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2015-12-30

遠のく意思決定

なんとなく、意思決定というものから遠のいているなぁと思いたって数ヶ月経つ。日々いろんな選択はしているし、外見からすれば日常的に意思決定しているのだけど、やることの大方は「自分」が勝手にやっていて、「私」が決めたという介入プロセスは感じられない。

「自分」が決めてやっているなら、それが意思決定なんじゃないの?と思う人もあろうけれど、わたしの感覚からすると、意思決定というのは、奥の間の「私」が特別に下す場合であって、世の中に生身をさらしている「自分」が日々やっているのは、意思決定というにはちょっと大仰な感じがする。

「自分」が日々やっていることというのは、意識的に選んでいるというより、自然のままにしているとそうなるという、いわば自動的な感じだ。「この人が自然体で思ったり考えたり動いたりすると、自動的にこういう選択になります」という自然な選択の集まりで、わたしの日常は営まれている。

フロントの「自分」と、バックヤードの「私」ももう長いつきあいになるので、いい加減「自分」のほうも「私」のアイデンティティらしきものの大方を掌握していて、いちいち「私」にお伺いをたてなくても、自然体でやっていると勝手に「私」らしい判断なり目配りなりを「自分」がやっている状態になっているんじゃないかと、ややこしいことを考えていた。

昔はもう少し「私」がでしゃばって陣頭指揮をとる機会があった気がするのだけど、最近はもっぱら「自分」にお任せだ。「自分」が勝手に考えて、勝手に思い巡らせて、勝手にやったり止めたりしている。

今ちょっと視野が狭くなっているかもしれないから、信頼をおける人に話して死角がないか確認してから先進んだほうがいいんじゃないの?みたいなのも、以前は「私」が忠告していたけど、今は自動化されている感じだ。しばらく小説ばかり読んでいたから、そろそろビジネス書も手にとったほうがいいかしら?なんていうのも、勝手に「自分」がやっている。

「私」はそれを事後的に認識して、「自分」はこういう思いでこう動いたんだなぁと解釈を加えたり、やっぱりあそこは一旦待ったほうが良かったのかもなぁと反省を加えたりする。あーぁーと後で残念に思うこともあるけれど、事前に「私」が「自分」をコントロールするのも難しい。

思いのほか、「自分」というのは「私」のコントロール下にないものだな、と認識するようになったのもある。それならもう、世の中の前線でどう振る舞うかは「自分」にお任せするしか、そもそもないじゃないかと。

ここで手を抜きたくない!と思えば勝手に頑張るし、引っ込み思案になると「私」が何言っても全然頑張らないで引っ込んでいるし、テンパるなと言ってもテンパるときはテンパるし、行き届いた配慮を心がけていても目配りが足りぬこともある。その辺を「私」が予め言ってどうにかしようと思っても、コントロールがきかない。自分は自分で、不完全な生身をさらして前線で生きているのだし。「私」が掲げる理想ほど立派な人間じゃないけれど、それが「自分」なのだ。

そう見たほうが、なんだか実際にあっているなという気がする。こんなことを考えだしたきっかけは確か、仕事の席で意見を求められた時、「自分」が急に饒舌に熱っぽく早口で喋り立てていたのを後で「私」が振り返って。「すごいな、この人、この辺には並々ならぬ信念があるんだな」と、「自分」のことを事後的に理解していた「私」をみて、いたのは誰なのか…。

「私」と「自分」のこうした関係性はなかなか興味深く、歳をとるとは、こういうものかなという気もしている。だいぶこんがらがった話だけど、2015年のうちに書き残しておきたかったこと。

2015-12-29

形見とお古

冬になると、私は収納の奥にしまいこんでいた手袋をごそごそ取り出す。ここ5年ほど、ずっと同じのを使っている。黒くて柔らかい革ので、相当にくたびれている。私の扱いも決して丁寧とは言えないが、それは5年前の時点ですでに相当くたびれていた。これは、母のお古なのだ。

母が亡くなったのは2月で、とても寒い時期だった。私は実家から斎場に向かうとき、母のタンスから手袋を拝借した。というか、本人の了解を得ずに、事実上もらった。嫌ってことはないだろう、どちらかといえば、使ってくれたほうが嬉しいものよねって解釈して持ちだした。それをそのままずっと使っていて、今に至る。

これを先日まじまじと眺めていて、ある人はこれを「形見」と呼ぶのだろうなと気づいた。けれど、私からすると、それは「お古」という感じがする。

人が「あぁ、お母さんの形見なんですね」と言えば、「まぁ、そういうことになりますね」と抵抗なく返せるし、そちらからみれば「形見」というのがもっともしっくりいくだろうなとも思う。一方で、私からみると、それは「お古」というほうがしっくりいく。このことを、なんだか面白いなと思った。

それは、まず一つの見方として「手袋」という名前を与えられているわけだけど、その先それは亡くなった母の「形見」という言葉にもなるし、ごく個人的な関わりをもってそれに向き合う私からすると「お古」という言葉にもなる。

言葉は、何かを意味づけるとともに、装いとか雰囲気というのもまとって世の中に出てくる。言葉を世に送り出す人は、こっちのかっちり系も悪くないけど、私はもうちょっとくずしたのがいいわとか、自覚的であれ無自覚的であれ、静かに装いを選んで言葉を出し分ける。

あるいは、装いのレパートリーが少ないと、うまく出し分けられずに、ちょっと不格好と思いながら言葉を送り出すことにもなる。あるいは、送り出すのをやめてしまうことにもなる。私はよくある…、この感じをもっとスパっと端的に言い表す二字熟語が、世の中にはきっとあるはずなのにと。語彙表現が貧弱なのは常に悩ましいが、しかしこれは地道にたくさん本を読んで文脈にのせて新たな言葉を吸収していくしかないだろうな。

