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2015-11-18

ファジーな目覚まし

私の家の置き時計はアナログだ。アルネ・ヤコブセンという建築家がデザインしたもの(の復刻版)らしく、1万いくらとけっこうな値段がしたのだけど、数年前それが置いてあるセレクトショップの割引券だか商品券だかを数千円分持っていて、これを何に使おうかと店内をぶらぶらしていたときに目についたこの時計を気分で買ったのだ。

ちょうど家に時計というものがなかったし(うちには一般家庭にあるべき、いろんなものがない)、目覚ましがiPhone以外に置き時計でもあるといいかなと思っていたところだった。値ははるけど、この先30年使うなら安いものだし、ここまでくると生きているかぎりは使い続けるだろうから、まぁいいかと脳内決着してレジに向かった。

成人女性の手のひらにちょうど都合よく乗っかるくらいのサイズで、黒い縁した丸っこい置き時計。白い文字盤の上に、黒のローマ数字が並んでいて、その上を短針と長針がまわっている。秒針はない。時を刻むほかは、アラーム機能のみ。それ以外に、これといった機能はない。

買ったときは、シンプルでいいかなというくらいで買ったのだけど、使って数年経ってみて、この時計はなかなかいいなぁと、しみじみ眺めている。時おり、その丸っこい頭をなでる。

どこが愛らしいって、目覚ましのアラームがファジーなところだ。アラームの針は、よくある銀色の細い棒で、私は「まぁだいたい6:10手前くらいかな」というところに合わせているのだけど、時計のほうも毎朝「まぁだいたい6:10手前くらいかな」というところで音をならす。

音のなる時刻が、日によって違うのだ。いつも6:10手前ではあるのだけど、6:05くらいだったり、6:09くらいだったり、そこには日によって3〜4分の開きがある。

私は念のため、iPhoneにも6:10のアラームをセットしていて、毎朝、両方から起こされるのだけど、もちろんのことiPhoneは毎朝6:10きっかりに私を起こす。ヤコブセンに起こされた直後に、iPhoneに起こされるというのを毎朝やっているのだけど、その間隔が1分ほどしかあかない時もあれば、3〜4分あくこともあって、そこはヤコブセンの気持ち一つだ。

こちらはもちろん、日ごとにアラーム針をいじっているわけじゃない。一切触っていないのに、日ごとに発生するずれ。昨今のデジタルな時間さばきに慣れていると、むしろこの3〜4分ずれるという誤差を生み出せるほうが、なんかすごい!と感心してしまう。それで、けっこう気に入っているのだ。こういうとぼけた具合が、人がものに愛着をもつ動機なんだろうか。

アラームの手をかりて一人で起きるようになって久しいけれど、そういえば私も子供のころは、1階から叫ぶ「まりこ、起きなさーい」の声に起こされていた。母の声が届く時刻もファジーだった。そういう昔の馴染みもあるのかもしれない。

ちなみに、ファジーというのは「あいまいさ」を表し、一昔前に流行った言葉だ。昨日若者との会話で、ファジー洗濯機など知らないと言われたので、ここに刻んでおくことにする…。汚れ具合をみて洗濯時間を決める洗濯機とか、調理対象をみて加熱時間を調節する電子レンジなど、あいまいさを扱えるファジー家電が話題になり、1990年は「ファジィ」が流行語大賞だったとか。

あいまいさを主体的に扱えるシステム的な機能と、あいまいさを相手に許容させてしまえる人間的な愛嬌と、大きく違うもののような気もするし、見方を変えれば結果的に同じようなものかという気もする。

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