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2015-09-27

図らずもiPhone6s

昨日、突如iPhone5が起動しなくなり、今、私の手元には図らずも最新のiPhone6sがある。一昨日の私には想定外である。

iPhone5は、さっきまで元気だったのに…という感じで、急に臨終を迎えた。予兆なく、いきなりうんともすんとも言わなくなった。困ったなぁと思い、とりあえず修理屋さんにみてもらおうと、ネットで調べて新宿のビックカメラへ。すると新宿店は一番の激戦区らしく、「今日も明日も予約でいっぱい、午前中の時点でもう受付終了」だという。

ただ、本体の様子をうかがうにバッテリー部分が膨れ上がっているから、これが原因じゃないかとのこと。確かに、横から眺めてみると、噂にはよく聞いていた本体の膨れ上がり現象が起きている。

保障はできないけれど渋谷店か、少し余裕ありそうな大宮店まで足をのばせば、今日の予約がとれるかもしれないと店員さん。ちなみにAppleストアはiPhone6sが出たばかりで、今は古い機種のサポートを受け付けていないと言う。となれば、とりあえずビックカメラの渋谷店へ。

こりゃ修理じゃなくて買い替えが適当か…とも思いながら山手線で移動。渋谷店は渋谷店で、Apple製品のサポートスペースに人がわんさか。店員さんの「iPhone以外でお並びの方〜」という呼びかけに誰も反応していなかったから、みんなiPhone患者っぽい。実に盛況で、真冬の内科受付のようであった。

まずは、ここに並んでいるiPadで質問に答えて自己診断をしてくれ。それが終わったら、この用紙にそれを書き写して列に並んでくれと言う。どういうこっちゃと思いつつも、とりあえずカウンターに腰かけて画面の問いに答えていく。どうもこうも電源が入らないので、原因の切り分けもそこそこに自己診断を終え、あとはデータが消えてもいいかとか、なんだかんだパーミッション設問みたいなのに答えること数分。

すると、自分の回答一覧がiPad上に表示され、それを先ほど渡された質問用紙に書き写せと言う。上から数問眺めると、iPadと同じ質問が並ぶ。iPad工程がなくても、この質問用紙に答えれば事足りたような気がしたけれど、いろいろと過渡期なのだろうと察し、iPadに表示された自分の回答を、今度はボールペンをもって質問用紙の回答欄に書き写す。

微妙に、iPadにない設問が用紙のほうにはいくらか挟み込まれていて、それはそれで新たに読んで答えるなどして、なんだかなぁと顔をあげると、iPadに向かうお客さんが全員眉間にしわを寄せていて悲劇的だった。過渡期、過渡期…。

記入済みの用紙をもって列に並ぶこと十数分、一人でiPhone患者に対応している店員さんとお話しできる番がまわってきた。やっぱりバッテリーの膨れ上がっているのが原因だろうとのこと。今回の原因が何であれ、私が前につけた本体の傷で、修理は3万円を超えるという。また、これを使い始めてから2年3ヶ月経っているので、これは買い替えたほうが賢明ですかねぇという話に。それで買い替え策に切り替え、修理は止めて帰ってきた。

買い替え候補のiPhone6と6sをざっくり見比べると、特段6sにしたいこともなかったので、ちょうど型落ちで安くなっているであろうiPhone6にしようと決め、翌日の今日、最寄りのソフトバンクショップに出向いた。

店員さんが、私の契約形態で買い換えると月額いくらになりますなどと算出してくれる。買おうか買うまいか悩んでいるわけでもなかったので、すぐに買い替え意向を伝えたが、店員さんのほうがこの後2時間ほど、もともと予約が入っていたお客さんの対応があるので、申し訳ないが後ほどもう一度来店願えないかと言う。別に構わなかったので、それで一旦ショップを後にして、約束の2時間後に再訪した。

店員さんがiPhoneの箱を持ってやってくる。そこで15分ほど説明を受けたりして、話が一段落ついたところで、店員さんが誤って「6s」を準備していることがわかる。空白の2時間に、予約のお客さんの「6s」対応をしていて、記憶がすり替わってしまったらしい。

え、じゃあ今までの金額の話とかも、全部ずれてくるのか。というので、また一からやり直しも面倒だなぁと思い、じゃあ6sでいいです、と最新のものを買うことに相成った。「6」と「6s」だと月額180円差というし、今から一通り説明をやり直してもらうのも不憫だし、この時期にiPhone6sを売れれば、この若者もノルマ的に助かるのかもしれないし…などと思うと、ここでやり直すのも吹く風の流れにそわぬかなぁという気がしたのだ。

で、思いがけずiPhone6sが手元にある。一切入手を検討していなかったので、一昨日までの想定外がすぎて、不思議なものだなぁと思う。けれど、そういう潮目だったんだろうというか、自然のなりゆきという感もある。

