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2015-05-28

もみくちゃテンション

今年は年始からこれまで受注済み案件の取り回しにかかりきりで来た気がするんだけど、ここ1〜2週間でにわかに新しい動きが出てきた。ちょうど5〜6月で、これまでかかっていた案件の数々が一段落するのだけど、手がすくタイミングでうまいこと新しい引き合いがやってくるのには、世の中うまくまわっているものだなぁと毎度感心する。ありがたくも思うし、いつまでも続くと思うなよと心してもいる。

ともあれ今週はちょうど境い目にあたる週らしく、新旧の案件が重なって忙しい。どうにか時間を捻出できぬかと思い、朝のプールを5分早く切り上げるとか、歩き移動を小走りにするとか、腕をふって歩くとか、機敏に動くとか、移動中に考えをまとめる・調べる・メモしておくとか、久方ぶりにそのあたりのシュタタタ系ソリューションに手を出している。

月・火曜は2日連続でA社に研修提供する日で、先方に終日缶詰め。水曜は朝からそのレポート作成、日中はB社に出かけて研修提供。終えて講師と打ち合わせて次の予定を立て、夕方社に戻って先のA社のレポートを仕上げて提出。夜から来週のC社の研修の教材校正をコツコツやるも終わらず帰宅。

木曜は、先日新規引き合いいただいたD社のヒアリング要件をまとめて提案骨子を作成、講師との打ち合わせに臨み、内容をすりあわせて提案骨子を手直し。スケジュールと見積もりを作って加え、提案書を完成させる。その途中で、昨年末に研修を提供したE社から再演の相談が入って、ちょこまか見積もり対応。

金曜は、前日仕上げたD社の提案書を営業さんに見てもらい、問題なければ朝一番にD社に提出。その後、来週研修本番のC社の教材校正をなんとかやり抜いて講師にフィードバックしたいところ。そして昼は先月実施したF社の研修の振り返りをした上で、昼過ぎに先方を訪問して反省会。ちょっと遠いところまでガタンゴトン。社に戻ってきたら、たぶん実はC社の教材校正がやり抜けていないので、それをどうにかして仕上げたいところ。

ここまでどうにかやりぬいて週末を迎えたい。来週は来週で、A社〜F社の続編に加えて、G社の件も進めたい。ちょっと正念場だ。

とごちゃごちゃ書いている暇があったら…という話なのだけど、けっこう久しぶりにこういうもみくちゃ状態なので、意識的にもいくらかテンションを上げており、そうするとなんとなく頑張っていることを羅列したくなるのかな。小さい人間である。テンションが上がると文章を書きだすというのもまた、おかしな人間である。

でもまぁこんな記録も、ずっと先にこれを見る機会があれば(あるいは年老いた私に読み聞かせてくれるロボットがあれば)、あぁあの時は私も、アラフォーだなんだと言いながらもまだまだ若々しく、けっこう張り切って働いていたよなと懐かしく振り返れるだろう。

こんなふうに「今の自分」から離れて「今の自分」を捉えてみようとする試みに、文章を書くという行為はなかなか手近で有効な手段だ。初めはもみくちゃテンションのままだだだっと文を書き連ねていても、しばらくすると冷めたか覚めたか、生易しいか生暖かいか、いろんな目線が今の自分に注がれていく。

そうして着地するところは、今に感じる尊さと、周囲に対する感謝だ。いろいろ散策してまわって、最終的に健全なところに帰ってこられる感じがする。だいぶわけがわからなくなったので寝よう。

2015-05-16

旅する気になる

妹が九州に引っ越したので、父があちらに様子を見に行きたい&せっかく行くんなら湯布院に行きたいと私にほのめかす。そう言っておけばあとはおまえがきっと全部やってくれるだろう…という一言を放って、父はその話を切り上げる。というのを何度かやる。もはや慣れているので私も動じないが、といって動かないわけじゃない。態度はぶっきらぼうだが、父のことは大事なのである。

それで数日前、腰をあげた。普段はインドア気質で、出かけるにも近所ばかりうろついているので、旅の勝手がことごとくわかっていないのだけど、ここはやりどきかと会社からディレクター気質を持ち帰り、手さぐりで旅支度を始める。

