遠のく意思決定
なんとなく、意思決定というものから遠のいているなぁと思いたって数ヶ月経つ。日々いろんな選択はしているし、外見からすれば日常的に意思決定しているのだけど、やることの大方は「自分」が勝手にやっていて、「私」が決めたという介入プロセスは感じられない。
「自分」が決めてやっているなら、それが意思決定なんじゃないの?と思う人もあろうけれど、わたしの感覚からすると、意思決定というのは、奥の間の「私」が特別に下す場合であって、世の中に生身をさらしている「自分」が日々やっているのは、意思決定というにはちょっと大仰な感じがする。
「自分」が日々やっていることというのは、意識的に選んでいるというより、自然のままにしているとそうなるという、いわば自動的な感じだ。「この人が自然体で思ったり考えたり動いたりすると、自動的にこういう選択になります」という自然な選択の集まりで、わたしの日常は営まれている。
フロントの「自分」と、バックヤードの「私」ももう長いつきあいになるので、いい加減「自分」のほうも「私」のアイデンティティらしきものの大方を掌握していて、いちいち「私」にお伺いをたてなくても、自然体でやっていると勝手に「私」らしい判断なり目配りなりを「自分」がやっている状態になっているんじゃないかと、ややこしいことを考えていた。
昔はもう少し「私」がでしゃばって陣頭指揮をとる機会があった気がするのだけど、最近はもっぱら「自分」にお任せだ。「自分」が勝手に考えて、勝手に思い巡らせて、勝手にやったり止めたりしている。
今ちょっと視野が狭くなっているかもしれないから、信頼をおける人に話して死角がないか確認してから先進んだほうがいいんじゃないの?みたいなのも、以前は「私」が忠告していたけど、今は自動化されている感じだ。しばらく小説ばかり読んでいたから、そろそろビジネス書も手にとったほうがいいかしら?なんていうのも、勝手に「自分」がやっている。
「私」はそれを事後的に認識して、「自分」はこういう思いでこう動いたんだなぁと解釈を加えたり、やっぱりあそこは一旦待ったほうが良かったのかもなぁと反省を加えたりする。あーぁーと後で残念に思うこともあるけれど、事前に「私」が「自分」をコントロールするのも難しい。
思いのほか、「自分」というのは「私」のコントロール下にないものだな、と認識するようになったのもある。それならもう、世の中の前線でどう振る舞うかは「自分」にお任せするしか、そもそもないじゃないかと。
ここで手を抜きたくない!と思えば勝手に頑張るし、引っ込み思案になると「私」が何言っても全然頑張らないで引っ込んでいるし、テンパるなと言ってもテンパるときはテンパるし、行き届いた配慮を心がけていても目配りが足りぬこともある。その辺を「私」が予め言ってどうにかしようと思っても、コントロールがきかない。自分は自分で、不完全な生身をさらして前線で生きているのだし。「私」が掲げる理想ほど立派な人間じゃないけれど、それが「自分」なのだ。
そう見たほうが、なんだか実際にあっているなという気がする。こんなことを考えだしたきっかけは確か、仕事の席で意見を求められた時、「自分」が急に饒舌に熱っぽく早口で喋り立てていたのを後で「私」が振り返って。「すごいな、この人、この辺には並々ならぬ信念があるんだな」と、「自分」のことを事後的に理解していた「私」をみて、いたのは誰なのか…。
「私」と「自分」のこうした関係性はなかなか興味深く、歳をとるとは、こういうものかなという気もしている。だいぶこんがらがった話だけど、2015年のうちに書き残しておきたかったこと。
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