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2015-04-28

脱文脈化された干ししいたけ

妙なたとえで恐縮だが…と、著者が話を切り出す。ハイパフォーマーの実践が「生のしいたけ」だとすると、教育研修プログラムは「干ししいたけ」のようなものである。これには、しいたけ嫌いの私も思わず、うまいなぁと感じいってしまった。

ハイパフォーマーの実践が、「生のしいたけ」だとすると、そこから抽出されたコンピテンシーや、それをもとにした教育研修プログラムは、「干ししいたけ」のようなものである。実践における生々しいノウハウや肉体化された技術は、そうそう他人に伝えられるものではない。それは、「生しいたけ」の状態である。それを流通させようと思うと、「干ししいたけ」の状態にすることになる。それは、コンピテンシーのリストであったり、ノウハウの羅列であったりする。そのようにすれば、テキストに書けるし、教育研修に盛り込むこともできる。 しかし、干ししいたけは、そのままでは食べられない。それは生しいたけとは別物なのである。干ししいたけをおいしく食べるためには、水で戻す必要がある。それと同じように、教育研修で得た知識を活用するには、自分の業務という文脈の中でその知識を位置付け直さなくてはならない。それは、決して簡単なことではない。そのため、教育研修で教えられた知識は、簡単には根付かないのである。それに、新しい文脈でうまく位置づけ直されたとしても、最初の生しいたけと、水で戻した干ししいたけとは、やはり別物である。違う文脈で理解された以上、もともとのノウハウとはもはや違う、新しいノウハウになっているはずである。 教育研修では、生しいたけにあたるノウハウや肉体化された技術を、干ししいたけの形で流通させることが多い。そうしないと、教育研修の形にならないからである。しかし、そのことに気づかずに、ハイパフォーマーから得た生のしいたけが、そのまま多くの人に移転できるように思うのは、おそらく勘違いなのである。むしろ、受講者に届けられた干ししいたけをいかにして上手に戻してもらうかを考えること、それこそが教育研修の本当の勘どころなのである。(*1)

私が研修の講師をお願いする実務スペシャリストは、生のしいたけを持っている。しかし講師は、干ししいたけを作る職人ではない。干ししいたけを水で戻す料理人でもない。どうしたら良質な干ししいたけができるか、どうしたら水で戻したときおいしく食べられるか。そこのところで、私は専門的に働きたい。法人向けのオーダーメイド研修には、それを専門高度に取り組める余地が十分にある。言い換えると、私ができていない未開拓領域があるように思う。

限られた時間・予算の中で、講師のもつ知識・スキル・経験・知見のどの部分を抽出して構成だて、何を捨ててどう時間配分するのが良いか。何は口頭で解説すべきで、それはどう受講者の頭に転送することが可能か。どの部分は脱文脈化した概念モデルとして端的に伝え、どの部分は講師が経験した文脈を削ぎ落とさずに事例として語るべきか。何は受講者が実際に経験することでしか獲得しえないのか。その経験を、どんな演習によって機会提供できるか。その人たちが没入し、現場で転用しやすいリアリティをどう作りこむか。どうやって現場での実践に引き継ぐのが効果的か、無理がないか。

こうしたことを一つひとつ、学習者の共通点や業務環境を分析して、経営戦略やそれにひもづく人材育成施策のねらいをブレイクダウンして、設計だてていく。これまでも、そこからのブレイクダウンは意識してきたし、干ししいたけのまま出したことはないと思うけど、まだまだできることが、いろいろあると思う。

っていうかそもそも、そんなところに力んで、干ししいたけにする意味ってあるわけ?って問いを持たれる方もあるかもしれない。やる気のある奴は、自分で生しいたけを持つだろ。干ししいたけ→水で戻すなんてこと、人にやってもらわないと学べない奴なんて放っておけと。それの巻き添えで研修を受けさせられるなんてまっぴらごめんだと。こっちは必要なことは自分で勉強するし、本業で忙しいんだよと。あるいは、干ししいたけなんて、自分が教えたい奴、自分の知見を広く伝播させたい奴、研修事業者やら教育事業者やらの自己満足じゃないのかと見る人もあるかもしれない。