まずは行く日を決めよう。日を決めてしまえば、あとは仕事モードの私が自動的に動き出すに違いない。準備タスクを洗い出して、決めるものを決めて、手配するものを手配して、そう動かずにはいられなくなるはずだ。これだけつきあいが長いと、私も私の扱い方というのをまずまず心得ている。

というわけで、仕事のスケジュールをみて、ちょっと落ち着きそうな頃合いで一番早い日どりを仮設定し、父と妹に確認を入れて旅行日程を確定させた。となると、もうひと月ない。が、とにかくここはスピード感が大事なのだ。あいつに言ったら、その場では生返事だったのに一気に日程決めてきよった、しかもそんな先じゃないじゃないかというスピード感。旅は、このぐいっと勢いづくテンションの高まりから始まるのだ、きっと、たぶん…。

では、準備にかかろう。とりあえず飛行機と宿だけ押さえておけば、あとは何とかなるだろう。現地での移動手段は妹の車だ。3日間の旅程をざっくり決めて、あとはあちらでみんなから意見をもらって肉づければよい。あれやりたい、これはいらないは、実際場面になれば私より父や妹のほうが持っているだろう。

まず、ざざっと旅行サイトの楽天トラベル、じゃらんあたりで今から宿が取れそうか様子をうかがう。まぁ、行けないことはなさそうだ。ここ数日以内に手配すれば、そこそこの宿はどうにか取れるだろう。でも航空券は、宿とセットで取ったからといって安くなるわけじゃなさそう。これなら、JALのサイトで、乗る21日前割引の往復航空券を買っておき、後で別に宿を押さえるので良さそう。旅の常識を何も知らないので、とにかく攻められるところから攻めて手配物をつぶしていこう。

航空券、父は国内だったらすぐだから立ち乗りでもいいくらいだと言っていたけれど、父も私も老体で…自分が思う以上に疲れると思うから、適当なところでJALのエコノミーにする。数年に一度しか使わないJALカードの出番だ。航空券を押さえたら、とりあえず父にその旨を伝える。確実に話は進展し、その日に行くことが確定した感を共有。

次は宿だが、せわしない予定を立てると疲れてしまうので(基本的に弱気)、湯布院に2泊でいいとして、さてどうするか。結局父が払ってくれることになりそうなので、無駄にお金かけすぎず、でもきちんと満足いくお風呂と食事とお部屋と接客のもてなしが必要。程よいところを選ぶというのが、すごい難しい…。

この辺でとりあえず「ことりっぷ」的なものを1冊買うことにする(遅い)。向こうの地理とか観光スポットを概観して、宿情報もあわせて眺めてみよう。サイトだとそういう全体把握をするための調べ物をする気にどうもなれない。なぜだろう。Webだと際限ない感じがするからかな。本でも大きいサイズだと、買っても読みきれない感があるし、現地でもかさばるのでNG。「ことりっぷ」くらいの小柄なサイズは、短時間で全容を把握できるって際限ある感じがいいのかも。現地の持ち運びも楽だし、あれなら持ち歩いて参照する気になる。「する気になる」のは大事である。

会社帰りに、家の近所の本屋さんに立ち寄る。「ことりっぷ」かそれに似た類にしぼって選ぶ。今回は父の旅なので、女の子っぽい「ことりっぷ」よりJTBパブリッシングの「タビハナ」のほうが内容が合うかもなと適当なことを思い、そのままレジへ。

そこから近所のコーヒー屋さんに行って、おおよその地理と、ざざっと見どころを把握。私は「食」をすっ飛ばすので、見るところがかなり限られて良い。写真を眺めていて、とにかく私は阿蘇に行きたいぞ、という結論。あとはとにかく強行スケジュールにならないようにバランスをみる。本をぺらぺらめくりながら無理のないアバウトな旅程を組んで書きつける。

スピード感に続いて提供すべきは、ざっくり旅程を眺めたときのワクワク感だろう。あまり細かすぎると読む気をなくすし、がんじがらめ感が出るので、ざっくり4〜5行の箇条書きで1日ごとの流れをまとめ、たたき台だけどこんなふうに動こうかなと思ってるよ、と送って見せる。

ここ2〜3日そんなことをやっていたのだけど、昨日送った旅程をみて今朝、父から「いいね♪いいね♪楽しみだね。」と返信あり。音符マークですよ、音符マーク。父がウキウキするのに一役買っていると思うと嬉しいものです。宿は結局、妹が探して決めてくれたので、続報で父に宿情報を送り、諸々事前の手配ものは落ち着いた。たのしく豊かな旅になりますように。