閑話休題、ものにもことにも、いろんな人がいろんな言葉を与えていく。その多様な言葉の与え方に向き合うとき、人の言葉の妥当性を評価したり判断するより、その言葉の内奥にどんな思いや考えがあるのかに迫る手がかりとしたい。私にとって「人の言葉」とは、そういう手がかりとしての役割が一番大きいと思う。そうした言葉の役割や意味づけも、人それぞれでいいと思う。そういう考えをみんなで交換しあえるのが健全だ。と、なんとなく思いつくままに書いた冬休み1日目。

2015-12-27

「CSS Nite Shift9」参加メモ

昨日は、「CSS Nite Shift9」( #cssnite )というWeb制作に関わる実務者向けのセミナーイベントに参加してきた。

CSS Niteは今年10周年を迎えた老舗のセミナーイベント。CSS Niteとのつきあいは古く、2005年にマンスリーイベントを始めて間もない頃から、ほぼ10年のつきあいだ。3年前にもここで書いたことがあるけれど、10年の節目をもって改めて敬服するのは、この時代、この業界では「変わり続けなければ、存続しえない」ことを、その10年の発展的存続をもって体現しているように思うからだ。CSS Niteは、変わり続けたから、在り続けたのだよな、と改めて敬意の念を抱いた。

主催者・登壇者・参加者がフラットにつながるポリシーを大切に継承しつつ、しかし取り扱うテーマやカテゴリーは業界の発展とともにさまざまに変化を遂げ、年々広がりを見せた。イベントのやり方も開催頻度も、開催地も参加者層も(もちろんリピーターも多いんだけど)固定化することなく、いろんな属性を取り込みながら今に至っている。前と同じことを書いているだけだけど、あれからさらに3年、それをやってのけているのは、やっぱりすごいことだなと思う。

市場はどんどん高度化していき、講演内容も登壇者もどんどん専門性を高めていく。イベントとしても、主催者・登壇者とも年々成熟していって、事前の作りこみも当日のパフォーマンスも半端ない。正直、その凄みをひしひし感じ取ると、小心者の私は気軽に登壇者に声をかけられなくなっていった。せっかくのコミュニティのフラットさをうまいこと自分に取り込むことができず、昨日などは、相対的に自分の10年がものすごく小さな成長に見えたりもしたけれど、それも一つの刺激として持ち帰って、来年のエネルギーにしたいところ…。

「Shift」は年末恒例イベントで、「マークアップ」、「アクセシビリティ」、「ツールと制作環境」、「デザイントレンド」といったカテゴリーごとに、その年のWeb制作シーンを振り返り、知識やスキルの棚卸しをするというもの。それぞれの内容は他所に委ねるけれども…(スライドは確か3ヶ月後には公式サイトで一般にも公開されるはず、Togetterはこちらで)、ここでは冒頭の長谷川恭久さんの基調講演に触れたい。

それは、Web制作の現場でデザイン工程を担う人たちへのメッセージとしても、ぐっと来るものだったけど、(現場外の)私個人としても、共感するところや、自分ごととして考えさせられることがある話だった。私が受け取ったメッセージと、自分の中の共感ポイントが一緒くたになったものをメモに残すと…(つまり正確な講演の要約じゃなく、私の考えや言葉がちょいちょい混入している)。

〜デザインを、デザイナーだけのものにしないこと。そこはもはやビジネスと直結した意志決定なわけだし、デザイナー以外も巻き込んでデザインの評価や検討をしていく必要がある。そうするためには、デザイナーが「デザインプロセスを可視化」する必要がある。デザイナーがプロセスを可視化して、人に伝え、周囲に還元していくこと。最近は、プロセスを簡単に可視化できるツールもある。そうして、デザインをビジネスの線上できちんと意味づけていかないと。

で、そのためには、インプットしたものをアウトプットしていかないと進まない。アウトプットしなければ、スキルアップもしないし、周りも変わっていかない。人に向かってアウトプットするのが怖い気持ちは誰にだってあるし、自分にだってある。けど、出さなきゃわかんない。出すから、足るもの・足らぬものが見えてくるのだ。〜

というわけで、自分のアウトプット活動をちょっと見直したいのと、その先「人にどう還元できたか」を注視したい。アウトプットして自己満足じゃなくて、それが何views獲得したとかじゃなくって、自分のアウトプットを受け取った人が、それをどんな「その人のインプット」として受け取ったのか、それがどんな「その人のアウトプット」に変容したのか。そこがやっぱり肝心なところで、特に私のような媒介者のような役回りだと、そこにバトンを渡せられなければ全くの役立たずだ。

って全然Webの話していないけど、この基調講演を引き継いでの各カテゴリーの講演で、いずれも濃密で面白く有意義なCSS Nite Shift9でした。主催者・登壇者・運営者の皆さん、ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。

2015-12-17

スライド共有:効果が出る「仕事の教え方」

職場で新人や後輩育成にあたっている方向けに「仕事の教え方」スライドを共有します。

社内に人材開発部門をもたない少数精鋭の組織や、ゆるいつながりのチームを形成して個人で活動している方も多いと思います。そうした方に、後方から人材育成面で何か意味あるサポートができたらという気持ちはずっとあって、その活動の一環で公私混同のスライド共有です。