確かに、生しいたけの人が巻き添えをくうのは迷惑な話かもしれない。私も研修が万能で、誰しもに有用なものなんて思っていない。誰にも、どんな場面にも有用な手段など、ないと思っている。でも一方で、だからといって、誰にも、どんな場面にも役立たない手段でもない、と思っているのだ。

万能なものを取り扱っている人なんて、あるいは万能な専門領域を有している人なんて、なかなかいない。一握りの優秀な人にすぎない。多くの人は万能ではないツールを取り扱い、それが有用に働きそうな所を見出して仕えているのではないか。

私も当然、万能じゃないツールを扱っている自覚がある。ある組織のあるシーンには適合しても、ある組織のあるシーンには役立たない、そういうツールを専門に扱っている。だから、何に有効で何に役立たないかを意識して取り扱うことは大事にしている。これには研修は有効に働かないだろう、これには人材育成施策じゃないだろう、そう思えば(言い方はいろいろだけど)そういう話もクライアントさんにする。

でも、人材育成施策が有用に働くだろうと自分なりに道筋がひけるものは、その精一杯を絵にして提案する。たとえば組織目標の達成に際して人の知識・スキル向上や態度変容が期待される場合、受講対象者に一定の共通点が認められて、目指すべき共通のゴールが掲げられる場合。提案が通れば、それを形にして納める。私が社会に向かってできることは、その限りでしかないから。

納める前、作る前の段階では、それが役に立つと信じて精一杯やりきるしかないのだ。凡人が何かを生業にするとは、そういうことだろうと思う。信じて、力を尽くすしかないのだ。だから、とにかくやるんである。

付け加えるなら、私たちは実際のところ、多くのことを干ししいたけ→水で戻すという学びの中で生きている。先人が体系化してくれた知識やノウハウの蓄積によって生かされている。

もし、あらゆる分野でそうした知識体系がなく、ゼロから自分で経験しては何かに気づき、その気づきを集めて、それとそれではないものを区別し、それぞれに名前をつけ、分類し、知識として体系化し、実生活に応用できるようにして…とやっていたら、ほとんどの人の一生は、毒キノコと食べられるキノコを見分けるだけで終わってしまう。

研修や勉強会に参加して「人の話を聴く」という学び方には、受け身という負のイメージを持つ人も少なくない。一方、「本を読んで学ぶ」という学び方には、主体的で好意的な印象をもたれる人が多いように思う。本を読んで知識を得たことを「独学した」と言う人も多い。

けれど実際には「本を読んで学ぶ」のも、本の著者や編集者、著者が引用した先人の教えによって、人から学んでいるのだ。ゼロから自分で経験を積んで集め体系化したものなど、人が一生の中で学ぶ中で、ごくわずかではないだろうか。

ステレオタイプな偏見を捨てて見直したとき、学び方のアプローチとして「人の文章を読むこと」と「人の話を聴くこと」の間に、そんなに明確な優劣があるだろうか。どちらも、人に体系だててもらった知識を享受するもので、人の話を聴いて学ぶことだって、私たちは生まれてこのかた日常的に繰り返してきた学び方だ。あまりに日常的すぎて、「読む」ほどには意識しづらい学び方ではあるけれども、これを逃れて生きている人などいないだろう。

文章を読むことで得やすい知識もあれば、人の話を聴くことで得やすい知識もある。文章を読むことで記憶にとどめやすい人もいれば、人の話を聴くことで記憶にとどめやすい人もいる。どちらかというと、これは学習法や学習者のやる気のレベル問題ではなく、学習内容や学習者適性のタイプ問題ではないか。少なくとも、そう捉えておいたほうが、下手に手段の偏見をもたず、適材適所で最適なアプローチを選びやすいのではないか。私はどんな手段も盲信したくはない。折衷主義である。

それに、本を読むだけでは成立しない学びもある。他者と関わる経験を通じてしか身につけられない学習、熟練者のフィードバックなしにはどれだけ身についているのか判断しえないスキルもある。その場合、やはり学習の場に他者が必要になる。「研修」や「勉強会」というラベルを貼らないで、その場に必要な道具立てというのを、素直にシンプルに考えていきたい。

*1: 堤 宇一、久保田 享、青山 征彦「はじめての教育効果測定 - 教育研修の質を高めるために」(日科技連出版社)

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