右前(みぎまえ)
浴衣を着ている人をみると、無意識に「右前」になっているかなと確かめていることがある。これは私もごく最近までこんがらがっていたからで、うんちくを知って、この難を逃れた。
着物の前合わせは男女とも「右前」。この「前」とは、人から見たときに前なのではなくて、自分から見て前ということだから、体に触れるほうが右になる。現代用語でいうと「右が先」とか「手前が右」とか覚えておいたほうが、こんがらがらないかもしれない。誤って逆にすると、仏式の葬儀で亡くなった方を左前とすることから縁起が悪いとされている。
「着物は右前」の起源をたどると、奈良時代(719年)に出された「衣服令(えぶくりょう)」にたどり着く。この法令に、庶民は右前に着なさいという記載があるのだとか。中国の思想では右より左のほうが上位を表し、位の高い人にだけ左前が許されていたところから来ているらしい。それにならって、聖徳太子がこれを日本でも普及させたという説があるとか。
労働するにも左前は合理的でなく、庶民は右前のほうが動きやすかったこともあって、この習わしは馴染んだ。右利きだと、右が先に入っていてくれたほうが、右手で胸元のものの出し入れもしやすいが、これは左利きの合理性に反するからなんとも。(*1)
「着物は右前」だけ覚えようとするとおぼつかないのに、うんちくに手を広げて知ると、情報量は増えるのに長く定着する知識として記憶に残るというのは、なかなか面白いことだ。うんちくが接着剤のように効いて、忘れなくなる。急がば回れということか。
それにしても、自分の側を「前」というのは、なかなか趣きがある。欧米人の感覚だと「左前」というのが自然ではないか。実際このマナーを記すものには、「右前」というのは「自分の側からみて右が前」とか「右が手前ということ」などと、必ず強調して注意書きがある。それなしには必ずや誤解が生じるだろうと書き手が危惧しているからで、これは現代日本が欧米化した所以ではないかと勝手に憶測している。
それで思い出したのが、西洋哲学と東洋哲学の起こりについて違いを述べた一節。って、まったく関係ないかもしれないが…。
西洋の場合、最初の哲学として「世界の根源とは何か」「絶対的に正しいことは何か」といったことを考えた。すなわち、西洋は「人間の外側」にある「何か」について考えたのだと言える。 しかし、東洋の場合は、それとはまったく異なり、東洋の哲学者たちはみな、「自己」という「人間の内側」にある「何か」について考えた。そう、東洋と西洋は「関心のベクトル(方向性)」がちょうど逆だったのである。(*2)
うん、まぁ、きっと関係しないんだけど、思い出すのは自由だ。これを読んだとき、ぐっと東洋哲学に惹きつけられたのだった。自分の東洋人性を実感したのも、これを読んだとき。
*1:参考)早坂伊織「左前(ひだりまえ)とは?│男のきもの大全」
*2:飲茶「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(マガジン・マガジン)
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