「対極にあるもの」の読み解き
頭のなかで適当に思ったことメモなので、酒のつまみ的に適当に読んでいただければ幸いなのだけど。それにしたって、だいぶ漠たる話。ぼーっと歩いているときに考えていることをそのまま言葉にした感じ。
「対極にあるもの」に遭遇したときって、まずは双方の「違い」に目がいくんじゃないかと思うんです。「AとBはこういう点で違う、相容れない」という対立関係に着眼するんじゃないかなと。
男性と女性であれば、身体の作りの違いとか、身体能力の違いとか、父性的・母性的な性質の違いだとか、実際がどうあれ世の中に求められる男・女「らしさ」の違いだとか。
この「違い」に目がいくのが最も低次な反応だとすると、次に見出そうとするのが「共通点」じゃないかなと思ったんです。一旦違いを出しちゃって、そこからさらに考えを深めようとすると、「でもさ、どちらもこういう点では同じだよね」という反撃に出たくなる感じ。
男性と女性であれば、「でも、どっちも人間だよね」とか「どっちも地球に生きる生き物だよね」とか、「どちらにも感情があるよね」とか、「どちらも、男性的な面と女性的な面を持ち合わせているよね」とか。
創造と破壊であれば、「どちらも広義には、創造サイクルの一環として捉えることができるよね」とか、「変化の1プロセスだね」とか「諸行無常だねぇ」とかなんとか。
ほいでもって、さらに高次にあがっていこうとしたとき見えてくるのが「相補性」じゃないかと思うのです。つまり、AとBが違いと共通点とをもって交わる中で、お互いが補完関係にあるんじゃないかって、ここでやっと建設的な仮説に思い至るというか、創造空間の入り口に立てるんじゃないかなって思ったんです。
父性の「断じる」と母性の「包み込む」って、どちらも必要だなぁって思うのとか。「創って→壊して→再(脱)構築」を繰り返して、システムはより高い合理性に向かって変わり続けていくんだなぁとか。「大枠のビジョンを描いて示す」のと「かゆいところに手が届く」のと、どっちが得意な人もあってチームってうまくいったりするよなぁとか。「死の概念をもってこそ、一生懸命に生きられる」のかもなぁとか。「夜休んで、昼活動する」とか。「陰あっての輝かしい陽光」だとか。マクロとミクロ、内省することと、外に打って出ること。上に突進していく人と、それを下支えする人。
そうやって勝手に次元を与えて考えていると、補完関係に至るまでには、それなりに考えるステップがあって、考えを深める時間ってやっぱり大事だなって思ったんです。
かける時間としては一瞬で暗算的にやってしまうこともあると思うんだけど、考える道のりとしては、「こう違うよね→でも、こういう共通点はある→そういう違いと共通点をもって交わる中で、こんなふうにAとBは補完し合っている」という思考ステップを踏むんじゃないかなと。
だから、つまり、何が言いたいかというと、自分が対立関係だけで止めているなって思ったら、そこに共通点を見出す。自分が共通点までで止めているなって思ったら、そこに相補性を見出す。
というように、対極性をもつAとBを認めたときは、もっといろんな関係が見いだせるんじゃないかなって、考える時間と心の余裕をもって向き合いたいなと。自分の見方ってたいていは死角があるもんだって前提で、そこに目を向けようとする臨み方で世の中と関わっていきたいなと。ここに書いていることも死角だらけだと思うんだけど、まぁそんなことを思った次第です。
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