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2015-04-29

「品」という欲

年を重ねるごと、訃報にふれる機会が増えていく。同世代で、突然に消えてしまう人もいる。あくまで、こちらから見れば突然、という話だけれど。

そのたび、残された人生をおまえはどう生きるのかと問われる。どれくらい残されているか、それも本当にわからないな、という感じがしてくる。

あれをしたい、これをしたいという欲に乏しく、無為自然が望むところだけど、自分の腹の底をさぐると一つ湧いて出てくるのが、品のある生き方をしたい、という欲だ。それがどんなものかと問われても、分解して説明できるわけじゃないのだが、私の腹の底には、こういうのが品があって、こういうのは品がないって答えがあるようだ。

しかし、これがなかなか難しい。できていない。振り返ってみて、はっとするのだ。自分の日常のふるまいは、自分が思っているより品に欠けるのだった。実際より、自分をいいように解釈してしまっているようなのだ。これは怖い。

それで今日はぼーっと「品」というものについて考えていた。暇ですな…。でも私にとってはけっこう大事なテーマである。

それで自分なりにたどり着いたのは、やはり品というのは、日々の一挙一動の集積で作られているってことだ。まぁ、普通か。

朝起きて夜眠りにつくまでの、街を歩いているとき、電車に乗っているとき、誰かとすれ違うとき、視線があったとき、人に意見を述べるとき、人の話を聴くとき、気持ちや考えを交換するとき、仕事しているとき、本を読んでいるとき、プールで泳いでいるとき、食べているとき、飲んでいるとき…。

人に、事に、物に、状況に対して、自分が何に意識を向けて、何を無視して、何を感じとって、何を考えて、どんな言葉に表すか、どうふるまうか。その一つひとつに品が表れ、その一つひとつの向き合い方如何で品はおおいに損なわれる。日々のことにどう向き合っているか、だなと。

だとしたら、品がすっかり身につくまで、ずっと気を張っていないといけない?って一瞬思ったんだけど、逆かもしれないなって思い直した。

品のある生き方をしたいと、腹の底で自然とそう思う自分がいるのなら、むしろ力まないことじゃないかと。力んで気張って日常の不自然に飲み込まれないで、力を抜けば自然に顔を出すはずの信念を、そのまま外に開放していられればいいのかもなと。

まぁそれも簡単じゃないのだろうけど、すこし力を抜いて考えられる。頑張るとか、意識して正すとかじゃないやり方で、ちょっと自分のたたずまいを見直したい。

5月間近の晴れた朝、ガラス張りの天井に青空を望みながら泳ぐプールは、めまいがするほど気持ちいい。きっとこういう時間が、こういう水の肌ざわりが、腹の底が欲する自然に直結している、そんな気がした。

2015-04-28

脱文脈化された干ししいたけ

妙なたとえで恐縮だが…と、著者が話を切り出す。ハイパフォーマーの実践が「生のしいたけ」だとすると、教育研修プログラムは「干ししいたけ」のようなものである。これには、しいたけ嫌いの私も思わず、うまいなぁと感じいってしまった。

ハイパフォーマーの実践が、「生のしいたけ」だとすると、そこから抽出されたコンピテンシーや、それをもとにした教育研修プログラムは、「干ししいたけ」のようなものである。実践における生々しいノウハウや肉体化された技術は、そうそう他人に伝えられるものではない。それは、「生しいたけ」の状態である。それを流通させようと思うと、「干ししいたけ」の状態にすることになる。それは、コンピテンシーのリストであったり、ノウハウの羅列であったりする。そのようにすれば、テキストに書けるし、教育研修に盛り込むこともできる。 しかし、干ししいたけは、そのままでは食べられない。それは生しいたけとは別物なのである。干ししいたけをおいしく食べるためには、水で戻す必要がある。それと同じように、教育研修で得た知識を活用するには、自分の業務という文脈の中でその知識を位置付け直さなくてはならない。それは、決して簡単なことではない。そのため、教育研修で教えられた知識は、簡単には根付かないのである。それに、新しい文脈でうまく位置づけ直されたとしても、最初の生しいたけと、水で戻した干ししいたけとは、やはり別物である。違う文脈で理解された以上、もともとのノウハウとはもはや違う、新しいノウハウになっているはずである。 教育研修では、生しいたけにあたるノウハウや肉体化された技術を、干ししいたけの形で流通させることが多い。そうしないと、教育研修の形にならないからである。しかし、そのことに気づかずに、ハイパフォーマーから得た生のしいたけが、そのまま多くの人に移転できるように思うのは、おそらく勘違いなのである。むしろ、受講者に届けられた干ししいたけをいかにして上手に戻してもらうかを考えること、それこそが教育研修の本当の勘どころなのである。(*1)

