「品」という欲
年を重ねるごと、訃報にふれる機会が増えていく。同世代で、突然に消えてしまう人もいる。あくまで、こちらから見れば突然、という話だけれど。
そのたび、残された人生をおまえはどう生きるのかと問われる。どれくらい残されているか、それも本当にわからないな、という感じがしてくる。
あれをしたい、これをしたいという欲に乏しく、無為自然が望むところだけど、自分の腹の底をさぐると一つ湧いて出てくるのが、品のある生き方をしたい、という欲だ。それがどんなものかと問われても、分解して説明できるわけじゃないのだが、私の腹の底には、こういうのが品があって、こういうのは品がないって答えがあるようだ。
しかし、これがなかなか難しい。できていない。振り返ってみて、はっとするのだ。自分の日常のふるまいは、自分が思っているより品に欠けるのだった。実際より、自分をいいように解釈してしまっているようなのだ。これは怖い。
それで今日はぼーっと「品」というものについて考えていた。暇ですな…。でも私にとってはけっこう大事なテーマである。
それで自分なりにたどり着いたのは、やはり品というのは、日々の一挙一動の集積で作られているってことだ。まぁ、普通か。
朝起きて夜眠りにつくまでの、街を歩いているとき、電車に乗っているとき、誰かとすれ違うとき、視線があったとき、人に意見を述べるとき、人の話を聴くとき、気持ちや考えを交換するとき、仕事しているとき、本を読んでいるとき、プールで泳いでいるとき、食べているとき、飲んでいるとき…。
人に、事に、物に、状況に対して、自分が何に意識を向けて、何を無視して、何を感じとって、何を考えて、どんな言葉に表すか、どうふるまうか。その一つひとつに品が表れ、その一つひとつの向き合い方如何で品はおおいに損なわれる。日々のことにどう向き合っているか、だなと。
だとしたら、品がすっかり身につくまで、ずっと気を張っていないといけない?って一瞬思ったんだけど、逆かもしれないなって思い直した。
品のある生き方をしたいと、腹の底で自然とそう思う自分がいるのなら、むしろ力まないことじゃないかと。力んで気張って日常の不自然に飲み込まれないで、力を抜けば自然に顔を出すはずの信念を、そのまま外に開放していられればいいのかもなと。
まぁそれも簡単じゃないのだろうけど、すこし力を抜いて考えられる。頑張るとか、意識して正すとかじゃないやり方で、ちょっと自分のたたずまいを見直したい。
5月間近の晴れた朝、ガラス張りの天井に青空を望みながら泳ぐプールは、めまいがするほど気持ちいい。きっとこういう時間が、こういう水の肌ざわりが、腹の底が欲する自然に直結している、そんな気がした。
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