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2015-07-27

「女の子」論

「女の子ってこうなんです」「女性は〜なんです」と語られている説に共感を覚えることがない。天邪鬼なことも災いしているかもしれないが、たいていその手のものを読んだときには、
1)これって女じゃなくて人間に共通する傾向、特徴なのでは
2)これって、この人とその周辺(半径5m以内とか)限定の話では
のいずれかが思い浮かぶ。

もう一つ、
3)私が一般のそれに対して、女の子、女性的、女っぽくなさすぎる
という説も完全否定はできないが、この3つ目は自ら挙げないと「その可能性もある」って冷やかされる割りに、自ら挙げると自分を過剰に特別視してる人間に思われて「そういう奴に限って女なんだよ」と攻撃される謎の地雷だ。なので3つ目は、一旦取り上げつつ即取り下げる技に出る…。まぁ自分なりにフラットに考えると、ここは上2点で話を先に進めて差し支えなかろう。

で、「女の子ってこうなんです」「女性は〜なんです」説から、それをモデル化してマーケティング施策に使えるふうに「女性ターゲットにはこうすべし」と語られている記事も見かけるのだけど、こうしたものを生物的に女の特徴と一括りに理解してしまうのは早計と思う(そんな極端もないと思うが)。

私が見かけて、そっかなぁと違和感を覚える説はWeb上で展開されるラフな記事なので、別に目くじら立てるものでもなし、書き手に落ち度があるようにも思わない。読み物として面白いか、読み手に洞察を深める"機会"を与えるかどうかが、記事の評価しどころだろう。

先ほどの1つ目か、2つ目か、あるいは女性性を見事に言い当てているものか、実際のところどの範囲にどのくらいの信頼性をもって言えそうな提言かは、読み手側の責任で慎重に読みわける必要がある。

1つ目の「人間に共通する」って類であれば、男性にも有効だけど女性にも有効なので、自分のところで適用しても特別問題ないってことになろうが(単純化して言えばの話)、2つ目の「その人の周辺限定」だったとすると、それが自分のところのターゲットとずれた女性像だった場合、施策としては有効性を失い、毒にもなりうる。

情報が届いた段階から以降、力量を問われるのは書き手ではなく読み手の側だ。読んでひとくくりに女性ってそういうものかと思ってしまうのは、書き手というより読み手側の乱暴さって感がある。

今やWeb上を中心に情報の発信者は多種多様であり、これを自明なこととすると、情報の精度も千差万別。情報をどう読んで、どれくらい信頼して、どう検証を加えて、どの範囲に自分の領域で適用するかは、受け取り手側の責で取り扱う必要がある。

男女の差っておしゃべりトピックなので、けっこう雑に特徴づけられて語られることも多いけど、生来的に違いがあることって、精神面にかぎっていえばそう多くない気がしている。

そこをあんまり単純化して性差で二分しちゃうと、それ以外での分類を試行錯誤する探究心を損じてしまったり、個体差、相手の個性を深く洞察していく一歩を踏みとどめてしまうリスクがある気がして、私はけっこう慎重派だ。

これって「女性」ラベルに限定されない。「サラリーマン」もそうだし、「主婦」とか「働く女性」とか「長時間労働する若者」とか。なんか、お金のために働いている、長時間働かされているというように、みんながみんな無理やりやらされている前提でレッテルはられて発信されている情報や見解に、人間の捉え方が平坦すぎるのでは…と思うことが少なくない。

「サラリーマン」というひと括りで、おじさんおばさんの働き方を批判している若者に、働き方が多様化している今どきに、そういうあなたも感覚が古いのでは…と思ったりすることもあるが…。そう思うのは、私の半径5m以内(物理的にではなく関係性的に)のサラリーマンの働き方が、いわゆるサラリーマン的働き方や価値観でない人に偏っている可能性も存分にあるので、これまたなんとも言いがたい。

何はともあれ、世界が多様性を認めようという流れにあって、多様な選択肢から自分の答えを選べる状態を自由と言うなら、こうあるべしって万人に説けるものは数を減らしていく潮流にある。

一元的な価値観、一元的にしか人を捉えない見方は、世界の豊かさに反して、心の貧しさを生んでいく怖さがある。だから乱暴に言葉を与えぬよう慎重を期していきたいのだけど、といって黙りこんでしまっても何も始まらなくて夏…、バランスって難しいなと思う。毎度、話の論点がずるずるとずれてしまう。

