人は「完全」より「統合」に向かってる
ぐんぐんと人格的成長を遂げて、ゴール地点に立っている人がいるとしたら、どんな人物像を思い浮かべるだろう。弱さがない、影もない、恐れ知らず、向かうところ敵なし、闇成分ゼロで、神々しい光を放っている、完全無欠の人格者か。そうイメージすると、どうも胡散臭さのほうが勝ってしまう。
「ユングの生涯」(*1)を読んで頭の中がすっきりしたのが、人格の「完全性と全体性」を分けてとらえる話だった。
われわれが完全性を求めてそれをひとつの理想とするとき、それが実現不可能なものながらわれわれの行為を照らすひとつの灯の役割をしていることを知っている場合は、あまり問題ではないかも知れない。しかし、それを到達可能な目標であると思い誤ると、その理想はわれわれを励ますよりはむしろ苦しめることの方が多いように思われる。われわれとしてはただ自分の到らなさを恥じるばかりで、遂には自己嫌悪や自己否定にまでおよんでしまう。(*1)
人格の向かう道のりを"成長"って言葉で仮定すると、人が100%成長した終着点には、あらゆる欠点を克服した強者が立ち上がるようにイメージしがちだけど、それってきっと思い違いなのだ。
人間が、弱さや恐れ、悪や闇といった影と、一切の縁をきれる日なんてきっとやってこない。なんてったって私たちは最期、一人で死んでいかないといけないのだし。私たちはずっとずっと弱さや恐れ、悪や闇といった影を抱えたまま生きていくとみたほうが自然に思う。
何かがうまくいく期待をもてば、うまくいかない不安がついてくる。誰かを大事に思えば、いつか失っちゃう不安がついてくる。平穏な日々を過ごしていても、いつかはこの穏やかな日常の終わる予測が立ち上がってくる。きっと私たちにできることは、それを認め、受け容れて、自分の中に取り込めるだけの器をもって、うまくつきあっていくことだけだ。
ユングは人間の心の光の部分のみではなく、影の部分をも含む全体としてこそ、その存在の意味があることを強調する。(*1)
人の成長は、きっと完全なるものより、善と悪、光と影、生と死の両方を受け容れて統合していこうとする全体性に向かっている。そうとらえたほうが無理がない。
それは自分に対してだけじゃない。私たちはとかく"立派な人"に対して完全さを、盲目的に求めてしまうきらいがあるけど、彼・彼女だって神じゃない。いくら研鑽を積んだ人も、肉体を鍛えあげた人も、神になったわけじゃない。一切の影を取り去って、光だけの人になったわけじゃない。そういう前提をもっていないと、自分のことを棚に上げて、"立派な人"にどんどん不寛容になっていく。人が抱える影を想像したり許容したりできなくなってしまう。
批判することは、まったく悪いことじゃない。ただ、そこで自分が人に向けた批判と同等のエネルギーをもって、自分にも批判を向けないと、バランスをくずしてしまう。同等かそれ以上のエネルギーを自分に向けるようにすれば、おのずといい具合に寛容と不寛容のバランスがとれるんだと思う。そういう健全な感覚を大事にしたい。
*1:河合 隼雄「ユングの生涯」(レグルス文庫 100)
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