1feedな関係
自分のブログの、ある記事の、ある部分が切り取られて、tumblrで結構な数シェアされているのに、だいぶ日が経ってから気づくことがある。この間へぇと気づいたのは、3年近く前に書いた「イヤホンすると腰が重くなる」。
もうだいぶ前に書いた文章でもあるし、受け止める感覚としては、自分の「遠縁」の発した言葉が、世の中のどこかで「小波」を立てているのを「遠巻きに」みた、くらいの距離感。自分の書いた文章なのにちょっとおかしな感じもするけど、それくらい遠くに見えるほうがむしろ自然で、健全な感じもする。
自分の文章の1記事(1feed)は、それを読んだ人が、その人の思いをもって切り取って1feedを放ったと同時に、別のアイデンティティをもって、そこに立つ感じがする。その1feedは、その人が道端で、ある石ころを気にとめて拾い上げたところから物語が始まる。その石ころがどこからやってきて、誰がそこに置いたかは、さして問題じゃない。
その人がどんな意思をもって石ころを拾い上げ、その人をfollowする人たちにそれがどう伝わるか。物語は常に引き継がれ、意味は移り変わる。文章は常に読み手を替え、読み手を主人公とする。少なくともアマチュアが、自分の書いた文章の行方をおうときは、そんなふうに開放的に捉えておいたほうがバランスがとれるように思う。
私のブログは、友人・知人が様子見がてら読んでくれる一般人ブログだけど、最近は検索エンジンの発達で、なんらかの関心事を検索ワードに訪れる一見さんも少なくない。「メディオーラ」って歯ブラシのことを知りたくてやってくる、「夏季休暇と夏期休暇」の違いを知りたくてやってくる、「余命宣告」や「目の手術」で検索してやってくる人がいる。そこを読んで、それぞれが直面する人生に帰っていく。多くは、1feedな関係で終わっていく。そうした関わり方が、一般人対一般人の"袖触れ合う"程度の文章交流にはちょうどよい感じがする。
読み手が、文章の中になんらか意味を見出したなら、それは読み手の力であって、書き手の力ではない。そこを、書き手の力と読み間違うと、書き手は健全なバランスを保ちにくい気がする。読み手は読み手の知識や経験に関連づけて、自分の思いや考えと重ね合わせて、自分の信念や価値観と絡ませながら、それを読む。その過程で、読み手の中に何かが見出されたなら、それは読み手によるものなのだ。
書き手のもたぬ知識や経験によって、読み手はいくらでも、その文章に意味を与えられる。それがどのように花開くのか、書き手である自分にはコントロールできないし、着地点は常に書き手の想定内に収まらない。自分が書き手として文章とつきあうときには、そういう捉え方が健全で気持ちよさそうだなと思う。
一方、読み手の立場に立ったときも、それはそれで人の文章との向き合い方に注意を払いたい。書き手の想定外に、その文章に意味づけしたり解釈を与えたりを、無自覚にしてしまうことがある。むしろ100%書き手の書いたままを受け取ることなど、ほとんどありえないくらいに思っておいたほうが、人の書いた文章に健全に向き合えるのだと思う。書き手が想定している前提知識がない状態で読んでいれば、意味を取り逃してしまう。書き手のことをよく知らなければ、それによって誤解してしまうこともある。自分のコンプレックスを刺激する内容だった場合、自分でも気づかずに何かを避けて偏った読み方をしてしまう恐れもあるのだ。
書き手がいかに優秀でも人格者でも、自分が浅はかだと、書き手を浅はかなものとしか受け止められない。ものの読み方というのは、書き手以上に、読み手たる自分自身をせきららに映し出す鏡だと思う。その文章が汚く見えるなら、書き手の汚さを疑う前に、自分の汚さを疑ってみるくらいがちょうどいいかもしれない。人の文章を読むときには、なんにせよ自分の解釈が介在していることを十分にわきまえて文章を読み解き、また自分を読み解く機会にもできたらいい。
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