2015-07-19

「IA CAMP 2015」後の書き散らかし

「IA CAMP 2015」( #iacamp2015 )というイベントに行ってきた。朝9時半に開始して晩は21時過ぎまでの一日がかりのイベントで、世界的に知られる情報アーキテクチャ(IA)の「神」的なPeter Morville氏に、Dan Klyn氏、Jason Hobbs氏お三方を海外から迎え、国内屈指のIA実践家も登壇する豪華イベントだった。登壇者・関係者の皆さん、ありがとうございました。

私はIAの実務家ではないのだけど、そうした人たちの学習を支援するインストラクショナルデザイン(インタラクションデザインじゃない)を生業にする立場で参加。加えて、情報を構造化するとかってあらゆる仕事で行われていることで、自分の仕事領域でも、プロジェクトを計画するにも、研修プログラムの提案書や設計書を書くにも、計画を推進するにも、直接つながっているところが多分にある興味分野。

以下、だいぶ書き散らかし感があるので、ほとんど自分の思考メモっぽい状態だけど、まぁとりあえず。持ち帰って思索にふけったことを4つに分けて。「同質性を前提とする日本のIA」「事業と組織のグローバル化施策」という話と、「日本人は主観的で、欧米人のほうが客観的か?」「主観と客観は縦関係では」という話。最後まで読んだ人がいたら飴ちゃんあげたい。

●同質性を前提とする日本のIA
海外ゲストを招いていたこともあって、長谷川敦士さんの基調講演は「日本のIA、弱いIA」。長谷川さんとしては、海外ゲストに日本独特のIAの深化の遂げ方を紹介したい思いもありつつ、日本人かつIAでない私も大変興味深く聴いた。

ちなみに「弱い」というのはネガティブな意味ではなく、優劣の意味は含んでいない。あくまでフラットに「弱い」という特徴を仮説立ててみて、何かを生み出せまいかとする、長谷川さんの今思考まっただ中にある事柄をひも解いて紹介くださったという印象。

この「弱さ」を欧米より劣ったものとみてしまうと、欧米に比べて日本の情報アーキテクチャは洗練されていない→雑多で混沌としていて汚い、わかりづらい→これは作り手がきちんと計画立てていないからだ、というような解釈になってしまう。安易にこう読み取っては短絡的だ、という話だろう。

確かに日本は、「ものづくり」における細部へのこだわりや洗練が特徴として語られる一方で、「売りの現場」では一転、券売機にも周囲にぺたぺたと補足説明が張られ、電化製品の量販店売り場も売り文句がペタペタ、こうしたお店のチラシ類も情報量が多く、無計画にぎゅうぎゅうと詰め込まれた感じで、洗練さの真逆をいく雑多な情報提示が特徴的だ。Webサイトでいうと、楽天市場のUIが代表例として挙げられている。

でも、これって情報の送り主にとっては「効率的」「狙った効果をあげている」という側面、そして情報の受け手にとっては「それで許容できちゃう」「情報処理できちゃう」という側面があるのではないか、という話。

特に後者の、消費者がそれでも情報処理できちゃってるという話の展開がおもしろかった。(この後に直結して話されていたわけではないので、多少私が乱暴につなげて解釈してしまっているかもしれないのだけど)なんでこうした雑多な情報を処理できちゃっているかという要因の一つに、日本では、ほぼ情報の送り手=受け手というハイコンテクスチュアルな環境があることを挙げていた。

長谷川さんの言葉で表すと、ほぼ「設計者=利用者」である実態。日本は、島国、単一民族といった背景から同質性が高く、バックグラウンドや宗教観など、いろんな前提を暗黙的に共有しているから、雑多で混沌とした情報提示でもさほど問題が起きず、自然と「利用者への共感を元にしたデザイン」ができている状態。それで、この雑多さのプラス面である「にぎわい、高揚感を与える」恩恵も受けられているってことかもしれない。

ただ「利用者への共感を元にしたデザイン」ができているのは、今のところ、IAのスキルとして達成しているのではなくて、環境の恩恵を受けてできている人が多いとするなら、今後そうではないグローバル環境で仕事していこうとするときに、スキルでそれが達成できるように習得する必要が出てくる。それが意識化・体系化できれば、世界的にも今後より共感性高い情報提示が求められていく中では、日本のそのノウハウを輸出していくこともできるのでは、というような話と解釈した。