替えどきというのは、向こうからやってくるものだ。それがたとえAppleの時限装置なり、ソフトバンクのうっかり商法によるものだったとしても。そうした人のしわざに乗せられてどうこうというのも何もかもひっくるめて、自然のなりゆき、そういうことになっていたのだ、とも考えられる。人も自然の子、自然を広義にとらえれば「人為も自然のうち」だ。

思えば10年以上お世話になっている今の会社も、契約社員でってお願いしていたのに人事の人が正社員の契約書を用意していて、じゃあ正社員でいいですと答えて、正社員になったのだった。人為的なミスなり策略なりを含んでいようとも、この風に身を任せてみるかと自然に思えるなら、それもまた自然のしわざかなと思ったりする。

で、iPhone6に変えて別段何が変わった気もしないのだけど、本体は丸みをおびて手触りは心地よくなり、サイズは大きくなったので片手操作はやりづらくなり、画面は見やすくなった。初期の環境づくりには疲れた、という具合。あと、店員さんにオプションのテザリングを止めれば安くなりますよと言われ、それは継続したいって返したのに、帰って書類を確認したら削除手続きがなされていて残念だった。あと、うちの洗濯機は満23歳、いまだ壊れる様子がない。

2015-09-23

自分で考える時間

シルバーウィーク最終日。今日はさして本も開かず、気づくと頭の中であれこれ考えごとをしていた。なんとなく久しぶりに、こういう一日を過ごして、本を読んでばかりいるとバカになるなぁと思った(あくまで最近の私のような読み方をしていると、という話)。

本を読むのはいいとして、良い本を読んだなら、その読書にかけた時間と同等以上の時間を、その本を咀嚼したり解釈したり、自分の中にどう取り入れてどう取り入れないのか、どう応用していきたいのかを考えるような自分時間にあてないと、むしろ薄っぺらな人間になりそうだ。自分で考えるということを、おろそかにしちゃいけないなと。

仕事においては自分の中のものを総動員しないと太刀打ちできないシーンが多いので、自分で考える時間は日常的にあるのだけど、仕事を離れるやいなや脳の使い方が怠惰になりがちで、いろんなことを直観だけで決めてしまう。真面目に本を読んでいるふうの時間すら、ただほわほわと読んでいるだけのことも多く、余暇が本を読む時間に占拠されだすと、かえってバカになっていきかねないなぁと思った。

私は本を読むのが遅く、思考を展開するのも人一倍時間がかかる。読んだ本の咀嚼や解釈をまともにやっていくと、一冊にどれだけの時間が必要になるのかと途方にくれる。しかし、読んだものが自分のなかに残らないでは、それこそ意味がない。身の丈を考えるとやっぱり、本の冊数が減ろうと、読書時間が短くなろうと、まずは1冊の読書体験をどれだけ自分の世界に展開できるかを大事に、時間を使うのが先決じゃあないかと思った。

文章を読むというのは「情報」の摂取だ。書いてある内容が事実情報にとどまらず、著者の考えや気持ちが詰まったものだったとしても、それを受け取って私のなかに入ってきたときには、それは人の考えや気持ちではなく、情報というカタチに引き戻されている。受け取ったそれを再び、人の考えや気持ちに変換するためには、著者のではなく自分の考えや気持ちに展開するほかない。

でも、その展開は「著者の」から「自分の」にラベルを付け替えれば済む話ではない。人の話に「共感!」「同感!」とコメントをつけただけでは、それはまったく自分のものにはなっていないし、通りがかりの読者であるだけだ。読後の私に、なんら具体的な行動変容も見られないだろう。

書き手の頭のなかにあるそれは「知識」だが、移植した私の頭のなかにあるそれは「情報」にすぎない。いわば受け売りの状態。本を読むことそれ自体は、私をいくらも知識人にするわけじゃないし、高尚な人間にするわけじゃない。

入手した情報を知識に変えるためには、本人の中に内在する力をかけて、血肉化するほか道筋がない。知識は、外から流し込んで自動的に脳内設置できるものではないのだ。もぐもぐと咀嚼して解釈して異を唱えて整理して、自分なりに編集したものを自分の世界観に取り入れる。そうして始めて、自分の知識に基づく自分の考えや気持ちというのが作られていくんだろうと思う。

本を読むでも、人の話を聴くでも、新しい情報を取り入れることは、小さな自分に気づきを与えてくれる。時に痛みを伴いながらも、自分の死角に気づき、世界を広げるきっかけを与えてくれる。そこから実際に自分の世界観に取り入れる仕事は、著者や話し手ではなくこちらの力量にかかっている。

私たちは「世界」を生きているのではなくて、自分の「世界観」の中を生きているのだという見方を私はよくする。人はつねに自分の主観を通してしか世界を捉えられないわけだから、人の数だけ「世界」の捉え方はあって、みんな同じようでいて異なる世界を見ている、同じ空間で交わりながらも異なる世界を生きているというふうにも見える。

ただ一方で、個別の世界観は決して固定的なものではない。他の人と交わることで、さまざまに変化を遂げていく自在性も持っている。それぞれが自分の世界観で生きつつ、他の人たちとの交わりの中で世界はさまざまにカタチを変え、色を変え、広がっていく。他者から受けとる影響と、自分の創造力、双方をうまいことバランスさせて自分の世界観を編集し続けられるのが健全かなぁなどと思う。

