「あ、そっか」
なにか不自然さを感じたのは、「あ、そっか」とか「へぇ、そうなんだ」って反応が全然なかったからか、と思い返したのは、週末とあるテレビ番組で著名人が議論しているのをYouTubeで見てのこと。
映っている人たちは、その場の議論から何かを発見する気はなく、ただ自分が持ってきた主張を繰り返し、相手の話も、いかに論破するかに意識を集中して聴いている感じ。そういう前提で参加しているから、対立する相手の話が、自前の批判フレームを通してしか伝わってこない。
発言によっては肯定的な反応とか、「へぇ、そうなんですか、それは知らなかった」という反応が挟み込まれてもいいようなものなのに(編集で切られているのかもしれないけど)、まったくそういう隙がなくて、とにかく話が交わらない。
ここが開通していない状態では、いくら話しても、言葉を交わす中でダイナミックに考えが変わっていくシーンに立ち会うことは期待できない。主張をAからBに乗りかえるような変化を短時間に期待するわけじゃないけど、対立するAとBを交わすことによって、より良いCを模索するのが全うな議論の道筋なら、はなから対立する相手方の発言を一切受け入れる余地なしなのは、どうも息苦しく不毛に感じる。何も動かず、何も交わらない。話は進展せず、堂々巡りになる。
まぁテレビ番組の場合、途中で役者に立場を変えられたら番組にならない、視聴者の「あ、そっか」「へぇ、そうなんだ」を引き出せれば成功なんだということなのかもしれない。
でも、会議やネット上の議論、日常のやりとりといった場でも、似たようなことを見かけることはあって、やっぱりそれって不自然な感じがある。自分と違う意見や見解をもつ相手の話を聴いたとき、もっと「あ、そっか」とか「へぇ、そうなんだ」っていう反応が自然とできたらいい。
自分とは違う意見の人だからこそ、話を聴いて、知らなかったことに気づかされることってたくさんあるはずで、そのとき「あ、そっか」って思い直したり、「へぇ、そうなんだ」って気づく自分を黙殺せず、素直に許容できたほうが実りがある。自分の視点・視界・視座を切り拓く機会になる。より豊かな見地から、そのことについて考え直すことができて、自分のこれまでの主張を検証したり洗練させたりできる。力みがとれて気持ちも楽だ。
自分の主張を通すことより、もっと下の層にある、何のための主張かという目的に都度立ち返って考えることさえ覚えれば、自分の知らぬことや違う価値観を向こうから突きつけられたとき、いちから組み上げ直して見ていくことができる。
たいてい人が主張したいことっていうのは、なんらか「自分の知識とか経験とか、大事にしたい価値観とか信念」のブレンドから導き出されているわけで、これが「主張」の下に隠れている。そこに、新たな知識やものの見方が投下されれば、その上に乗っかっている「主張」にも影響が及ぶのは、ごく自然なことだ。雑だが、こんな3層でとらえてみる。
[上層]自分の主張(具体策・手段)
[中層]自分の知識とか経験とか価値観とか信念(判断指標)
[下層]他の人と共有する願いや狙い(目的)
新たな事柄が下の階層に投下されたのに、自分の主張がまったくびくともしない場合、もしかして自分が意固地になってやしまいかと疑ってみる。そうすると本当に意固地になっている自分を発見して、げげっとなったりするから、尋ねてみるものだなと思う。
大事なことは、立場が違うとか、対立するAとBを突き合わせたときに、その混沌から何か意味のある形を生み出すこと。それが大仕事だからこそ、話し合う場をもって一人ではできない解を創り出そうとしているわけだよな、と。
だらだら書いた割りに、別段どうということはないのだけど、とりあえず人の話を聴いて「あ、そっか」「へぇ、そうなんだ」という反応が素直に返せる単純さを大事にしていこうと思った次第。
そこをできるだけ自由に、緊張をほどいて人と交わることで、自分が変わっていくダイナミクスを大事にしたい。そのための柔らかさと、一からいつでも構造を組み上げ直せるスキルを養い続けたい。
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