●事業と組織のグローバル化施策
このような話を受けて思ったのは、これって「事業をグローバル化していくのか」と「組織をグローバル化していくのか」、それぞれは分けて施策を考えたほうがいいんだろうなということ。つまり、自分が今グローバル化施策として考えようとしているのは、客の話なのか、組織メンバーの話なのか。

「事業をグローバル化していく」ときに、これまでよりずっと同質性の低い顧客相手に、より深く顧客の文脈を汲んでいく必要が出てくるというのは、その通りとして。

そうだとしても「組織をグローバル化する」のでなければ、そこは同質性高い仲間とやりとりできる恩恵を十二分に活かしたほうが効率的ではないかと思った。むやみに組織づくりやワークフローもグローバル化しようとして、ローコンテクスチュアル前提の「欧米の仕事のやり方」を真似ては、非効率になるばかりということもあろうなと。

もし日本人同士で、しかもみんな都内にいるとか同世代とかで、膝つきあわせて数人で作れるとかって環境なら、それを強みにはしょれるところどんどんはしょって開発していったほうが合理的で能率が良く、日本的な強みを活かせるってこともあるだろうなと。

あるいは、日本に向けたサービスで、お客が日本人のみ、言語が日本語のみでの提供ということだったら、お客が情報処理してくれちゃう前提で、にぎわいや高揚感を狙った雑多デザインをとったほうが合理性高いとか、あるのかもしれない。なんでもかんでも洗練化に向かえばいいというのでもないんだろうと。

逆に「組織をグローバル化する」、多国籍のチームを組んで、仕事のやりとりに異文化でのコミュニケーションが出てくるなら、ローコンテクスチュアル前提の組織づくりやワークフローに変える必要も出てくるのではないか。と思ったが、どうだろう。実際、自分の仕事がグローバルじゃないので、見当違いなことを言っているかもしれない。

いずれにせよ、グローバル化に対応すべく施策を考えるときは、客をグローバル化する話か、チームを多国籍化する話か、それぞれは別に考えたほうが効率を落とさない気がした。

●日本人は主観的で、欧米人のほうが客観的か?
これは誰かがそう言っていたという話じゃないんだけど、「日本人は主観的に、欧米人は客観的に捉える傾向がある」という個人とか民族的な特性の話にしちゃうと、個人的には仮説としてあまりピンとこない。

民族的な違いではなくて、「どういうシナリオで合意形成を働きかけたほうが通りやすいかは、文化圏によって違いがある」という組織のありようでとらえたほうがしっくりいく気がした。

「合意形成や判断の際に、日本の組織では関係者の納得感や価値観を重んじるのに対し、欧米の組織ではそうしたステークホルダーの意向に左右されない原理原則にもとづいて結論を導く傾向がある」とか。

日本人は単一民族で同質性が高く、ハイコンテクスチュアルにやりとりできる前提があるから、関係者の納得感ある結論を出そうと考えても、現実的にできそうな期待がもてる。実際はできなくても。一方で、欧米は多民族、そもそも全員のバックグラウンドを踏まえた納得感高い結論など導きようもないローコンテクスチュアル環境を前提にしているので、一つの答えを出さないといけない局面では、さまざまなステークホルダーの意向に振り回されないで説明しうる原理原則を起点に結論を導こうとする傾向がある。そういう説明でいくと、あるかもなぁという気がする。

●主観と客観は縦関係では
しかし、そもそも論を持ち出すと、私の理解ではまず前提に「人間は主観の生き物」というのがある。概念としてみれば、主観と客観て横並びに対置するけれど、人間からすると、その特性上「自分の主観」からは逃れられない前提で「客観的であろうとすることはできる」という縦の関係に階層化して捉えている。完全なる「客観の生き物」にはなりきれない、だから人間は主観ー客観を横に行き来することはできないんじゃないかなと。

もちろん日常的なシーンで、主観ー客観的な見方を横移動させて思考をめぐらしているような場面はある。だからこれは究極の話というか、厳密にいうと、という感じなんだけれども。少し掘り下げてみる。