私が研修の講師をお願いする実務スペシャリストは、生のしいたけを持っている。しかし講師は、干ししいたけを作る職人ではない。干ししいたけを水で戻す料理人でもない。どうしたら良質な干ししいたけができるか、どうしたら水で戻したときおいしく食べられるか。そこのところで、私は専門的に働きたい。法人向けのオーダーメイド研修には、それを専門高度に取り組める余地が十分にある。言い換えると、私ができていない未開拓領域があるように思う。

限られた時間・予算の中で、講師のもつ知識・スキル・経験・知見のどの部分を抽出して構成だて、何を捨ててどう時間配分するのが良いか。何は口頭で解説すべきで、それはどう受講者の頭に転送することが可能か。どの部分は脱文脈化した概念モデルとして端的に伝え、どの部分は講師が経験した文脈を削ぎ落とさずに事例として語るべきか。何は受講者が実際に経験することでしか獲得しえないのか。その経験を、どんな演習によって機会提供できるか。その人たちが没入し、現場で転用しやすいリアリティをどう作りこむか。どうやって現場での実践に引き継ぐのが効果的か、無理がないか。

こうしたことを一つひとつ、学習者の共通点や業務環境を分析して、経営戦略やそれにひもづく人材育成施策のねらいをブレイクダウンして、設計だてていく。これまでも、そこからのブレイクダウンは意識してきたし、干ししいたけのまま出したことはないと思うけど、まだまだできることが、いろいろあると思う。

っていうかそもそも、そんなところに力んで、干ししいたけにする意味ってあるわけ?って問いを持たれる方もあるかもしれない。やる気のある奴は、自分で生しいたけを持つだろ。干ししいたけ→水で戻すなんてこと、人にやってもらわないと学べない奴なんて放っておけと。それの巻き添えで研修を受けさせられるなんてまっぴらごめんだと。こっちは必要なことは自分で勉強するし、本業で忙しいんだよと。あるいは、干ししいたけなんて、自分が教えたい奴、自分の知見を広く伝播させたい奴、研修事業者やら教育事業者やらの自己満足じゃないのかと見る人もあるかもしれない。

確かに、生しいたけの人が巻き添えをくうのは迷惑な話かもしれない。私も研修が万能で、誰しもに有用なものなんて思っていない。誰にも、どんな場面にも有用な手段など、ないと思っている。でも一方で、だからといって、誰にも、どんな場面にも役立たない手段でもない、と思っているのだ。

万能なものを取り扱っている人なんて、あるいは万能な専門領域を有している人なんて、なかなかいない。一握りの優秀な人にすぎない。多くの人は万能ではないツールを取り扱い、それが有用に働きそうな所を見出して仕えているのではないか。

私も当然、万能じゃないツールを扱っている自覚がある。ある組織のあるシーンには適合しても、ある組織のあるシーンには役立たない、そういうツールを専門に扱っている。だから、何に有効で何に役立たないかを意識して取り扱うことは大事にしている。これには研修は有効に働かないだろう、これには人材育成施策じゃないだろう、そう思えば(言い方はいろいろだけど)そういう話もクライアントさんにする。

でも、人材育成施策が有用に働くだろうと自分なりに道筋がひけるものは、その精一杯を絵にして提案する。たとえば組織目標の達成に際して人の知識・スキル向上や態度変容が期待される場合、受講対象者に一定の共通点が認められて、目指すべき共通のゴールが掲げられる場合。提案が通れば、それを形にして納める。私が社会に向かってできることは、その限りでしかないから。