「あなたはまだ実感ないだろうけど、人に会えるのはね、生きている間だけだよ」ってセリフを折々思い出す(伊坂幸太郎「モダンタイムス」下巻)。会わないで済む効率を推し進めるのもいいけれど、会えるのなら直接に会うこと、その尊さを思うのだ。

2015-05-10

おせっかいと親切の間

日曜の朝っぱら、プールあがりに東京の古書店街へと続く裏通りをのんびり歩いていた。人通りが少なく、車も通らない。静かである。前方に目をやると、盲導犬を連れた女性が視線の先に見えた。あまり使い慣れた道ではない様子だったので、しばらく車道をはさんで向かいの歩道を、歩幅を合わせて歩いた。何本目かの曲がり角に来た時、彼女が立ち止まって向き直り、今まで来た道を戻り始めたので声をかけた。

車道を渡って近づき「どちらに行かれるんですか?」と言うと、彼女は「コンビニのある通りに出たいんですけど、この道をもう一本先まで行ったらいいんですかね?」と、私たちがこれまで向かっていた方角を指さして言った。

コンビニのある通り、うーん…と一瞬思案。コンビニに行って何か買いたいのか、どこか特定のコンビニに行きたいのか、それともその特定のコンビニのある通りに出たいのか、この辺りが頭のなかでごちゃごちゃっとしてこんがらがった。そこで、そのうちのどれ?と尋ねれば話は早いのに、こんがらがったものをそのまま口に出すというのができず、でもとにかく早く応えなきゃと焦って「神保町のほうですか?」とかなんとか2、3の会話をした。

でも現在地から考えるに、とにかく消去法で、ここで今来た道を引き返しても当分の間、コンビニはおろか店らしきものが何もないので、「今指さしたほうへ直進すれば、神保町駅に通じるコンビニのある大通りに出ますよ」と返すほかなかった。私もその辺りに特別通じているわけではなかったのだ…。声をかけておいてどうかと思うが。

彼女は「そうですか。ありがとうございます」と言って、話はそこで終わった。盲導犬が用をたし始めて、彼女はそれを待っているようだったので、「じゃあ」と言って私はその場を後にした。私は車道を渡って向かいの歩道に戻り、しばらく歩いた。そして1分足らずして、私はなんて中途半端なのだろう…と立ち止まり、悔い始めた。

毎回そうなのだ。お決まりの一人反省会コースだ。目的も相手のことも自分の果たすべき役割も明らかな仕事場面だとけっこう思いきり立ち回れるのだけど、そういうのが曖昧な状態で慣れないシチュエーションに直面すると、どうも引っ込み思案になって、中途半端に終わらせてしまう。

しゃべり過ぎ、訊き過ぎ、やり過ぎなおせっかい領域に踏み込んで、かえって迷惑になるのが嫌で、その場の求めに必要十分なことをしたら、邪魔にならないようできるだけ早々に切り上げねばという焦りが出てしまう。何をおせっかいと受け取り、何を親切と受け取るかは人によって違うので、よく知らない相手だとその場面で快・不快の境い目を推し量るのも難しく、おっかなびっくりになって腰が引けてしまう。それで声をかけた割りに、本来目的からまだ遠く中途半端な状態で切り上げてしまって、役に立ちきれていないではないかと後から一人反省会を開く顛末…。これを、これまで何度経験したかしれない。

加えて、瞬発力に欠けるのもたちが悪い。もっと瞬間的にその場で想像を巡らせ、それを整理して、スマートにたちふるまえればいいのだけど、どうもその辺が鈍く、慣れない状況への自分の対応の至らなさには毎度残念な思いをする。

4、5年前、帰宅ラッシュで大混雑した都内の駅のプラットフォームで、白杖をもった男性が何か叫びながら杖をマジシャンのごとくぶるんぶるん振り回している場面に遭遇したときも、私は何もできなかった。人が密集している中だったので、ごく近くにいた周囲の人は当然驚いて、危険を察知して彼に怪訝な顔を向けていた。彼とどうにか距離をあけようと身体をひねりながら歩いていた。私はその先頭集団から少し離れた後方の安全地帯から見ていたけれど、うわっ危ないなと思ったまま、その先に想像が及ばなかった。

