傾いた会釈
ある公的な場で時おり顔を合わせる年配の男性に挨拶するのだけど、どうも挨拶が返ってくる気配がなかった。
それを意識しだしての初回、挨拶しても反応はないが、自分に向けられていると思わなかったとか、とっさにうまく声が出なかったりとか(私はそういうことがあるので…)、そういうこともあるよなとやり過ごした。
二度目、私が挨拶した瞬間に目があった。なので、私がその人に向けて挨拶しているのを相手は確かにわかった、というのを私がわかったことも相手はわかったはず。という状態なのに、そこから目をそらされた。下を向いて、聞こえなかったかのようにふるまった。これで、これはわかっていて無視されているのだなとはっきりした。
そのときは、えぇ…と消沈した。世の中で最も過酷な反応は、無視でしょう。ただ、好き嫌いを抱かれるような関係ではない。単に目下の、特別関わりあいのない人間に挨拶を返すという習慣をもっていないというふうだった。でも私は私で、何がなんでもと食ってかかる気合いもない一方、目上の人を前にして、あちらがせぬならこちらも…と挨拶しないのも礼を失する気がして選べない。
それで再び顔を合わせたとき、少し声を張ってきちんと届くように挨拶をした。意識しだして三度目だ。そうしたら、また視線はそらされたけど、首をかしげるようにして傾きがちに会釈した(ように見えた)。声は聞こえなかったけれど、戸惑いつつも反応を返そうとしていた(ように見えた)。これは!と思った。そのとき私のなかに芽生えたのは、嬉しい!だった。
そうなのだ。ごくごく単純に、嬉しかったのだ。これには自分でも、そうなのかーと興味深く思った。挨拶したとき、反応を返してくれるって、すごく嬉しいことで、こうすべき!という礼儀とかマナーとか二の次なのだ。挨拶をして、挨拶が返ってきて、挨拶を交わしあえたら、単純に気持ちいいし、嬉しいのだ。傾いた会釈は、そのことを実感させてくれた。ものすごく単純で、原初的な感情を味わった。
その後に考えたこと。若者がどうこうって言うけどむしろおじさんおばさんのほうが礼儀がなっていないとか、いい大人なのに…とか言ってしまうのはたやすい。だけど、実際には歳を重ねれば重ねただけ習慣の年輪というのがあって、若者よりずっと変わることは難しい。挨拶にかぎらず、いろんなこと。誰でもいくらかは持っている「積み重ねてきてしまったこと」ってあって、それを変えるのは、自分でわかっていてもものすごく難しいのだ。
かくいう私も、いわば年配者側であって、とくに会社の席についているときとか、けっこう朝の挨拶をなおざりにしがちだし、日中に会社を出入りするときも、ひっそり出ていきがちで微妙である。私の仕事は社外とのやりとりに偏っていて、社内の人が私の所在がわからないと困るという事態がほとんどないので、私ごときの外出に周囲の集中を欠くのも気が引けて、ひっそり出かけてしまいがちなのだ。
閑話休題、その「積み重ねてきてしまったこと」みたいなのに立ち向かうのは、なかなか簡単じゃない。そういうとき、力になるのは、外から吹いてくる風だろう。自分ではなかなか変えがたいことを、外から期待されたり、静かに促されることによって、変化を起こす機会を得る。みずから変化を起こすことも大事だけど、人との関わりあいの中で、それこそ、ある公的な場で顔を合わせるくらいのすれ違いの仲で、それが程よい風として作用するのが人間関係の乙なところかなとも思うのだった。
挨拶ネタついでに書くと、私は偉い人にみられる挨拶の「はーい」返しに昔から違和感をもっている。過去の実体験としては、学校の先生が校門の前でやっていたり、まぁ社会に出てからもないことはない。こちらは「おはようございます」と言っているのに「はーい」と返してくる。それって「はーい、よくできました」の意味ですよね?でも、こっちは評価してほしくて挨拶してるんじゃないんですよ、気持ちよく朝の挨拶してるんですよ、そちらも気持ちよく挨拶返しましょうよ!と、礼儀に厳しい女子校時代によく思っていたな、胸のうちで…。
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