あるいは、ひょっとすると
「あるいは」を「ひょっとすると」という意味で使う人を、村上春樹以外に知らない。「コーヒーあるいは紅茶」ではなく、「あるいは、そうかもしれない」と自然に使う人なんて、村上春樹と村上春樹の小説に出てくる登場人物以外にいない、そう思い込んできた。ここ最近になって、それは自分の偏狭さによって生み出されたまやかしだったことに思い当たった。
まず、もともとの首根っこをつかまえておくと、村上春樹が最初に「あるいは」を「or」だけじゃなくて「ひょっとすると」の意味でも使うというふうに決めたのでないかぎり、それよりも以前に、それをそういう意味で使う人がいたわけだ。
おそらくはそれを書物に使った人がいて、それを国語辞典の語釈に記した人がいる。村上春樹はそうしたものに触れ、それにならって、それをそういう意味で使い出したのだ。というのも憶測にすぎないで書いている適当さだが、たぶんそうだ。
それはそれとして、私が村上春樹以外の使い手を知らないと思い込んでいたのは、私が圧倒的に本を読む数が少ないからで、加えて言うならば、村上春樹の本は数十冊読んでいるが、読書の母数が少ない分、全体における村上春樹比率が高い状態になっている。そりゃ、そういうまやかしにはまるのも自明の理という感じである。
さらに言えば、実は村上春樹以外の人が使っている「あるいは」の「ひょっとすると」活用事例に、私はこれまで何度も遭遇していた。遭遇していたのだが、それは全部「村上春樹ふうを装って意識的に、あるいは彼にかぶれて無意識的に使っている」というように自動認識され、その人独自の言葉として認識されていなかった。これが一番びっくりだ。
「あるいは」という言葉を「ひょっとすると」の意で文中に用いると、もうそれだけで村上春樹ふうの文体にすることができる。こういう使い方で話す人がいたら、それは村上春樹が好きか、少なくとも抵抗がないことを示唆しているのかもしれないぐらいは先読みして、いずれ話題に挙がることになるだろうとすら思っていたフシがある。
それくらい私の中では、純粋に「ひょっとすると」の意で「あるいは」を使っている人は、村上春樹ただ一人ということになっていた。そのことに、ここ最近になって気づいた。
死角はいたるところにあるものだ。それは自分の偏狭さによって生み出されている。しかし、自分の死角を発見する機会も、実はいたるところにあるものだよな、と思った。あまり目立たないところに隠れ潜んでいるふうなのだけど、例えばクロールを泳ぎ始めて数十分後の水の中とか、文庫本を読み始めて百数十ページあたりの行間とか、あるいは小説の一巻と二巻の間に挟まっていたりするから思いがけない。意図的にはつかまえられないようなところに、ぽつんと落ちている。思いがけないことは、思いがけないところにあるのだな。当たり前だけど。
追記:自分がそうだからといって、他の人の使用も村上春樹に起因すると、勝手に一本の紐で結びつけていたところが元凶。たとえ自分と人とでアウトプットが同じでも、そこに至るまでにたどった軌跡は人それぞれなのだ。それを前提にして、その人の背景や意図に想像をめぐらせる自由をいつも心にもっておきたいじゃないか。と、これ書いた後、今朝のプールで思い当たった。
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