「客観的な事実にもとづいて結論を導き出す」とはよく言う。けれど、「客観的な事実」ってそこら中に散らばっているので、そのうちどの「客観的な事実」を集めてくるか絞り込んでいくかという舵取りに、その人の主観が入り込んでいる。別の「客観的な事実」をもってくれば、その結論にはいくらでもぐらつきを与えることができるし、そうした別の「客観的な事実」はそこら中にある。一つの分野に相反する理論が存在するのも、よくあることだ。つまり、自分がどこかから持ってきた「客観的な事実」より下の階層で、自分の「主観的な選択」が働いていて、「客観的な事実」の取捨選択は、その主観の影響を受けざるをえないという感じ。

そういう構造を前提に人間にできることって考えると、自分が主観から切り離れることはできない前提をわきまえた上で、自分にどういう主観が働いているかを意識化して理解すること、それに振り回されないように意識しながら理にかなった結論を導かんとすることだけだと、そんなふうに思っている。「自分は深い見識から公平に客観的に合理的に結論を導き出せている」と思えるときは、一番最下層の主観が見えていないのかもしれない、と自分を疑ってみることが大事だなと。エネルギー枯渇…、しまりないけど、ここらで終了。

2015-07-16

はせるとふける

一歩プライベートな会話に踏み込むときに、「休日は何をしているんですか?」という展開はよくある。この間久しぶりに、この質問を受けた。

自分の休日の過ごし方に思いめぐらし、一つ二つと思いつくところから挙げてみた。本を読んでいるか、人と会っておしゃべりしているか、文章を書いているか。3つ目で止まった…。あまりに短い。バラエティに乏しく、どれも地味である。

あと加えるとしたら、なんだろう。後日、改めて考えてみる。泳いでいる時間、ラジオを聴いている時間は加えられるか。さらに地味になった感もあるが、これで5つ。

これ以外で、食事とか睡眠、掃除や洗濯あたりははずすとして、あと何かあるだろうか。もう、すべて言い切った!というすがすがしさを覚えなくもないが…。これくらいの数にとどまっているほうが性に合っていて無理がない気もする。

もう一つ挙げるとしたら、浮世離れしたことを脳内に浮かべている時間か。って書くと、いかにも怪しい言い回しだが、長時間やっているわけじゃないから怪しくない!とはいえ、なかなか誤解を生みやすい表現なので、これをうまいこと言おうとしたら「思索に耽る」って言葉を思いついた。

けれど、改めてこの言葉の意味を調べてみると、まったく及ばなかった。「思索」は筋道を立てて深く考えること。「耽る」は熱中するとか、一つのことに心を奪われること。ぼーっとするのとはわけが違うのだった。

「思索に耽る」ことが、そんなに気合いの入った本気モードの取り組みだったとは、恥ずかしながら初めて知った。「しさくにふける」って音の感じからすると、もう少し宛てもなくぼーっとした雰囲気を漂わせるが、思いのほか気骨のあるやつなのだ。

では、私の余暇のこれは一言で言うと何なのだろう。最近で言えば「雨粒も、海に落ちれば海になる」という情景が、気まぐれに私の脳内を占拠するのだけど、これは思索に耽っているとは言えない。雨粒が海に落ちて海になる情景を思い浮かべて、そのままなんとなく、これはまたいい視点ですなぁと味わっているだけだ。

思索して考えを深めるのでもなければ、検索して何かを調べ出すのでもない。なんとなしにその情景を頭のなかに映したままにして、つかの間の思考停止を愉しむ。別段どこに辿り着けるわけでもないし、誰かに何かを説けるようになるわけでもない。けれど、こうした時間の心持ちはなかなか豊かである。

思いを馳せる(おもいをはせる)っていうのは、どうだろう。思索に耽るに(音が)似て怪しくなさそう。それでいて、そんなに気合いの入った筋道とかなくても大丈夫そうである。では「休日は何を?」「思いを馳せています」って、この問いにのせると怪しさ満点すぎるか…。

いずれは、また何らかの変化に直面し、この遠浅の海を散歩するような休日もずっとは続かない。それはわかっている。人間に永遠はない。そのときまで今しばらくは、と、貴重な今を味わっている。いやはや、ここまでなんでもない話を長文書き連ねられるのも、逆にすごいんじゃないか。人の注意をひかず、ロボットの検索性低そうなタイトルをつけて話を終える。

