答えが見えたときに問題がわかる
「答えがわかってはじめて、それがどういう問題だったのかもわかる」(*1)という「問いのパラドクス」がある。この間「頭の外で考える」の最後で中途半端に触れた、このことがどうにも気になってしまって、改めてここに書き起こしてみるのだけど、なかなか難しい。
私たちが直面する問題の多くは、問いのかたちがはっきりしておらず、「何が問題か」がもやんとしている。逆の言い方をすると、「これが問題」というネタはいくらでも挙げられる。
例えば会社の業績が悪いのを、景気のせいにもできるし、うちは斜陽産業だからとも言えるかもしれない。経営手腕のせいにもできるし、投資判断を誤ったからと断じることもできるかもしれない。社員のパフォーマンスのせいにもできるし、社員教育が不十分とか、変化を受け容れない社風のせいにもできるかもしれない。採用活動のせいにもできれば、人事評価制度のせいにもできるし、不十分な福利厚生のせいにもできるかもしれない。無理をいうクライアント、時代遅れのお客さん、足を引っ張る取引先のせいにもできるかもしれない。いろんな観点から、「これが問題」と言ってみる道筋は、論理的にいくらでも引ける。
そこで挙げられるだけ挙げて、「全部問題です、全部解決しましょう」と言っていても埒があかない。自分(自社)にはどうしようもないことだってあるわけで、それは「問題」ではなく「環境」として位置づけないと話が進まない。たとえ「これこそが真因だろう」というものが分析的に導き出されたとしても、その真因に対抗できる解決策がないなら、それはやっぱり「環境」と割りきってしまったほうが、駒を先に進められる。
じゃあ「自分でコントロールできないものは問題じゃない。環境であり、前提条件である」と切り分けて受け入れたとしよう。それでもやっぱり、問題の切り口はいろいろと想定できる。なかなか収拾がつかない。社内に限って問題探しをしても、採用活動のせいとも、社員教育のせいとも、人事評価制度のせいとも言えなくはない。こっちのほうが核心ついてそうだが、あっちのほうが手が打ちやすそうだとか、あれやこれやもやんとしたものがまとわりついてくる。今は思いついていない何かのせいかもしれないという囁きが聞こえてきて、さらに行く手をはばむ。
そんなふうにみていくと、(1)問題を特定して、(2)その問題の解決策を考えるという手順をたどるのは、あんまり現実的な道筋に思われない。それよりも、自分たちに解決策の講じようがありそうな「答え」を探り当てて、探り当てた段階で、その答えと対称性をもった「問題」をこれと逆引きするほうが、現実的な流れに思われる。
採用活動の見直しって毎年手を変え品を変えやっているけど、結局どうにも抜本的な改善になっていないし、やっぱり今いる人たちの基本的な顧客提案力をどうにかするほかないんじゃないの?とか、そういう直感のようなもので答えが決まって、決まった後に、わが社の問題は「営業社員の顧客提案力不足」とかに設定される。
別に、答えに「人事評価制度の改善」を持ってきても「組織風土の改善」を持ってきてもいいんだけど、どうもピンとこない。ピンとくるのが「人材育成」だった。あるいは、うちは人材育成が役割だから、これを答えにする。答えが決まったから、問題は「営業社員の顧客提案力不足」になる、そうだとわかる、そういうことにする。
提案書の書き手は、マッチポンプ的に「具体策→課題→問題点」の順で書き、提案するときには「問題点→課題→具体策」の順に話す。こういうアプローチがあることは、十数年前に「提案書を書く」師匠からこっそり教わっていたことなんだけど、あんまり公けに記すものでもないかなと思って静かにありがたく受け取っていた。
けど、この哲学の本を読んで思ったのだ。これって別に聞き手をだましているわけではなくて、ビジネスに限ったことじゃなくて、人間が問題解決のシナリオを書く場合、そのようにしか書き起こせないんじゃないかしらと。
師匠はそれもよくよくわかった上で教えてくれていたんだろうし、私も決してだましのテクニックとして受け止めていたわけじゃないんだけど、この本を読んで一抹の後ろめたさから解放された気がする。だからここに書いてるんだけど、とはいえ書くのにためらいがないわけじゃない。けど、私だけじゃなく多くの人が師匠からこっそり教わるのに立ち会ってきたし、ここはひっそりしたブログなのできっと大丈夫…ということにする。
もしかしたら、こうした文脈に乗らないシナリオも、それはそれであるかもしれない。その辺は出てきたら出てきたで、快く受け容れていこう。
考えるということ。問題を考えるということ。それは問題そのものを問うことだ。(*1)
*1:野矢茂樹「はじめて考えるときのように」(PHP文庫)
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