場面場面で都度都度
はじめてボウリング場に行ったのは家族とだった。まだフロントで紙のスコアシートをもらって、点数を自分たちで手計算していた頃のことだ。当時、私は小学生低学年くらいだったろうか。ボールが重たくて、一番軽いのを選んでも、片手でもつのに必死だった。薬指に力が入らなくて、どう転がしても全部左に流れていってしまう。ごろごろごろごろと時間かけてピンに向かうボールは、最後きまってガターに落ちた。それでもなんとなく、わいわいと楽しんだ気がする。
最初といえば何も知らない状態なので、シューズ選びから、そもそものボウリングのルール、ボールの選び方・持ち方・投げ方、スコアのつけ方と、手取り足取り父か母が教えてくれたのだろう。どちらが何を教えてくれたのか、その辺の具体的な記憶はまるで思い出せないのだけど。
そんな中で一つ、これはその時に母から教わったのだと、きちんと言えることがある。右隣りの人が同じタイミングでレーンに立ったら、そのときは右の人が投げ終わるまで待って番をゆずるのだと。
今思い出すに、私にとってその教えは、右隣りの人がどうというのを越えて、ボウリング場空間における自分のふるまい方というのか、大げさに抽象化して言えば「一定の広さをもった空間において、自分がどうふるまうことによって、その空間全体をうまくバランスさせるか」という視点を獲得した原体験のようにも感じられるのだった。だいぶ大げさか…。でも、小学生低学年が空間全体に目を向けて見渡してみるのに、ボウリング場というサイズはちょうど程よかった気がするのだ。
その母からの教えも、具体的にそう言われたシーンを憶えているわけではない。ただ、こういう場面場面での心遣いというのは、きまってそういう場面場面に私が直面しているときに、母が都度都度そばで軽く言葉を添えて教えてくれていたのだ、今思えば。初ボウリング場では、これがそれだった覚えがある。
中学にあがってすぐ、私が家の電話を「はい、林です」ととって電話対応を終えたときにも彼女は、これからは「林でございます」って出たらと軽く促した。そういうことを、彼女はこつこつ、こつこつと、私が大人になるまで積み重ねてきたのだ。振り返ってみると、私が今好んで取りいれている所作や言葉遣いや人への配慮は、もとをたどると母を起源とするものが大方という気さえする。
大人になって家を出てからも、20代、30代と歳を重ねていく中で、それまで自分は使ってこなかった「あなた」とか「かしら」とかいった母の大人言葉がふっと口をついて出てくることがあって、面白いものだなと思う。その言葉を使うのに自分が年相応な時期を迎えると、子どもの頃に聞いていた母の大人言葉が、ひょいと顔を出して私の口からこぼれるらしい。そして、それを機に自分の言葉として馴染み定着していくのだった。面白いものだなぁと思う。
今や自分と同じ世代の友人たちが、その母をしている。場面場面で都度都度、その日々のちょっかいが、きっと人間の大事なところを作っている。敬意をこめて、そう思う。
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