2015-07-14

ゲストの役回り

うちの会社には、同じ派遣元会社から来ている派遣社員の皆さんが企画してやっているランチ会というのがある。毎回うちの社員1人をゲストに迎えて、4人でランチをするというのが周期的に行われている。という話は、風の噂に聞いたことがあった。とはいえ、いつも端っこで仕事している自分に番がまわってくるとは思ってもいなかったのだけど、回を重ねてきたこともあってか、この度なんと自分に声がかかった。

ある日ゲストはランチ会のお誘いメールを受け取り、会の趣旨と仮日程が提示される。OKであれば、ゲストがお店を決めて、その日みんなをランチに連れていく。お金は各自負担。かしこまった会ではない、まぁ普通のランチだ。当日は、お三方からいろいろ質問をいただいてあれこれおしゃべり、ゲストは最後に次のゲスト(別のうちの社員)を指名して解散。会の主催者が、次のゲストに突撃メールを送り(指名した前回ゲストをCcに入れて)、次回ランチの承諾を得る。いわば昔の「笑っていいとも!」方式。確かに、こうすると自然に循環してうまく継続できるな、なるほどと思った。

しかし、いざ自分となると、当日を終えてみるまで、私相手で間がもつのかどうか不安だった。私はコンテンツホルダーというより、編集者の役回りで生き(のび)ている。素敵なコンテンツを内にもっている人たちから素材を引き出して、それを編集して世につなげる仕事。プライベートでも、いろんな魅力を内在化している人たちの話を聴いたり読んだりして、それを自分なりに咀嚼したり解釈して味わったりフィードバックを返すのが日常だ。だから、人から自分にコンテンツそのものを求められると、空っぽの自室を眺めて腕を組み、うーむと立ち尽くしてしまう。

こういうのって入れ子構造のようになっていて、何かの分野で「編集」経験を積み重ねていくと、そのノウハウが「コンテンツ」になる、みたいなところがあるのはわかっている。だけど、そこに至るにも私の場合まだ道半ばなんである。

さらに歳をおうごと主義主張から解放されていき、人の価値観に寛容になる一方で、自分発で訴えたいことが希薄になっている感もあり。強い問題意識や生命力をもつ人と出会って、そうした人たちに共鳴することで熱量を発生させて事に仕えるというように、人に生かされているようなところが多分にある。

まぁ今回の会を逸脱して話を飛躍しすぎなのだが、とにかく楽しみ半分、役を全うできるか不安半分で行ってきた。で、結果的にはけっこういろいろ話ができてほっとした。多岐にわたる質問をふってくださったこともあり、また私もこの場では自分が話す時間が比較的長いほうが成功ということになるんだろうなと思って、できるだけしゃべってみたりもして。

私は裏方稼業で、場づくりや配役は本業なので、自分がどう立ち振る舞うと、この場の成功に寄与するかというのは、公私問わずけっこう考えてしまうのだ。自分が自分に割り当てた役を見事なパフォーマンスで終えられたことはないが…。

しかし中盤に「特技はなんですか」という質問があって、これには一瞬考えこんでしまった。うーん、特技、それがこれといってないから、こういう役回りで生きているような気もする…。とはいえ、ここは何かしら答えたほうがいいだろう。しかし分かりやすいものはこれといってないわけだから、ここは割り切って、ぼんやりした回答でも一つしゃべってみようと、思考をたどるようにして思いついたことを口にしてみた。

「えーと、人が内心で思ってることを汲み取るのは、比較的得意だと思います」と、まぁそういうようなこと。で、言ってみたら、あ、でもそうじゃないかも、と思い直して言葉を重ねる。「あ、というよりも、人が内心こう思ってるかなというのを実際に汲み取れたふうなことが続いても、自分が相手の内心を汲み取れているに違いないと思い込むことなく、毎回もしかしたらこうかもなというくらいで、相手の内心を決めつけずに留められることかな。自分には、相手のことはわからないのだという前提を持ち続けられること。自分におぼれないとか、おごらないとか、その辺りが得意です」と、さらにもこもこした返しをしていた…。

一時的に、話しながら自分の中で自問自答するような感じになっていって、そうだな、むしろそっちかなぁとか一人合点してしまい、伝わったのかどうなのか質問してくださった方の目も確認せずじまいになってしまった…。まったくもう、目の前でおぼれながら「自分の特技はおぼれないことです」と答えていたようで恥ずかしい…。

