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2015-11-20

話すことで聴ける話

この間、7人に向けて30分プレゼンする機会があった。7人×30分で3時間半もの人様の時間を、自分の話を聴かせる時間に消費してしまうというのは、私にとってえらいこっちゃであった。

それで、とにかく自分の言葉で、自分の文脈で、自分の考えを話すことだけは成し遂げた。スライドに振り回されないこと。これをどうにかやった。あと、ややまぐれの感があるけれど…、30分きっかりに話し終えた。

その後の30分でいろいろとフィードバックや質問をいただいて対応し、1時間のミーティングが終了。その後にもメールでいろいろフィードバックをいただけて、こりゃすごいなって正直思った。

日常やっているクライアント案件で、客先がこのくらいの人数出てきて30分くらい自分が話すことも過去あったはあったけど、今回は自社内の案件で、いつもとちょっと勝手が違うプレゼンだった。それで新鮮なものの見方ができたところもあるのだけど、自分の話に対して、人がそれまでの人生で経験したこととか、その人のもっている視点とか知見とかを総動員して、各々考えたこと、気づいたこと、思うことを話して聴かせてくれるのって、こりゃすごいと思ったのだ。

自分が話したことに対して、返してもらえる話がある。なんだ、このありがたいコミュニケーションは…と。お前は小学生か!という感じなんだけど、この一連の出来事に、私は原初的な人と人のコミュニケーションの感動を体験した。

私は歳をおうごと引っ込み思案になっていく気がしているのだけど、 自分が話すことで、だからこそ人から聴かせてもらえる話もあるんだよなって、なんかものすごく心が揺れた体験だった。

私は、人の話を聴くのが好きだ。人の中には、自分と違うものがつまっていて、それ自体が面白いし、時折それが自分と同じものだったり似たものだったりするのも面白い。人の話を受けとると、おのずと自分の中のそれと相手のそれを照合することになって、その刺激によってものを考えたり感化されたり、あるいはスルーしていたり。

そうした自分の反応を観察できるのも、相手の話を受けとればこそで面白い。こんなことに自分は関心を示すんだとか、この辺には興味が向かないんだなとか、この手のことには過剰とも言える反応を示して、いきなりまくしたてるように話しだすんだな、自分は…とか、その熱血ぶりに我ながらあっけにとられることもある。新たな自分を発見させてくれるのは、いつだって他者である。

一方、自分から話を持ち出して聴かせるのは、どちらかというと苦手意識がある。気のおけない人に、ほとんどネタ選びのプロセスなく思いつくまま話していることもなくはないけれど、多くは必要以上に吟味して、これによってこの人の時間を奪っていいのだろうかと出し損ねてしまう。これまでを振り返ると、話しすぎた失敗より、話し損ねた失敗のほうが多いと思う。

仕事のプレゼンともなると、たいそう緊張する。ある程度「緊張した自分」とのつきあいには慣れていて(緊張は避けるべきものではなく、慣れるべきものだと思っている)、しどろもどろということにはならないのだけど、プレゼン慣れしているかというと、まったくそんなことはない。

だけど、自分の考えをひとまとまりにして話して伝えるということは、それによってしか得られない相手の話を受け取ることにもなって、ものすごく大切なことなのだなと思った。相手にそれなりの時間はとらせてはしまうけれど、それが無駄に思われないよう自分ができるかぎりの準備をして臨めば、許される機会は意外とあるのかもしれない。そう、引っ込み思案はおっかなびっくり考える。小学生みたいだな。

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コメント

“自分が話したことに対して、返してもらえる話がある。”

ほんとこういうコミュニケーションは大事ですよねー

歳を重ねて来てようやく気づき始めましたー

馮さんはアウトプットしっかりされてるから、そういう体験も豊かそう。私も、もう少しまともに…

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