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2015-10-18

頭の外で考える

ある時期から、「問題がない」状態を自分の基点にするようになった(かなり勝手な書きようなので、このさき人に伝わるかどうかはかなり不安なのだけど…、とりあえず続ける)。

問題というのは、何か「こうしたい」とか「こうありたい」とかいう理想があって、そこと現状との間にギャップがあるから問題と認識される。理想というのは誰かが思い描くものであり、ゆえに問題も人の認識の中に生じる。どちらも人ありきの概念だ。理想がなく問題認定する人が誰もいなければ、何ごとも問題にはならない。地球がどんなに荒れ狂っても「問題だー!」という人がいなければ、事象は問題になりえないのである。

それで、いろんなことを問題視しないで「そういうものなんだ」ということにした。そうすると、基点は「問題がない」状態になる。楽だ。

誰かが怒っていても、人は怒るものだし、いずれ怒りもおさまるものだしなと決着がつく。誰かが何かを問題視していても、一つの事象が誰かにとっては問題と認識されるし、ある人にとっては問題でなかったり、むしろ望ましいことと認識されるもの。絶対的に問題であるというのは、地球規模や宇宙規模、現代にかぎらない何億年単位の視点とか、人間外の視点でみたら、何もそう特定できるものはないわけで…と決着がつく。

今の世の中は、自分には介入できないし、一切関与していなくて内情を知り得ない事柄でも、なんだか情報がやってきたというので、一面的な情報と人の憤慨エネルギーを受け取って、みずからも憤慨するとかいう事案が多すぎる気がしていて、情報の遠近感みたいなものが狂って不釣り合いな感じがある。そういうものをできるだけ遠ざけたかったというのもあると思う。

といっても私も普通の人間なので、問題がゼロになるわけじゃない。ただ個人的には、自分が問題解決に実際関われることとか、きちんとした情報を得て状況を見極められそうなもの、それに関わることを問題の当事者に直接望まれていて話を聴ける立場にあることとか、「自分に近しい問題」に時間や意識や労力を割くという話。そういう気はあるので、それほどひどい非国民性を発揮しているわけじゃない(と思いたい)。

まぁ決して立派でもないが、人それぞれ何が自分の取り扱う問題になるかは違うし、その活躍がわかりやすい人もいれば、わかりづらい人もいる。ものすごいパラダイムシフトを起こして、大変な量と質で世のためになることをできる人もいれば、さほどでもない人もいる。それは、そういうものだ。

私も相当凡人なレベルだけど、運とかやる気とか能力スペックとか個人的に抱えている問題の質量とか、いろいろな変数がからまるものなので、それなりに誠実に生きている人に、おまえの貢献度は低いと糾弾するのもなんか違う気がしている。

社会の問題のほかに、自分の身にふりかかってくるかなり個人的な問題というのもある。こちらはほとんど選択の余地がない。健康のこと、家族のこと、生きていれば問題にせざるをえない状況というのが必ず巡ってくる。

だから、そのときは迎え撃つとして、迎え撃てるだけの筋力を養い続けつつ、自分が関われる社会的な問題に関わりつつ、その他の社会的な問題に対してはむやみに関与せず「そういうものなんだ」とする傾向が強くなった。

そんなことをやっていると、どうなるかというと、どんどんいろんなことに無関心になる。無為自然に近づいている感じもして、これはこれでいいのかもなとも思うのだけど、暮らしぶりの「地味」さ加減が過剰になっていき、合ってるのかな、この方向?行き過ぎたらちょっと引き戻すバランス感覚も大事なのかもな、と思えてくるのだった。

加えて問題なのは、いろんなことを「そういうものだ」と受け入れていくと、いろんなことに無関心になっていき、問題と遭遇(認識)することも少なくなるため、ここぞというときに迎え撃つだけの筋力を鍛え続ける、日常的な筋トレの場が失われていくのだった(って言いながら、ここに「問題」が生じているが…)。

「クマのプーさん」の例でいくと、こんな感じだ。私はこれを読んで、おぉ、わかるよ、プーさん、よくわかるよーと、ものすごい共感をしてしまった。

プー「ぼく、考えたいことは、ないんです。ただ、考えたいんです。クマでもできますか?」
イーヨー「ただ考えるってのは無理じゃ。考えたいことがなければ考えなければいい。考えるクマと考えないクマとどっちが偉いということはない」

それでもプーは考えたいのだった。そこで、考えることを考えることにする。でも、頭の中であれこれ思うってのが考えることだと思うんだけど、それが苦手なんだと悩む。イーヨーはこう答える。これが素晴らしかった。

イーヨー「自分の頭で考えるというのはまちがいで、頭の外で考えたり、ひとといっしょに考えたりするのじゃ」

なるほどー。まったく私はプーさんの隣りでイーヨーのことばを聴いているような気分で感嘆した。この一節に触れている「はじめて考えるときのように」で、著者の野矢茂樹さんはこう語る。

どうも気になるのは、「自分の頭で考える」という言い方だ。よくそんな言い方を聞く。それがだいじだとか、いまの若いひとは自分の頭で考えようとしないとかも言われる。だけど、ぼくの考えでは、これはふたつの点で正しくない。

考えるということは、実は頭とか脳でやることじゃない。手で考えたり、紙の上で考えたり、冷蔵庫の中身を手にもって考えたりする。これがひとつ。

それから、自分ひとりで考えるのでもない。たとえ自分ひとりでなんとかやっているときでも、そこには多くのひとたちの声や、声にならないことばや、ことばにならない力が働いているし、じっさい、考えることにとってものすごくだいじなことが、ひととの出会いにある。これが、もうひとつ。(*1)

はぁ、なるほどなぁ、まったくその通りだ。こうした本を読みながら考えていても、それは自分ひとりの仕業じゃない。著者に語りかけられて初めて私は、考えることができている。閉塞していた自分の内側にものすごい開放感を覚える。本を読んでいろいろ思考やイメージを巡らせていると、人の内側には、外の世界と同じだけの空間が広がっているもんだなと実感する。

この本に書かれているとおり、問題って、答えがわかったときにはじめて何が問題だったかが見えてくるものだよなぁと思う。最終章まで読んで、ははぁと道が開けて、はじめて自分の内側にあった問題が把握されていく感じ。

仕事でもなんでもそうだけど、答えを見つけた後に、問題が鮮明に浮き上がってくるのがたいてい。だから、問題が何かを特定して鮮明に言語化できるまで立ち止まっているのって、頭でっかちで不毛に終わることが多い。いやはや、十数年ぶりに再読してよかった。

*1:野矢茂樹「はじめて考えるときのように」(PHP文庫)

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