仕事の教え方って、万能な一つの方法があるのではなくて、学ぶ相手にあった個別最適化を図るのが最適解かなと思っています。

そうすると、教える側は「自分の教わったやり方」だけでなく、いろんな打ち手を知っておいたほうがいい。「この人にはこの手で、あの人にはあの手で教えたほうが効果的だ」って、やり方を選べれば、教える側のストレスも減るし、学ぶ側の効果も上がりやすいんじゃないかなと。特に最近は、学び手との世代間ギャップで苦悩している教え手の声をよく聞くので…。

そこで、教える側の人たちが集まって、「自分たちの現場で、後輩や新人をどう教えたらいいか/どう関わったらいいか」を深く掘り下げてシェアできる場を作るのが、私のように外からサポートする身の上では一番いいんじゃないかと考えました。

このスライドには、○○業界向けとか○○職向けといった具体的ノウハウは盛り込まれていませんが、その内容をみんなでシェアしやすいフレームワークを共有しています。

これをテーブルに置いて、具体的なノウハウはみんなでわいわい膝突き合わせて出しあっていただけたらという思いでまとめました。

スライドは、第1部にあたる「講義」部分の共有となりますが、第2部をぜひ「フリーディスカッション」という形で、社内や同業者の集まりで「自分はこうやってる」「みんなはどうやってる?」と交換していただければと思います。

またご相談に応じて、業界・組織風土・職種・育成方針・制約条件等に応じた分析や内容カスタマイズ、勉強会の構造づくりやワークシートの提供、当日のファシリテーションもサポートさせていただきますので、お気軽にご相談くださいませ。

皆さんの人材育成の現場で、何かしら役に立つところがあれば大変嬉しく思います。

2015-12-16

「トレードオフの関係」に分け入る

ちょっと散漫になっちゃったけど、この間もここに書いた組織開発の本(*1)の読書メモ的に、この本に紹介されている「認知的倹約家」と「マネジリアル・グリッド」について。

倹約家というと「自分のお金の消費にケチ」な人を思い浮かべるけれども、心理学でいう「認知的倹約家」というのは「自分のエネルギー消費をケチる」現象といえばいいだろうか。本の中では、このように説明されている。

人が何らかの認知や情報処理をしようとする場合、複雑で難しい認知的処理よりも、エネルギーをかけずに単純で簡単な認知的処理と判断を行う傾向がある、という現象

身近には「ステレオタイプに人をみる」とかが、そうかなと思った。人は個々人でさまざまなのに、性差や世代、人種、職業、所得差のようなデモグラフィック属性だけで判断してしまう。「年寄りだから」「女だから」「子どもだから」「○○人だから」「働いていないから」「最近の若者は」などと、わかりやすいラベルで人をひとくくりにまとめて、個人をみようとせず、「属性と問題」を安易に因果関係で結びつけてしまう。というのは、他人に対してばかりでなく自分に対しても、思考停止してやってしまうことだ。

仕事の現場でも、認知的ケチ現象はそこら中で起きているのではないか。問題の要因はさまざまで、奥深くに真因が隠れているかもしれないのに、目の前で起きていることや、数値化された情報だけで物事を読み取ろうとしたり結論を出してしまうといったこと。

また物事がうまくいかないと、その施策自体が見当違いだったのか、そうではなくプロセスに不備があったのかを検討しないまま、(プロセスに改善の余地があるのに)この施策はダメ!とあっさり施策そのものを短期間で取りやめてしまったり、組織替えを半年ごとに繰り返したり、(施策自体が機能不全なのに)延々同じ施策を継続してプロセスを見直し続けたり、大きな変革に打って出られないなど。

もう一歩を踏み込まず、「単純で簡単な認知処理と判断」で済ませてしまうというのは、組織でも起こりがちなことだよな、と思う。

でも、職場の「単純で簡単な認知処理と判断」は、どんどん機械化されていく。マネジメントも、数字だけで判断しているなら不要になる。「AよりBのほうが数字が大きいからこっちにします」なんて判断は機械でもできることで、ひとたびツールが導入され、それが通常ワークフローとなれば、担当者とツール間のやりとりで完結するようになる。自動化されれば担当者の仕事だっていらなくなる。

もちろん、数字だけみて判断していたらそうだという話。「ここで提示された数値は、成果なり仮説の論拠を示すのに本当に妥当な数字なのだろうか」とか「数値化はされていない、するのが難しいけれども、裏に潜んでいる現象はないだろうか」という問いを立てて、部下にフィードバックしたりアドバイスしたり、ツールへの指示に変更を加えたり、「今は判断する時期じゃない、この結果が出るまで継続して様子をみよう」という判断をしたり、必要な定性情報も集めて照合して、プロジェクトの軌道修正をしたり。こうしたことは「複雑で難しい認知処理と判断」を要するだろう。

先日エスノグラファーの方のお話をうかがっていたときに、「問いを問い直す」とか「仮説が見えてきたときこそ、仮説を捨て去る」とか「問いかけながら、判断は待つ」といったことをお話しされていたけれど、そういうのは複雑で難しく、訓練した人間の業(わざ)だなぁと思う。

肩書きはどうあれ、「複雑で難しい認知処理と判断」をする力が、人の仕事の市場には残っていくのだろうなと思う。人の温もりを要する仕事とか、それ以外にも人の仕事の市場に残る領域はあるのだろうけど、それはまた別の話。

そこで「複雑で難しい仕事」として思い当たるのが、トレードオフに分け入って解を生み出す仕事だ。単に「認知的倹約家」を知った本(*1)に、ブレーク&ムートンの提唱した「マネジリアル・グリッド」というのも書いてあって、あぁこういうことだなぁとつながっただけだけど、これもメモしておく。

