当日アポ
ふらっと連絡をよこして「突然だけど、今日ゴハン一緒に食べない?」と誘う友人がいる。私の友人関係だと、これは珍しい。そういうゴハンの決行もないわけじゃないが、なかなかない。ほとんど毎回そんな感じだという人も、この友人くらいだ。
こういう誘いは、誰でもかれでも有難いというものでもない気がするが、その人は私にとって気のおけない友人であり、またいつも忙しくしているので、そう頻繁に会えるわけでもない。そんなわけで、予定がないかぎりは話にのって、ゴハンを食べに出かける。
つい先日も、久しぶりに声がかかって表に出て行った。思いのほか自分が饒舌にしゃべり倒しているのを後で振り返って、なんだか久しぶりにものすごいしゃべったなーと感心してしまった。他の人にもそんな話をしているのかと心配されたが、まぁ「そんな話」にまともにつきあって聴いたり共感したり意見したりする友人たちには、改めて感謝すべきかもしれない。
ともあれ、私はその友人の唐突な誘いを受ける度、小学生時代をなつかしく思い出すのだった。遊びの誘いというと、小さい頃は当日アポが基本だった。玄関口に立って「○○ちゃーん、遊ぼー」とゆっくりした調子で声を張り上げる。必要に迫られて、誰もが道端で大きく息を吸い込み、家の中まで届くように大声を張り上げたものだった。
すると中からドタドタと音がしたり、友だちのお母さんが友だちの名を呼び捨てする声が聞こえてきたりして、しばらく待つと玄関口から友だちが出てくる。あるいは中に通されるのだ。
インターホンなんて洒落たものは、まだ普及していなかった。我が家は、私が小学3年生くらいのときだったか、家を建て替えたので、それ以降インターホンがついたが、その導入も近所を見渡すと決して遅いわけではなかった。
それまでの家にはほとんど「ボタン」がなかったので、私は嬉々としてそれを押した。自分の家でボタンを所有しているというのは、たいそうなことだった。押したい放題である。実際はインターホンて、自分ち以外の人が押すボタンなのだが…。
閑話休題、インターホンがない所では、大人でも門をくぐって玄関先まで進み、扉をノックしたり、ガラガラーと開けて「ごめんくださーい」と声を張り上げるのが、ごく普通の訪ね方だった。
これって、今でも地域や世代によっては普通に執り行われているのかもしれないが、私の周囲ではなかなか見かけなくなった。家も会社もセキュリティが厳しくなり、外部の人が中までふらっと入って居座ることはできないようになったし、打ち合わせに限らず、ご飯食べようでもお茶しようでも、会うとなったら事前にアポをとるのが常識的な感じがする。
私はあらかじめ日時を決めて会うのがほとんどだ。まず、私が会う人は、なんだかみんな忙しくしている。だから、対自分にそんなに時間をとらせるわけにはいかないし、突然時間をもらうのも腰がひける。また相手の忙しさに関わらず、オトナの躊躇みたいなものもある。あとまぁ頻繁にちょこまか会うより、時折り会って1対1でじっくり話しこむほうがフィットする間柄が多いっていうのもあるかもしれない。
話すとみんな、いろんな志しをもっていて、欲求や憤りや願いを胸に抱いていて、相対していると人の生命力のようなものを感受する。こういうエネルギーがあるというのは尊いものだなぁと思う。それと対照させると、なんとなく申し訳ない気分もしてくるんだけど、私はここしばらく比較的静かな時間を生きている。というと語弊があるか。日常の中に、ざわざわしたり、緊張したり、どきどきしたりは変わらずあるのだけど、帰するところ静かというか。
自分でも今の状態がどんな感じか、つかみ損ねている感もありつつ、様子を伺っている。そうしていると、いろいろと考えるところもあって、大丈夫かな、これでしばらくやっていていいのかなぁとも思うんだけど、もうしばらくは、外から吹く風を感知するまで、もうしばらくはこんな感じで、というところ。なんだそれって感じだが。
そんな中でも、とにかく毎日出勤して、いただいた機会やご縁を一つひとつ大事にこしらえては納める日々があり、それをすごく有難いと思っている。外野からはいくらでも、さも自分が神様のような目線で好きなこと言えるからな。この、生身の自分の出来・不出来を実感しながら生計を立てていくってリアリティは、どんなときも大事にしたい。友人に話したのは「そんな話」だったか。危ないかしら。
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