人の作品、自分の絵筆
村上春樹の長編を読み終えると、なんとなく流れにのって、そのままよしもとばななの未読作品に手を出した。村上春樹から間をあけずに、よしもとばななを読み出すと、初めうまいこと物語を頭のなかに描きだせなくて四苦八苦した。
あぁ、絵筆を持ち替えないと、描けないのか…と感覚的に思った。村上春樹の絵筆のままでは、よしもとばななの世界はうまいこと描き出せないのだ。しばらくページをめくってゆくうち、持ち替えに成功したようで、読んだ言葉がそのまま頭のなかに描かれていくようになった。言葉って不思議だ。
一旦そこをクリアすると今度は、私のなかの無意識が、私のなかの意識を介さずに、物語と通じて勝手にやりとりしているような感覚を覚える。だから、理由は説明できないし、これというあてもないのに、読んでいるとなんとなく泣きたい気分になることがある。それは決して劇的なシーンを表わしているのではなく、例えば風景を描いているようなところで起こる。
悲しい涙でもないし、喜びの涙でもなさそうで、これという単一の感情の表れではなさそうだ。結局のところ、涙も流れるまではいかない。それくらいに淡い、心のかすかな揺れを感じることができるまで、人を繊細にできるのが、彼女の作品がもつ独特の力かもしれないなぁなどと思う。
彼女の作品を読んでいると、あぁこのあたりは、私10年前に読んでも、今と同じだけの質量で受け取ることはできなかっただろうなって思うところが多分にある。きっと、今の私には見えていないけれど、この先読み返したら受け取れることもまだまだ潜んでいるかもしれない。
小説も音楽も映画もそうだけど、作品ってそういうところがほんと面白いよなぁと思う。今の自分といつかの自分でも受け取れるものは違うし、自分と誰かでも受け取れるものが違う。みんな、読むたび観るたび聴くたびに、そのときの自分の絵筆で作品を描写しているのだ。
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