「マネジリアル・グリッド」というのは、組織開発の分野で、マネージャーや組織が目指す共通の枠組みとして知られるものだとか。ブレーク&ムートンが示したのは…

  1. 多くの人は「業績を上げること」と「人を大切にすること」は両立しないし、「仕事ができる能力があること」と「人間関係を円滑に保つこと」の両立は難しいと考えている。
  2. だから、どちらか一方、または両方がそこそこになりがちだと捉える。
  3. だけど、「業績に対する関心」と「人に対する関心」は必ずしも相反するものではない。両方に対する関心を高めて統合することが可能である。
  4. だから、両立しないものと切り捨てずに、どちらも大切にして価値を生むことを説いたもの。

Managerialgrid_2

図は、横軸に「業績に対する関心」、縦軸に「人に対する関心」の二軸からなる。各軸について関心の程度を1~9として(1=関心が低い、9=関心が高い)、理論上は9×9のマス目が想定できるが、その中で代表的な5タイプに絞ったもの。右上の「9・9型」が、マネージャーや組織の風土として理想的な形だという。

  • 業績に対する関心…仕事が中心であり、業績を上げることを重視し、業績目標を達成することに関心を向けている程度のこと
  • 人に対する関心…人の幸福とお互いの関係性に関心が向いている程度のこと

高い業績目標を達成することを目指すとともに、部下が主体的に考えて実行し、人間的に成長することも目指すもの。提唱されたのは1960年代だけど、考え方やアプローチは組織開発を考える基本となるもので、現代でも適用できる普遍的なモデルとして紹介されていた。

こうしたマネジメントの評価って、たいてい「業績・パフォーマンス・収益」系の軸と、「プロセス・リーダーシップ・人」系の二軸を立てているものが多い気がするけれど、どうかしら。

ともかくマネージャーの仕事に限らず、普通の人なら素通りしてしまったり、一見してトレードオフの関係と割りきってしまう仕事を、立ち止まって関心を向け、もう一歩分け入って丹念に分析して両立させる解を導こうとするところに、人の専門の仕事があるんだろうなぁなどと思った次第。

それを支えるのは、人によって熱意だったり執着心だったり好奇心だったり問題意識だったりロジカル欲だったり人に尽くしたいという思いだったり、いろいろなエネルギーのあり方があるんだろうけど。いずれにせよ、トレードオフの関係に分け入って統合する仕事の複雑性を楽しみたいなと思う。

*1:中村 和彦「入門 組織開発 活き活きと働ける職場をつくる」(光文社新書)

2015-12-13

「UXまとめ 2015」参加メモ

一昨日は「UXまとめ 2015」( #uxmatome2015 )というソシオメディアさん主催のイベントに参加した。まさに、2015年のUXデザイン&ビジネスまわりが俯瞰できる講演を伺えて良かった。その後、みんなで学級会的なノリでお話しできたのも、懇親会で講演者の上野さんに質問できたのも、10人くらいで中華屋さんに行ってゴハン食べながらわいわいおしゃべりできたのも楽しかった。非常によい時間を過ごせて、主催者にも、お話しさせていただいた皆さんにも感謝。久しぶりだったな、あんな時間をもったの。

講演内容はSlideshareに上げてくださっているので、ご興味のある方は下の「講演名」からリンク先へ。

上野学さんの講演は「UXとデザイン まとめ」。

混迷するUXの定義なり人々の解釈なりを整理して捉えるのに、これ以上ないという内容。意味も使われ方も動き続ける今にあって、厳密に「UX」という言葉を一つに定義づけようとするより、世の中で今どんなふうにその言葉が使われているのかというThe Sound of UX(UXの語感)を捉えたほうが実務的に有意義である。

というところに立脚して、実際に上野さんがコンサルティングの現場で触れてきたUXという言葉の使われようを、包括的に整理して示してくれている。これが実におもしろく、わかりやすく、頭の中をすっきりさせてくれるもので秀逸!だった。「あぁ、あるある」という10個くらいの使われようを挙げていて、混迷具合もよくわかった。

押さえておきたいポイントとしては、
▼UXの「様々な定義からうかがえるポイント」として、
・主観性
・消費者とユーザーを対象とする(つまり製品ライフサイクルのすべてを包含する長期的レンジのものである)
・品質特性と感性特性の関与
・テクノロジーの活用(←これは上野さんがご自身の見識から導いた観点)

▼UXは
「人工物(Artifact)に対峙したときに人(Human)が体験するもの」

篠原稔和さんの講演は「UXとビジネス まとめ」と題して、ビジネスの観点から動向を共有くださった。UXまわりでいろんな言葉や概念が見聞きされるけれども、それを
・思想(理念)
・メソッド(方法論)
・手法(具体的な手段)
に分けて理解すると整理しやすい。

米国にも1ヶ月ほど滞在して動向調査してこられた経験から、潮流の一つとして「リモートUXリサーチツールの隆盛」を挙げていた。

専門分野というのは、まず専門家が出てきて、普及過程で専門家ならずとも扱えるツールが出てきて、一般化し裾野が広がる道筋をたどるけれども、この話を聴いて私が思ったのは、となると専門家の仕事もそれに影響を受けるよなということ。

ツールでできることはツールに仕事を譲ることになるわけだから、専門家の仕事はツールの普及とともに変化を迫られる。そのツールを開発して売る道筋もあるだろうし、より高度で複雑な領域をコンサルタントとして預かる道筋もあるだろうけれども、ソシオメディアさんは後者だと思うので、どんなふうに引き受ける仕事が変化しているのかも、講演後に上野さんにお話を伺ったりした。実際そうしたことは起こっていて、クライアントの組織デザイン、人の採用や育成のほうまでサポートされているとか。