そこから1分ほどして、もうその集団と離れてしまった後にハッとしたのだ。ただでさえ電車の音でうるさい駅のプラットフォームに、100人規模の足音が鳴り響いていたのだ。あれでは白杖を地面につく音が耳に届かなくて、空間が全然把握できなかったのでは。それで過度のストレス状態だったのではないか。なんでそういう、時間をおいて思い至ることをその場で想像できないんだろう。

それが本当にそうだったかは、もちろんわからない。私の勝手な憶測にすぎない。だけど、少なくともそういう想像を瞬時に巡らすことができれば、近寄って「すごい人なので混雑が抜けるところまでご案内します」と一声かけられるだろう。それで私の想定と違っても、それはそれで対処すればいい。

とにかく慣れない状況下における、その場の瞬時の対応が、たいてい貧相で残念なんである。想像力の問題なのか、瞬発力の問題なのか、心の豊かさの問題なのか、全体的に足りていないということなのか。でも自分の能力を嘆いているより、身の丈を受け止めて毎回反省したことをコツコツためて改めて、亀の歩みでも自分のできることを増やしていくほうが伸びがあるというもんだろう。

応用範囲が狭いので、それにも辟易とすることはあるけれど、まぁ一つひとつ重ねていくしかない。人が道に迷っているとき、外国人観光客が街で困っているとき、同僚が肩を落としているとき、慣れない年代の人とコミュニケーションをとるとき、毎回うまく関わることができなくて初回は一人反省会だった。次に似たようなシチュエーションに遭遇したときは、少しまともに関われるようになって、それが徐々に自然になっていって…の繰り返しでやってきたのだ。

今回は結局、向かいの歩道で犬が用をたすのを待って、また同じ歩幅でしばらく歩いた。すると神田明神のお祭りで神保町の町内会の皆さんがお神輿を出していて、地元の人たちに囲まれて道を教わっていたので、私はそこで失礼した。次の機会には「そこまでご一緒しましょうか」と声をかけられる自分に、また一つ成長しよう。

2015-05-07

人の言葉を書き写す

クライアントに研修を提供した際、受講者にはたいていアンケートを書いてもらう。内容は案件によって変えるけど、研修の直後に会場内で紙に書いて出していってもらうことが多い。今どき筆記用具で書かせるなんてナンセンスだ、会場に端末がないなら席に戻ってからフォームに入力して送ってもらえばいいだろうという幻聴がどこからともなく聞こえてくるが…、まぁ今のところやっぱり紙が多い。

紙のほうが何かと取り回しがきくのと、研修終了直後に紙で取るかぎり提出率100%近くで回収できるが、一回会場の外に出してしまったら回収率低下は免れないだろうというのと、(私の経験上は)回収できたものも会場内の紙回収に比べると感想コメントが短く薄く適当に、あるいは空欄になりがちなのと。ほかに、研修後に他の参加者と話してから書くとバイアスがかかりやすくなるといった話もあったり、いろいろありまして。

それで、とにかく今は研修直後に紙で取ることが多いのだけど、そうすると、研修の後にクライアント担当者にレポートを提出する際、こちらでひと通り参加者のコメントを入力してデータ化することになる。当日アンケート原本を持ち帰り、原本は原本でPDF化して先方に送るのだけど、それと別に集計結果をグラフ化して、感想などのコメントは全部打ち込んで、それを踏まえて総括をまとめてレポートにする。

翌営業日には提出するようにしているから、受講人数によってはけっこう大変な作業になる。こんなことを書くと、なんて無駄なことを、もっと有効な時間な使い方があるだろうと白い目で見られそうだけど、私はけっこうこの入力時間を大事にしており、かなり創造的な時間だと思っている。

もちろん、ただ漫然と入力しているわけじゃない。その研修提供に際して分析→設計→開発→運営をやってきた人間として書かれた文字と向き合う。そうして書き写していると、読んでいるだけのときより書き手への心情理解が深く、その人の主観に身を寄せてコメントを吸収できる。発見も多く、洞察も深まり、改善策の発想も働きやすい。

