自分ができることを模索して形にして反省して…と地味に細々やっていくと思いますが、前年よりちょい増しの深さと広がりをもって活動していければと思っていますので、本年もおつきあいのほど、どうぞよろしくお願いします。

と穏やかに始めたかったのだけど、元旦早々、実家でボヤ騒ぎを起こしてしまい(しかも仏壇の真横を燃やす…)、なんだか胸騒ぎの年始め。とりあえず、燃やしたのは直径15cm以内の造花飾りにとどめられ、時間にして5分程度のごたごたで事なきを得た。やれやれ。

あとは今年も例年どおり、仏壇と母の遺影に花を添えて(こちらの花は無事)、父と妹と私で年始の挨拶、おとそ、おせち料理にお雑煮。しばらくして兄一家がやってきて、にぎやかな元日に。こうしてみんな健康に2016年を迎えられてよかった。

仕事のほうは、クライアント向けにオーダーメイドで研修プログラムを提供していく仕事は引き続き。これに留まらず、OJTの支援(学ぶ側も、教える側も)、研修をはじめとする人材育成施策の内製支援(クライアント社内で実施していくのを後方支援)もやっていきたい。

一般クライアントからこの手(研修を超えた人材開発領域)の相談をもらうのはなかなか難しいと思うけど、勤め先が所属するホールディングス傘下の各社で、研修プログラム提供に留まらない活動を広げられそうなので、いただける相談事を一つひとつ形にして役に立つことができたらなと思っている。

あと、私が懇意にしているWeb業界で、人材育成を仕事とする自分の立場からできること、MBTIを用いたキャリアカウンセリングを引き続き細々とやっていけたらと思う。

と、今なんとなく、こっちの方向に歩んでいくのかなぁと思う領域を言葉にしてみたけれど、基本は「無為自然」を心に、自然に身をゆだねてやっていこうと思う。いっこいっこの巡り合わせを大事にして、この一年も過ごしていきます。

« 2015年12月 | トップページ | 2016年2月 »