フリーディスカッションでは、なんだかんだほとんど全部が、UXデザインの意義なり価値なりを、どうわからない人(決済者や関係するメンバー)にわかってもらうかという議論だった気もして、参加者が現場でいろいろ苦労している様子がうかがえた。

外野の私としては、つまるところ「相手に合わせて個別最適をして可視化・言語化して、適切なタイミングをつかんでそれを示す」ことに尽きるんだろうな、という印象をもったが、現場の人からすれば、ざっくり言ってくれるなよということだろうな、とも思う。

それでもとりあえずざっくり言ってしまうとすれば、
・数値化できて、ビジネスゴールに対するKPIとして妥当なものが出せるなら、もちろん出せばいいし、数値化できるからというのでビジネスゴールに通じないKPIを無理やりこさえても意味はない。それなら立てないほうがいい。

・数値化しなくても、ユーザーテストの現場に決済者を呼んで高校生が使えない状態を目の当たりにさせるとか、それを撮影して見せるとかっていう定性情報によっても、UXデザインに関心を示さないことがいかにビジネスインパクトのあることかをショック療法的に示すことはできる。数値化できないからというだけであきらめずに、定性的に示せる可視化・言語化の方法を探るのは重要だ。

・定性でも定量でも今はとにかく相手の理解を得られない状態にあるとして、それでも自分が意味があると思ったら、言わないでやる。へたに説得しようとしないという話も。こっそり自分が頑張れる範囲でやって、成果を出したらその時点で、背景にある取り組みとの因果関係を示して取り組みの価値を理解してもらう。「見たことがない何かを概念で説明して、なるほど!となる人は少ない」という意見には、ただただ頷くばかりであった。

とりあえず、参加雑感などメモ的に残す。

突然は突然に来る

私が直接交友のあった方ではないのだけど、私の大事な人たちの大事な人が、突然に亡くなってしまったり、突然に朦朧として意思疎通できない状態になってしまう事態が、ここ数週間のうちに3つもあった。一人は心筋梗塞、一人は交通事故、一人は脳内出血だ。

一人はブログを読んで、その近況に触れた。お母さんが突然の事態に見舞われ、バタバタとして一日を終えて深夜家に戻ると、お父さんが「言っておきたいことがあったのに…」と呟いたという。自分が先に逝く前提で、その前に言い残していこう、いずれ…と思っていたら、嫁のほうが先に参ってしまうという思いがけない事態。これは、我が家でも父が経験したことで、その思いと重なって滲んでみえた。

まさか、そんなことはないと、想像もしない。突然が突然にやってくるかもしれないからと思って、「いやぁ今日が最期かもしれないから言っておくけれど」なんて、元気な日常の中では、なかなか口に出す気にはなれないものだ。

だけど、突然は、突然にやってくるのだよな。当たり前だけど。昨日は元気だったのに、数時間前に手をふって別れたばかりなのに、ということが、日常に起こってしまう。突然は今に接続しているし、突然は日常の中に起こる。だから突然なのだ。

言いそびれてしまう、伝えそびれてしまう、触れそびれてしまう。何をしたところで、何かしそびれてしまった悔いは残るような気がするけれども、それでも本当にやりきれないということにならないように。

そのためには、やっぱり、突然は突然にやってくるのだよな、という当たり前のことを、時々思い返して、意識して生きていくことかな。「意識して生きていける」ということが、人間のすごいとこだしな。

そして、人に対しての悔いを残さないようにってだけでなく、やりたいことがある人は、「突然」におそわれる前にやったほうがいいのだ。私はやりたいことがある人の生命力に共鳴して、それをサポートするのが自分のやりたいことっていう微弱で他力本願な生命力だけど…、私なりに今を大事にして、自分とも人とも関わりたいと考えさせられた。

2015-12-11

イルカの知らせ

数週間前の日曜日、友人らとの楽しい晩餐会で飲みすぎしゃべりすぎたためか、病み上がりの喉が痛みだし(飲むなという話だが…)、家に帰ると早々に就寝した。そこで、イルカの夢をみた。

私は普段あまり夢をみない(というか憶えていない)のだけど、その日はめずらしく憶えている状態で、夜中に目が覚めた。小説を読んでいる時期って、想像力なり空想力を活発に働かせるためか、夢をみることが多い。ストーリー性を帯びた鮮やかな色調の夢をみやすく、それで憶えているということかもしれない。イルカが出てくる夢は初めてだったので新鮮だったというのもあるかも。

夢の始まりは、晩餐会のメンバー4人。キャスティングは数時間前の現実と地続きで単純だ…。五月のようなさわやかな陽気で、澄みわたる青空にさんさんと降りそそぐ陽光のもと、私たちはのんびりと新緑の丘を上がっていく。

見晴らしのいい丘のてっぺんまで上がり、私たちは眼下の町の先に広がる湾を見下ろす。日に照らされた水面に薄っすら影が映りこんだかと思うと、一気に水面から影が跳びだし、2頭のイルカが大きくジャンプして、空に弧を描いた。

「わー、イルカだー」と興奮する私たち。そのうち一人が前に出ていって、水族館のショーのようにイルカとハイタッチをする。1頭目とハイタッチ、2頭目とハイタッチ。そして3頭目が現れた。3頭目の体は小さく、前の2頭の子どもかもしれないな、と私は後ろで見守りながら思う。

一歩前に出てハイタッチしている友人が手を伸ばし、イルカもこちらにせり出してくるが、3頭目は大きく湾をはずれてしまう。ハイタッチは叶うも、眼下の町のどまんなかにどーんと落ちる。子イルカは城下町のようなところに勢いよく落っこちて、城を取り囲む瓦塀を壊してしまった。