それを除いて全般振り返るに、たわいもない笑い話ばかりで実のある話はなかったと思うけれども、まぁ時にはそんなのどかな回もあっていいだろう、と勝手に納得した。私にとっては、新鮮で楽しい時間になって感謝、感謝であった。

2015-07-10

壮年モラトリアム

クライアント案件の集中していた時期が一段落して、ここ数週間は言ってみれば壮年モラトリアム期のようであった。言ってみればって、全然うまく言えてないか。モラトリアムって自分語で初めて使うから、よくわかっていないが…。なんとなくぼやーんと、常識的な境界線が融けた世界を眺めているような時期が、気まぐれに巡ってくる。といったって別に怪しいレベルのものじゃない。仕事が一段落した後のぽっかりした時期なんかに都合よく、しかも仕事時間外の一人のときを選んでやってくるのだ。なんて慎ましい壮年モラトリアム。

ぼやーんと過ごすというのは、普段から暇さえあればやっているのだけど、通常のちょっと上いく時期がたまにやってくる。最近「ソフィーの世界」を再読し始めたのが、それに拍車をかけたのかもしれないし、そういう時期が巡ってきたから「ソフィーの世界」を手にしたのかもしれない。

「ソフィーの世界」は、物語を楽しみながら紀元前600年の自然哲学の起こりから現代までの哲学史をざっくり学べる哲学入門的な書物。ざっくりといっても650ページほどの大作で、90年代に手に入れたときは200〜300ページくらい読んだところでストップしてしまった。初めて通読したのは、確か2011年の壮年モラトリアム期。これが、だいぶ自分の世界の見方を細やかにもしてくれたし、自分の世界との関わり方をゆるやかにもしてくれた。それで今回の2015年壮年モラトリアム期にも、なんとなく手にしたのだろう。今回はKindleで読んでいるので(すこし味気ないけど)持ち運びも読むのも身軽で楽だ。

私の嗜好的に、地球誕生からの46億年をたどっていくのは疲れてしまうのだけど、人が「なぜ?」の答えを神話の外に見出し始めた自然哲学の起こりから2600年あまりをたどっていく旅は楽しい。やっぱり人への関心が強いっぽい。そこからをものさしにして、今とか自分とか人間とか生き死にとか善悪とか良心とか真理とか理性とか価値観とか因果律とか主義主張の歴史とか地球とか自然とか宗教とか科学とかをざっくりとらえてみるというのが、なかなか好いのだ。といって、あんまり深く一つひとつを探求していこうという熱心さにも欠ける私のような人間にとって「ソフィーの世界」は実にちょうどいい按配の物語である。

そうしてしばらく壮年モラトリアム期をふらふらしていると、常人の私はそろそろここを出て行かないと…という気になってくる。実務書なんかに手を伸ばして、そろそろ人様の役に立つところに帰らないと、と。この自分の凡人さをわきまえたところには、好ましさを覚えないでもない。実務書の読み方に変化があるのを喜ぶのも、身の丈にあった幸せを味わう潔さがよいではないか。

などと調子のよいことを書きつつも、モラトリアムからこちらに戻ろうかというちょうど今時分は、周囲の人の優秀さと、自分のなんでもなさのギャップが身にしみてひりひりする。しかしまぁ、そんなことをとやかく言っても自分は自分なので仕方ない。ともかく自分のできること、いただける機会を大事にしてこつこつ頑張るほかない。私の人生は、同時代を生きて縁あった人たち、このごく限られた人たちにどう関われるか、求めに応じた役割を果たせるか、だけなのだ。

全然関係ないけど、こうしたふわふわした時期に昼間ラジオかけたまま寝てしまうと、目が覚めたときに頭はラジオの声をしっかり聞けているのに、体が起きてくれないでもがくという事態にあう。よいしょ、えいっ、やぁと頭でやっても、なかなか体が抜け出せなくて大変だ。やっぱり目が覚めるときは無音か、アラームか鳥のさえずりくらいがちょうどいい。寝言いっている人に話しかけちゃダメだとはよく言うけれど、あの抜けだせなさを思い返すと、ほんとそうだなぁと思う。本当に関係ない話で終わるけど。

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