なぜそんな違いが出るのか。読むより書く(入力する)ほうが、入力の手間がかかる分だけ一人ずつに割く時間が長くなっていることが一つあると思うんだけど、それ以外にもなんとなく理由がありそうである。書き写すという行為の中に、何かありそうなのである。

一人ひとりの言葉を書き写していると、その人の気持ちに寄っていくというのか、その人の視点からものを捉えようとしていくというのか、そういうところへおのずと導かれていく感じがある。そこから、この人にどう受け取られたのか、どう意味づけられたのかを解釈して、ではどう改善の余地があるのか…というのを一歩ひいて考えていく。

一つひとつレポートに打ち込みながら、受け取った反応、深まった洞察、思いついた改善策を隣りのテキストエディタに書き留めていく。このサイクルが自然とまわる。そうしてレポートとテキストエディタを行き来していくと、ひと通りの入力を終えた頃には、たくさんの自分の言葉でテキストエディタがうめつくされている。それを見直して、捨てたり掘り下げたりくっつけたりして構造化し、レポートを仕上げる。

入力業務を他へお願いすることも、できないわけじゃない。あるいは遠くないうちに、一般的なアンケートの取り方が変わり、デジタル化するかもしれない。書き手にしてみれば今やキーボード入力のほうがスピード落とさず自然に思いや考えを書けるという人も多いだろう。今提供している研修も全部が全部、紙ではない。こんなアナログなやり方をしている研修会社は今や一般的じゃないかもしれない。

ただ、こうして人のコメントを入力している時間、その人ひとりの気持ちに寄り添って、その人のものの見え方、感じ取り方に意識を集中するという時間は貴重である。アンケートの取り方やレポートの編集方法は変わっていくかもしれないが、入力の手間を省いたとき、それまで書き写す過程で得られていた視点、心持ち、洞察、発想が抜け落ちていかないようにしたい。

印刷技術がない頃は、親鸞が法然に許されて「選択本願念仏集」を書写したように、残したい教えを一文字一文字書き写していた。その過程を経て得られたのは、決して書き写した記録だけではなかっただろう。人の言葉を書き写すという行為の中に、そこに書かれた「人の言葉」が「自分の言葉」に乗り移ってくるような、「自分の心」が「人の心」に重なっていくような感覚を覚える。形を変えながらも、その尊さを残したい。

2015-05-06

晴れるだけで

今年のゴールデンウィークは、そもそも前・後半に分かれていた気がしないのだけど、5月入ってからのいわゆる「後半」は断続的に仕事が入り、ちょこちょこ会社に行っては3時間ほど集中して仕事する日々だった。なので明日からの本格的な仕事復帰ももっと自然にいけると思っていたのだけど、前夜の私は思いのほか緊張している。

今日の午前中、会社の自席で最低限の仕事を終えたところ、もっとやっておいたほうが明日以降楽なのではないかという思いが去来し、しばらくうーむと考えこんだ。しかし、やろうと思えばあれもこれもと進めておきたい仕事はたくさん出てきて、きりがない。それで結局、そのまま帰ってきた。

なので明日は朝からエンジン全開でやらねばなぁという緊張感が漂っている。まぁ日中に集中して仕事して残業しないで帰れる状態を保ちたいというレベルの話なので、そんなに切羽詰まっているわけでもない(と思いたい)のだけど…。

それでもここ数日は、映画を観に行ったり(全私が泣いた)、友人夫妻のお宅に遊びに行ったり(双子の赤ちゃんと初対面した)、実家に帰って父とあれこれおしゃべりしたり母のお墓参りに行ったり(近所のスーパー銭湯に行ったり)、ためこんだ本を読み進めたり(読破したの1冊だけだけど)して過ごした。派手さはないけれど(相当地味だが)、自分らしくちょこまかと楽しめた。

風の強い日もあったけど、休暇中はおおむね晴天続き。お天気に恵まれると、それだけで一つひとつのお出かけがきらきらと素晴らしい思い出になる。太陽の霊妙さを不思議に思いつつ、人間の単純さに気が抜ける。太陽も人間も、明日も変わらない。またがんばろう。というゴールデン雑記。

2015-05-02

直接つながれる時代の「客」

しばらく前に、本を読んでいて(1冊はデザイン寄り、1冊はプログラミング寄りの仕事本)、これはちょっと報告したほうがいいかもなと思う内容的な誤記(と思われる箇所)があったので、それぞれの出版社にサイトの問い合わせフォームから連絡した。 