こちらから見ると、塀は模型のように小さく、イルカは怪物のように大きい。怪物といっても、落っこちたイルカはケラケラと笑っている様子でゴキゲンだ。あっはっはー、まちがった所に落っこちちゃったー!とでも言っているようで、ケガもない様子。

とはいえ、踏んづけられた町のほうは瓦塀が崩れてしまって、そこそこの被害が出ている。あの辺一帯を修繕するのは、それなりに大変だ。私は、ハイタッチでイルカを呼び寄せてしまったのは私たちだし、これは城主なり町人のところに出向いて、説明と詫びをすべきかどうかと考えだす。

しかし、考えだしたところで、いや、ちと待てよ、と思う。なんで先ほどの2頭はジャンプの後、問題なく湾に戻っていったのに、この子だけ城下町に落っこちたのだろう。3頭目だけ体が小さいから?子どもだったから?いや、1、2頭目が丘の上の人と町超えてハイタッチできてるのも、そこからきちんと海の中に戻れているのもおかしいだろう。町とイルカのサイズ差もおかしいし、これ、いろいろと縮尺が合わないんじゃないか?と。

そこで、そうか、これは私の夢だからか、と思いつく。そうだ、私の夢だから大雑把で、描写が精緻さに欠けるのだ。他の人が描けば、こんなテキトーにはなるまい。そうか、夢ということなら、この城主がものすごい金額を負担して塀を直さなきゃいけないということでもないだろうし、特別詫びに行かなくても大丈夫か。なら良かった。

というところで目が覚めた。ほんとに夢だった。目が覚めたとき、「なんだか心地よい夢をみた、イルカの夢をみた」と思った。特別イルカから連想する個人的な体験も思い当たらなかったから、こりゃユングがいうところの普遍的無意識からやってきた夢かもしれぬ、Googleで「夢分析 イルカ」って調べてみようと検索してみた。いい夢っぽかったから、ひどいことも書かれていないだろうというアテもあった。

すると、イルカは「幸運の象徴」とか「援助者を表す」とか書いてあり、「今取り組んでいる物事が大きく動く。積極的に取り組むことで、得られる成果が大きくなることを予兆」とか、「対人関係が良好に」「交友関係に広がり」を暗示とか書かれている。

それはそれで、子供の頃、朝のテレビ番組でやっている星占いを見て、へぇと思いつつ3分後にはすっかり忘れている…というのと同じくらいの感じで忘れていたのだけど、そういえばここ最近、景気よく自分の周辺で人の動きが活発なんだよなと思う。

その前しばらくが相当地味だったので、今が人並みくらいだと思うんだけど。自分の動き自体は相変わらず地味なのだけど、お客さん、取引先、友人と、いろいろ人の出会いなり触れ合いに引っ張られる力が働いている感があり、感謝することも多い。そういえば、成人式以来会っていない中学時代の友だちから20年ぶりくらいに連絡が来たりもした。

「それは年末だからでしょ」と理屈を言う小人も自分の中にはいて、「それもそうだな」と納得する小人も自分の中にはいるのだけど、「まぁでも、イルカの知らせがあったと考えると面白いねっていうくらいの遊びは持っておいたほうが楽しいよね」っていう小人もいる。わからないものは何かに決めつけず、わからないままに遊ばせておくのが、頭のなかの状態として私には心地いい。なんだかよくわからない話、なんだかよくわからない夢だけど、なんとなくメモ。

2015-12-07

人材開発から組織開発への一歩

2年ほど前から、ホールディングス傘下のグループ会社で「組織開発」に一歩ふみだす感じの仕事をさせてもらっている。私は通常のクライアント案件だと、社員研修を中心とした「人材開発」領域を提案・提供するのが常なんだけど、社内やグループ会社からの相談だと、直接の業務実績がなくても「この辺もイケんでしょ」的に普段の職務範囲を広げて仕事機会をもらえるのがありがたい。

組織からすれば、外部委託しなくて済むならコスト的にも助かるし、その経験をもって内部人材の能力アップが図れるなら、それに越したことはない。という意味で、サラリーマンは新しい領域への機会を得やすい身の上だと思うのだけど、何事もひとくくりには語れぬ世の中なので、ひとくくりには語らないほうがいいのかもしれない…。

とにかく、この件については私はどっぷりサラリーマン的美味しみをありがたく頂戴しており、組織開発寄りの仕事にチャレンジさせてもらっている(あくまで自分の中ではそういう認識という話だけど)。まだまだ端っこで局所的にサポートしているにすぎないけれど、現場に立って試行錯誤しながら、できることを増やしていっている。

そんな今さらだけど、つい最近「入門 組織開発 活き活きと働ける職場をつくる」を読んで、これまで自分が「こうしたらいいんじゃないか」「ああしたらいいんじゃないか」と現場で試行錯誤しながら提案したり対処したりしてきたことが、人材開発から組織開発のほうへ広がっていっているのを事後的に確認した次第。 ちょっと改まって、これまでの現場経験と、その過程で考えたこと、今回得た知識体系を頭の中で関連づけて整理ができた。

個人的には、「知識習得→経験」の順で知識体系にならって実践するよりも、「経験→知識習得」の順でいくらかでも実践してから事後的に知識体系を整理するほうが、野生的で性に合っている気がする…。

以下は、先の書籍ベース(*1)で「組織開発」について整理したことの一部をメモがてら。

人材開発は「個人」の知識・スキル・態度変容に向き合うのに対して、組織開発は「個人」に留まらないいろんなレベルの諸課題に向き合う。組織開発の対象は、個人、個人対個人、部署内・部門内、部署間・部門間、組織全体のシステムと、必要に応じ組織内の多様なレベルに働きかける。