納める前、作る前の段階では、それが役に立つと信じて精一杯やりきるしかないのだ。凡人が何かを生業にするとは、そういうことだろうと思う。信じて、力を尽くすしかないのだ。だから、とにかくやるんである。

付け加えるなら、私たちは実際のところ、多くのことを干ししいたけ→水で戻すという学びの中で生きている。先人が体系化してくれた知識やノウハウの蓄積によって生かされている。

もし、あらゆる分野でそうした知識体系がなく、ゼロから自分で経験しては何かに気づき、その気づきを集めて、それとそれではないものを区別し、それぞれに名前をつけ、分類し、知識として体系化し、実生活に応用できるようにして…とやっていたら、ほとんどの人の一生は、毒キノコと食べられるキノコを見分けるだけで終わってしまう。

研修や勉強会に参加して「人の話を聴く」という学び方には、受け身という負のイメージを持つ人も少なくない。一方、「本を読んで学ぶ」という学び方には、主体的で好意的な印象をもたれる人が多いように思う。本を読んで知識を得たことを「独学した」と言う人も多い。

けれど実際には「本を読んで学ぶ」のも、本の著者や編集者、著者が引用した先人の教えによって、人から学んでいるのだ。ゼロから自分で経験を積んで集め体系化したものなど、人が一生の中で学ぶ中で、ごくわずかではないだろうか。

ステレオタイプな偏見を捨てて見直したとき、学び方のアプローチとして「人の文章を読むこと」と「人の話を聴くこと」の間に、そんなに明確な優劣があるだろうか。どちらも、人に体系だててもらった知識を享受するもので、人の話を聴いて学ぶことだって、私たちは生まれてこのかた日常的に繰り返してきた学び方だ。あまりに日常的すぎて、「読む」ほどには意識しづらい学び方ではあるけれども、これを逃れて生きている人などいないだろう。

文章を読むことで得やすい知識もあれば、人の話を聴くことで得やすい知識もある。文章を読むことで記憶にとどめやすい人もいれば、人の話を聴くことで記憶にとどめやすい人もいる。どちらかというと、これは学習法や学習者のやる気のレベル問題ではなく、学習内容や学習者適性のタイプ問題ではないか。少なくとも、そう捉えておいたほうが、下手に手段の偏見をもたず、適材適所で最適なアプローチを選びやすいのではないか。私はどんな手段も盲信したくはない。折衷主義である。

それに、本を読むだけでは成立しない学びもある。他者と関わる経験を通じてしか身につけられない学習、熟練者のフィードバックなしにはどれだけ身についているのか判断しえないスキルもある。その場合、やはり学習の場に他者が必要になる。「研修」や「勉強会」というラベルを貼らないで、その場に必要な道具立てというのを、素直にシンプルに考えていきたい。

*1: 堤 宇一、久保田 享、青山 征彦「はじめての教育効果測定 - 教育研修の質を高めるために」(日科技連出版社)

2015-04-27

残りの靴人生

まさか五十肩!?と思われた症状はみるみる回復に向かい、首から右肩にかけての痛みは寝違えただけだったようだ。まだまだ、ぴちぴち。と思っていたら、今度は靴の影響で首と両肩がメキメキのバキバキに…。やっぱり、ぴちぴちってことはないですよね、知ってます。

3年半前に首の激痛におそわれて以来、結婚祝いのパーティーでもないかぎりヒール付きの靴は履かずにきた。しかし、この冬ずっと履いてきたぺたんこのブーツもそろそろ春だし止めなくてはと思って、今朝ちょっとだけヒールのある靴を履いて出たら、たかだか数十分の出勤途中で肩がバキバキ、頭ガンガンと痛んで途中で崩れ落ちそうになってしまった(平らの靴もあったのだけど、週末履いてみたらどれも足に合わなくて、つま先のほうの骨が痛んだので止めたのだ)。