というような、ごちゃごちゃしたことを考える時間が、最近は少なかったのかも。もう少し、そういう時間を大事にしたら、もう少しバランスが良くなって、もう少しは、まともに自分というものを成り立たせることができるようになるのかもしれない。外に寄りかかりすぎず、内にこもりすぎず、この連休の素晴らしいお天気のように、風通しよくいきたいもの。

2015-09-14

当日アポ

ふらっと連絡をよこして「突然だけど、今日ゴハン一緒に食べない?」と誘う友人がいる。私の友人関係だと、これは珍しい。そういうゴハンの決行もないわけじゃないが、なかなかない。ほとんど毎回そんな感じだという人も、この友人くらいだ。

こういう誘いは、誰でもかれでも有難いというものでもない気がするが、その人は私にとって気のおけない友人であり、またいつも忙しくしているので、そう頻繁に会えるわけでもない。そんなわけで、予定がないかぎりは話にのって、ゴハンを食べに出かける。

つい先日も、久しぶりに声がかかって表に出て行った。思いのほか自分が饒舌にしゃべり倒しているのを後で振り返って、なんだか久しぶりにものすごいしゃべったなーと感心してしまった。他の人にもそんな話をしているのかと心配されたが、まぁ「そんな話」にまともにつきあって聴いたり共感したり意見したりする友人たちには、改めて感謝すべきかもしれない。

ともあれ、私はその友人の唐突な誘いを受ける度、小学生時代をなつかしく思い出すのだった。遊びの誘いというと、小さい頃は当日アポが基本だった。玄関口に立って「○○ちゃーん、遊ぼー」とゆっくりした調子で声を張り上げる。必要に迫られて、誰もが道端で大きく息を吸い込み、家の中まで届くように大声を張り上げたものだった。

すると中からドタドタと音がしたり、友だちのお母さんが友だちの名を呼び捨てする声が聞こえてきたりして、しばらく待つと玄関口から友だちが出てくる。あるいは中に通されるのだ。

インターホンなんて洒落たものは、まだ普及していなかった。我が家は、私が小学3年生くらいのときだったか、家を建て替えたので、それ以降インターホンがついたが、その導入も近所を見渡すと決して遅いわけではなかった。

それまでの家にはほとんど「ボタン」がなかったので、私は嬉々としてそれを押した。自分の家でボタンを所有しているというのは、たいそうなことだった。押したい放題である。実際はインターホンて、自分ち以外の人が押すボタンなのだが…。

閑話休題、インターホンがない所では、大人でも門をくぐって玄関先まで進み、扉をノックしたり、ガラガラーと開けて「ごめんくださーい」と声を張り上げるのが、ごく普通の訪ね方だった。

これって、今でも地域や世代によっては普通に執り行われているのかもしれないが、私の周囲ではなかなか見かけなくなった。家も会社もセキュリティが厳しくなり、外部の人が中までふらっと入って居座ることはできないようになったし、打ち合わせに限らず、ご飯食べようでもお茶しようでも、会うとなったら事前にアポをとるのが常識的な感じがする。

私はあらかじめ日時を決めて会うのがほとんどだ。まず、私が会う人は、なんだかみんな忙しくしている。だから、対自分にそんなに時間をとらせるわけにはいかないし、突然時間をもらうのも腰がひける。また相手の忙しさに関わらず、オトナの躊躇みたいなものもある。あとまぁ頻繁にちょこまか会うより、時折り会って1対1でじっくり話しこむほうがフィットする間柄が多いっていうのもあるかもしれない。

話すとみんな、いろんな志しをもっていて、欲求や憤りや願いを胸に抱いていて、相対していると人の生命力のようなものを感受する。こういうエネルギーがあるというのは尊いものだなぁと思う。それと対照させると、なんとなく申し訳ない気分もしてくるんだけど、私はここしばらく比較的静かな時間を生きている。というと語弊があるか。日常の中に、ざわざわしたり、緊張したり、どきどきしたりは変わらずあるのだけど、帰するところ静かというか。

自分でも今の状態がどんな感じか、つかみ損ねている感もありつつ、様子を伺っている。そうしていると、いろいろと考えるところもあって、大丈夫かな、これでしばらくやっていていいのかなぁとも思うんだけど、もうしばらくは、外から吹く風を感知するまで、もうしばらくはこんな感じで、というところ。なんだそれって感じだが。

そんな中でも、とにかく毎日出勤して、いただいた機会やご縁を一つひとつ大事にこしらえては納める日々があり、それをすごく有難いと思っている。外野からはいくらでも、さも自分が神様のような目線で好きなこと言えるからな。この、生身の自分の出来・不出来を実感しながら生計を立てていくってリアリティは、どんなときも大事にしたい。友人に話したのは「そんな話」だったか。危ないかしら。

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