諸課題を、組織のマネジメント課題6つに分けて考えてみると。

  1. 目的・戦略…

    目的・戦略・理念の立案→明確化→浸透

  2. 構造…

    仕事の分類、部門・部署の構成、人の配置、役割の割り当て

  3. 業務の手順・技術…

    業務の手順化→明確化→共有、効率的な技術の採用、業務プロセスの改善

  4. 制度(施策)…

    人のモチベーションアップやキャリア発達のための制度構築、施策実行(評価制度・報酬制度・目標管理・キャリア開発・メンタルヘルスなど)

  5. 人(タレント)…

    個人の能力、スキル、リーダーシップ、意識やモチベーション、感情や満足度(適切な人を採用し、能力を高め、リーダーとして養成する)

  6. 関係性…

    部署内のコミュニケーションの仕方・お互いの協働性やチームワーク・リーダーシップのありよう、部署間のコミュニケーションの仕方や連携、組織の文化や風土

マネジメント課題というと、ハードな側面(上4つ)に目が向けられがちだけど、ソフトな側面(下2つ)も結果の質に影響を及ぼす。

コミュニケーションが不活性なら、会議に出てくるアイディアの数も少なくなるし、モチベーションが高い低いで真逆の判断を導くこともあるし、結論を先延ばしにすることにもなる。チームワークの良し悪しで仕事効率は大いに影響を受け、かかる時間・期間も大きく変わってくる。

ハードな側面(コンテント)も大事だけど、ソフトな側面(プロセス)も軽視してはダメ。 「お互いの関係性が企業の成果や収益に影響する」ことを認識して対処することが重要。組織開発は、ハードな側面を無視したり軽視するものでもなく、ハードな側面もソフトな側面も6点包括して、ハードとソフトの同時最適解を探る。このように、働きかける「対象」、取り組む「課題」を捉えるなら、人材開発は組織開発に内包されると言える。

組織を相手にして問題解決に関わっていくと、「個人」への短期的な介入策だけでは解決に至らない領域を必ず確認することになる。「個人の能力・スキル・態度変容」だけでは終わらないケースに直面する。クライアント主体でその問題解決にあたっていくのは当然なのだけど、自分の仕事として、もう一歩深く掘り下げて、中長期的に、組織の内側から、広範囲を扱って変わっていくのをサポートするのは、独特の有意義さがある。

学ばないと伸びないし、やらないと伸びない。きちんとインプットして、しっかりアウトプットして、自分が力になれることを増やしていきたい。そうして組織開発に及ぶところでももっと豊かな経験を積めれば、一般のクライアント案件でできることも増やしていけるだろう。それが人材開発の案件でも、見える視界、捉えられる課題、提案・提供できることの厚みは変わっていくはず、という希望的観測。

*1:中村 和彦「入門 組織開発 活き活きと働ける職場をつくる」(光文社新書)

2015-12-06

自動改札前のおばさまの困惑

そこそこの大きさの駅だと、複数台並ぶ自動改札機に2タイプあることがある。ひとつは口が2つあって、ICカードも切符もイケるクチ。もうひとつはICカード専用で、ピッとしかできないタイプ。こっちは切符を飲み込む口がない。

1台導入するのにけっこうな費用がかかるだろうから、乗降客のICカード利用率が高い駅では、できるだけお安いほうのICカード専用タイプを混ぜつつ構成したいということだろう。

しかし、この2タイプ、改札口にしれっと一列に並んでいるので、なかなか分かりづらい。切符の利用者こそ、2タイプ構成になっていることを承知しておきたいところだけど、切符の利用者こそ知らなくて困るケースが多いのでは、と思う。

今日も東京駅で、おばさま2人組がカードをピッとする所に切符を押しあてて入場お断りされていて、「入れへんわ〜」と困っていたので、「こっちからなら入れますよ。そっちだと切符を入れる口がないんですよ」と案内した。前にも「休日の東京駅」みたいなところで不慣れな年配の方に同じ案内をしたことがある。それはそれで、旅の思い出話の一つにでもなればと思ったりするのだけど。

私の場合、仕事を離れると発想が自然のなりゆき任せなので、「ICカードがもっと普及すれば解決。時間の問題なので、それまでは人の親切で対応すればいい」とか、時間経過と人情だのみになってしまう。せわしなく混雑した人ごみの中でもちょっと立ち止まって案内する「もてなし東京人になろう!」とかの草の根系…。

これがインターフェイスデザインの専門家だと、全然ちがうアプローチから何か思いつくのだろうか。時間と関心と知恵のある方はもっと、一手であっさり解決!コストも時間もかからない!周囲に人がいなくても大丈夫!みたいなの、考えてみていただければ。物なり環境なりのインターフェイスデザインを学習する演習課題にもなるかしら。妥当な答えが見出されうるお題なのかは検証していないけれども。

2015-12-03

人の作品、自分の絵筆

村上春樹の長編を読み終えると、なんとなく流れにのって、そのままよしもとばななの未読作品に手を出した。村上春樹から間をあけずに、よしもとばななを読み出すと、初めうまいこと物語を頭のなかに描きだせなくて四苦八苦した。

あぁ、絵筆を持ち替えないと、描けないのか…と感覚的に思った。村上春樹の絵筆のままでは、よしもとばななの世界はうまいこと描き出せないのだ。しばらくページをめくってゆくうち、持ち替えに成功したようで、読んだ言葉がそのまま頭のなかに描かれていくようになった。言葉って不思議だ。