1社目、送った後に返事はなかったが、まぁそういうものだろう(必要に応じてサイトの正誤表に追加したり、重版の際に修正したりするんだろう。あるいは誤記じゃなかったのかも)と思って、そのまま忘れた。

数日後、別の本に誤記を発見して2社目に報告。送った数時間以内にメールで編集者から連絡があって、へぇ返事くれるんだなぁと感心。確かに誤記だということで、正誤表に反映する旨がメールに書かれていた(あとお礼とか、今後ともよろしくとか)。

数時間おいてサイトを見に行ってみたけれど、まだ正誤表には反映されておらず。まぁいろいろ手続きがあったり、他に優先度の高い仕事があったりするのだろうと、こちらもそのまま忘れた。

それから1か月ほど経ったある日のこと、そういえばと思い出す機会があり、2社目のサイトを見に行ってみた。が、正誤表はいまだ反映されていなかった。早々に丁寧なメールをくれたまでは良かったが、それだけに残念という感も芽生える。

それで、そういえばあの頃、もう1冊誤記の報告をした本があったなと思い出し、1社目のサイトを見にいってみたら、正誤表に反映されていた。連絡はなかったけど、きちんと反映してくれていたんだな。

「そのまま忘れた」の後、本当に忘れたままだったら、今頃1社目には何の印象をもつこともなく、2社目には丁寧な会社だなぁという印象を抱いていただろう。それが正誤表掲載の確認をしたことによって、1社目は愛想はないけれどしっかりやることはやってくれる企業に映り、2社目は反応は良くてもやることやってくれないんだとなぁ…というぼんやりした印象に。さすがにこの一件で「企業」全体の印象なり、サポート体制の良し悪しを決める気も起きないのだが、それは私がたまたまふけこんでいるからかもしれない。

ともかく、自分の「確認」行為のあるなしによって、相手の印象が逆さまに転じてしまうという体験が味わい深かった。

人の印象って、ゆるふわもやんとしたもので、印象をもたれる側だけで作っているのではないのだよな。印象をもつ側の自分が何かをしなかったことで見逃した情報があり、それによって抱き損ねた印象というのも、うようよあるんだろう。そして、そこで何かをした人は、そこで得た情報もふまえて、それに対する自分の印象を作っている。そんなものの集積で、人が何かに対してもつ印象は多様に変化する。自分の印象は、あくまで「自分の」もの。いろんなことが作用しながらも、最終的に決めているのは自分の側なのだ。この「印象」がもつ、ゆるふわもやんとした特性を十分にわきまえてつきあいたいところ。

話ついでに、ここ数年思っていたことメモ。ネット普及以降、製品・サービスを提供する側(企業)と享受する側(客)が直接つながれるようになったと言われて久しいけれど、「企業」側が悪戦苦闘しているのと別に、「客」としての私たちのふるまいも実に前時代的なところにとどまっていて、私は直接企業側に連絡を入れるって立ち回り方を習得できていないなって思うことがままある。

昔は、ビルの中と外が厚い壁で遮断されていた感じがあって、企業の中の人は1消費者にとって遠い存在だった。意見するために直接連絡をとったら、即刻自分がクレーマーになっちゃう感じ。だったけど、そういう関係性ってこの先は、古い、ださい、前時代的ってことになっていくのかもなぁなんて気もしている。

壁は薄くなり、仲介が失せて企業と客が直接つながる関係に帰っていくなら、「客」としての自分のふるまいも現代に寄せていけたらいいんじゃないかって、ここ数年思っている。そこは、おばちゃんおばちゃん言っていないで、取り入れていけたらいいんじゃないかなと。なぜそう思うか考えてみると、それは新しい関係なんじゃなくて、本来あるべき関係に帰する感じがあるからだろう。

身近なふるまいでいうと、何か製品・サービスなりに思うことがあったとき、SNS上でこぼすより、その企業の問い合わせフォームなりに書いて中の人に届けることを自然と選択肢にあげられる人間になりたいなって思う。なんでもかんでも送ればいいってことじゃないし、送る送らないはきちんと吟味するとして。本当にささやかなことだけど、誤記を見つけて出版社のサイトを開いたのは、そんな思いが後押ししている。

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