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2015-08-10

そう叫ぶぼく

河合隼雄さんが著した「ユングの生涯」を読んでいたら、スガシカオが歌う「サヨナラホームラン」の歌詞の一節が頭に浮かんだ。ねるねるねるねみたいな歌詞が(ってなんだ)、いかにもスガさんぽい。

"本当のぼくはきっと こんな奴じゃないはずなんです" そう叫ぶぼくはたぶん 間違いなくそーゆー奴

ここの歌詞から流れるYoutube動画

ユングは自分の中に、対極性をもつ2人の人物がいたと述べている。これは別に精神病理的な二重人格とかではなくて、あらゆる個人の中にあるもの。この2人のことを、ユングは人格No.1とNo.2と呼び分けた。

私がこのNo.1とNo.2をきちんと解釈できているかは別として、私には先ほどの歌詞が重なって、「本当のぼく」がNo.2に、「そう叫ぶぼく」がNo.1に聞こえたのだった。

外界にふれて生きる生身のNo.1の背後に、際限のないほどの深さとひろがりをもったNo.2が存在する。

ユングの少年時代でいえば、No.1は「恥ずかしがりやで、臆病で疑い深く、青白くやせてみるからに丈夫そうではなかった」。その一方で、No.2は「おとなであるばかりでなく、偉そうな、権威者であり、公職と威厳をもった人であり、老人であり尊敬と畏怖の対象であった」という。

外界にふれて生きる生身の「そう叫ぶぼく」の背後には、際限のないほどの深さとひろがりをもった「本当のぼく」が存在する、そう信じたいぼくだけど、果たしてそれは本当に"本当のぼく"なのだろうか。「そう叫ぶぼく」は本当に、本当じゃない"見せかけのぼく"なのだろうか。

No.2のぼくから見るNo.1のぼくは、ちっぽけで弱くて頼りない。だから、全部をわかってこなせちゃうはずのNo.2は、影にすむNo.2こそが「本当のぼく」と信じたいだけじゃないのか。

以前に新入社員の子から聴いた、「できると思っていた仕事が、やってみたら全然できなかったり、自分のスピードが全然遅くて驚いた」という話も思い出されるのだった。

これを見てみぬふりして放ってしまうと、どんどん頼りないNo.1を避けるようになり、外界との接触がすぼみ、No.2の影に身をひそめていってしまうことになるのでは。

ユングは人一倍に深く広がりをもったNo.2人格を有していたし、「内的なことだけが実体性をもち、決定的な価値をそなえている」として内界を絶対的に重んじた。狂うほどに究めた。そんな本人からすれば、No.1人格はNo.2人格に比べて、はるかにちっぽけに感じられただろう。

それでもなお、彼はNo.1人格を軽視することなく生き抜いた。外界でできることもやり抜いた。そこには「外的なことを避けて内的なことをやり抜くことなど不可能である」という考えがあったという。これに触れ、年々こもりがちになる自分の心がゆさゆさ揺さぶられるのを感じた。

それからもう一つ。自分のNo.1のちっぽけさを棚上げして、人はいくらだってNo.2の立場から、他人のNo.1の出来不出来を批判できる。けれど、そのとき自分はNo.2の位置から見ていて、相手はNo.1に立って事を為しているという立場の決定的なズレをきちんと認識して関わりたい。ほんとの優しさって、そういう知性や想像力の下支えなしには成り立たないものだと思う。

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