一旦そこをクリアすると今度は、私のなかの無意識が、私のなかの意識を介さずに、物語と通じて勝手にやりとりしているような感覚を覚える。だから、理由は説明できないし、これというあてもないのに、読んでいるとなんとなく泣きたい気分になることがある。それは決して劇的なシーンを表わしているのではなく、例えば風景を描いているようなところで起こる。

悲しい涙でもないし、喜びの涙でもなさそうで、これという単一の感情の表れではなさそうだ。結局のところ、涙も流れるまではいかない。それくらいに淡い、心のかすかな揺れを感じることができるまで、人を繊細にできるのが、彼女の作品がもつ独特の力かもしれないなぁなどと思う。

彼女の作品を読んでいると、あぁこのあたりは、私10年前に読んでも、今と同じだけの質量で受け取ることはできなかっただろうなって思うところが多分にある。きっと、今の私には見えていないけれど、この先読み返したら受け取れることもまだまだ潜んでいるかもしれない。

小説も音楽も映画もそうだけど、作品ってそういうところがほんと面白いよなぁと思う。今の自分といつかの自分でも受け取れるものは違うし、自分と誰かでも受け取れるものが違う。みんな、読むたび観るたび聴くたびに、そのときの自分の絵筆で作品を描写しているのだ。

2015-12-01

何とか主義やなんとか理論なんてもの

村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」全3巻を読み終えた。たせば1,200ページにおよぶ長編小説で、久しぶりに異世界でのさすらいを堪能した感じ。

文字をおって読むのでも、地面をけって走るのでも、水の中をかいて泳ぐのでもそうだけど、一つの行いを“一定の長さ”を超えて持続した先でだけ感じうる内面世界ってあるよなと思う。その長さを確保するのには、一定の労力と時間がかかるわけだけど、それなしにこの価値を味わうことは叶わない。長編小説には、そこに内在化する独特の価値があるように感じる。

ところで、私が村上春樹の小説の好きなところに、なんだか真理めいたことが文中にはさみこまれているというのがある。それは、そこだけ取り出しても意味が通る形で収まっている。今回印象に残ったものの一つがこれだ。

「理屈や能書きや計算は、あるいは何とか主義やなんとか理論なんてものは、だいたいにおいて自分の目でものを見ることができない人間のためのものだよ」

これ、実は数か月前、とある焼肉屋さんでの会合のときだったか、その帰り道だったかで、私の隣りの人がちょうどおんなじことを言っていて、そのときの「すっごいこと、すっごい切れ味でいうなぁ」と感服した夏の夜のことを思い出した。

理論や方法論、メソッドと呼ばれるものって、その時点であるていど汎用的に使えるだけの検証が済んでいるからこそ、広く伝播して自分の耳にも届いているわけで、その発芽時期から考えるとけっこうな時間が経過している。すでに枯れているところに意味があったりもする。

そして、そんなものが他から持ち込まれるずっと前から、自分の目でものを見ることができる人は、それに似た原理なり方法論を見出して、場面場面で適用したりしなかったり、場面に応じたチューニングをいくらでも施して応用している。応用という感覚がないほど、メソッドありきではなく、自分の見立て前提でやり方を形づくり、都度の最適解を編み出している。

こうした方法論て、言葉に表して体系化して汎用化していく方向と別に、言語を介さず一人の人間の中でどんどん身体化していく手練の方向も、ある気がする。

小説の中で、登場人物の叔父はこう続ける。

「そして世の中の大抵の人間は、自分の目でものを見ることができない。それがどうしてなのかは、俺にもわからない。やろうと思えば誰にだってできるはずなんだけどね」

ここで下手な反発心を抱いて、「おぉおぉ、やってやろうじゃないか、自分の目だけでものを見てやろうじゃないか」と気張らなくていいんだと思う。別に、理論や方法論をいっさい無視して自分の目“だけ”でものを見るのが正しいという話じゃない。

私を含む多くの人間は(と皆まきぞえ…)、やはり息の長い理論やメソッドに学ぶところが大いにあるはずで、ただそれをどの場面で選び、どの場面では採択しないか自分で判断すること、ほかにどんなとらえ方があるかを自分で考えてみること、それを取り入れるとしたら自分の目下の課題でどの範囲にどうチューニングして取り扱ったら有効かを自分で編み出すこと、これを放棄しなきゃいいという話だ。

理論やメソッドは、少なくとも実務者にとっては「手段」の域を出ない。その場に最適な手段を選ぶのは、理論やメソッドの提唱者ではなく、実務者である自分の仕事の範疇だ。

手段を選ぶ仕事を放棄してしまうと、覚えた一つの理論やメソッドを絶対視して、そこに万能感を覚える。それを扱っていない人を低能とみて、それを扱っている自分らを有能とみたりする。その理論なり方法論に心酔してしまう。こうなると、厄介だ。

一つの手段に万能感を覚えている人というのは、相手側(客側)からみると、もろく、頼りなく、うさんくさい。この人は、この理論が大好きで、これを提唱して権威づけたいか、あるいは自分がそれを普及啓蒙する権威者になりたいか、いずれにしても私たちの問題をどう解決したらよいかを最たる関心事として事に当たってくれる人ではないだろうなと感じ取る。そういう指摘はせずに、静かに遠ざかっていく。

村上春樹の小説からずいぶん遠くにやってきてしまった気もするけど…、実務者としては「手段はいずれも万能ではない」というスタンスで、自分が信頼をおく理論や方法論も、相手と状況に応じてぱっと手放せるだけの奔放さをもっていたいと思う。それって、私は職業倫理のように捉えている。

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