形見とお古
冬になると、私は収納の奥にしまいこんでいた手袋をごそごそ取り出す。ここ5年ほど、ずっと同じのを使っている。黒くて柔らかい革ので、相当にくたびれている。私の扱いも決して丁寧とは言えないが、それは5年前の時点ですでに相当くたびれていた。これは、母のお古なのだ。
母が亡くなったのは2月で、とても寒い時期だった。私は実家から斎場に向かうとき、母のタンスから手袋を拝借した。というか、本人の了解を得ずに、事実上もらった。嫌ってことはないだろう、どちらかといえば、使ってくれたほうが嬉しいものよねって解釈して持ちだした。それをそのままずっと使っていて、今に至る。
これを先日まじまじと眺めていて、ある人はこれを「形見」と呼ぶのだろうなと気づいた。けれど、私からすると、それは「お古」という感じがする。
人が「あぁ、お母さんの形見なんですね」と言えば、「まぁ、そういうことになりますね」と抵抗なく返せるし、そちらからみれば「形見」というのがもっともしっくりいくだろうなとも思う。一方で、私からみると、それは「お古」というほうがしっくりいく。このことを、なんだか面白いなと思った。
それは、まず一つの見方として「手袋」という名前を与えられているわけだけど、その先それは亡くなった母の「形見」という言葉にもなるし、ごく個人的な関わりをもってそれに向き合う私からすると「お古」という言葉にもなる。
言葉は、何かを意味づけるとともに、装いとか雰囲気というのもまとって世の中に出てくる。言葉を世に送り出す人は、こっちのかっちり系も悪くないけど、私はもうちょっとくずしたのがいいわとか、自覚的であれ無自覚的であれ、静かに装いを選んで言葉を出し分ける。
あるいは、装いのレパートリーが少ないと、うまく出し分けられずに、ちょっと不格好と思いながら言葉を送り出すことにもなる。あるいは、送り出すのをやめてしまうことにもなる。私はよくある…、この感じをもっとスパっと端的に言い表す二字熟語が、世の中にはきっとあるはずなのにと。語彙表現が貧弱なのは常に悩ましいが、しかしこれは地道にたくさん本を読んで文脈にのせて新たな言葉を吸収していくしかないだろうな。
閑話休題、ものにもことにも、いろんな人がいろんな言葉を与えていく。その多様な言葉の与え方に向き合うとき、人の言葉の妥当性を評価したり判断するより、その言葉の内奥にどんな思いや考えがあるのかに迫る手がかりとしたい。私にとって「人の言葉」とは、そういう手がかりとしての役割が一番大きいと思う。そうした言葉の役割や意味づけも、人それぞれでいいと思う。そういう考えをみんなで交換しあえるのが健全だ。と、なんとなく思いつくままに書いた冬休み1日目。
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