なんとかプールにたどり着き、はだしになってクロールして肩をまわしてお風呂入って、いくらか回復。が、その後また靴を履いて会社に向かうと、再び肩がバキバキ、頭ガンガンに。もうこれはダメだと思い、朝の会議を終えるや、会社を出てタクシーでデパートへ。週末に一応、この靴はいけるのでは?と目星をつけていたのが新宿の高島屋にあったのだ。

10時開店とほぼ同時に到着し、店員さん方のものすごい丁重な挨拶に恐縮しながら靴のコーナーへと急ぐ(急げないけど)。そして目星をつけていた靴の24cmを出してもらって履いてみる。ヒールはないし、素材が柔らかいので骨があたる感じもない。が、ついている飾りが内側にくいこんでいて物のあたる感じがだいぶ気になるレベル。惜しい…。これもダメかぁと肩を落とす。

しかし、そこは新宿高島屋。合うサイズを出してくれた店員さんに、抱える問題を手短かに話すと、店員さん、デザインの好みはあるかと追加の確認。私が「できるだけシンプルなもので、仕事用に使いたい」と話すと、店員さん「今履いていらっしゃるような」と確認、私「そうですね」。

そこから店員さん、私にそこで座って待つように言って、広い靴のコーナーへ消えたかと思うと、数分でメーカー問わずあちらこちらから4点ほどの商品を見繕って帰ってきてくれた。体がメキメキで、靴を探してうろつくのも辛い状況だったので、この対応が身にしみた。

で、そこから実際に履いてみて、履き心地とデザインで絞り込み、ぱぱっと決めてお会計。もちろん買ったばかりの靴に売り場で履き替えさせてもらい、店員さんには「ほんっとうに助かりました!」と気合いをいれてお礼を言って会社に帰ってきた。高島屋、最高だ。これぞニッポンのデパート!と感謝・感激。

今日一日で、このさき一生ヒールのある靴は履けまい、と確信した。なぜ以前、自分がこれを履けていたのか理解できないくらいだ。ここ3年半履いていなかったことで、ヒール用の筋肉が退化していることもあるのだろうけど、問題の核心はやっぱり足の筋肉ではなく首のほうだろう。もはや消去法でしか靴選びはできない身体になってしまったけれど、とにかく楽に気持ちよく歩ける靴とともに、残りの人生を生きていこう。

というわけで、足が24cmで、黒い仕事用のヒール靴が欲しい方、新品同様の結構いいやつ、あげますので、見てみたかったら声かけてください。会社においてあるので、同僚の方はすぐ試着できます。

2015-04-23

場面場面で都度都度

はじめてボウリング場に行ったのは家族とだった。まだフロントで紙のスコアシートをもらって、点数を自分たちで手計算していた頃のことだ。当時、私は小学生低学年くらいだったろうか。ボールが重たくて、一番軽いのを選んでも、片手でもつのに必死だった。薬指に力が入らなくて、どう転がしても全部左に流れていってしまう。ごろごろごろごろと時間かけてピンに向かうボールは、最後きまってガターに落ちた。それでもなんとなく、わいわいと楽しんだ気がする。

最初といえば何も知らない状態なので、シューズ選びから、そもそものボウリングのルール、ボールの選び方・持ち方・投げ方、スコアのつけ方と、手取り足取り父か母が教えてくれたのだろう。どちらが何を教えてくれたのか、その辺の具体的な記憶はまるで思い出せないのだけど。

そんな中で一つ、これはその時に母から教わったのだと、きちんと言えることがある。右隣りの人が同じタイミングでレーンに立ったら、そのときは右の人が投げ終わるまで待って番をゆずるのだと。

今思い出すに、私にとってその教えは、右隣りの人がどうというのを越えて、ボウリング場空間における自分のふるまい方というのか、大げさに抽象化して言えば「一定の広さをもった空間において、自分がどうふるまうことによって、その空間全体をうまくバランスさせるか」という視点を獲得した原体験のようにも感じられるのだった。だいぶ大げさか…。でも、小学生低学年が空間全体に目を向けて見渡してみるのに、ボウリング場というサイズはちょうど程よかった気がするのだ。

その母からの教えも、具体的にそう言われたシーンを憶えているわけではない。ただ、こういう場面場面での心遣いというのは、きまってそういう場面場面に私が直面しているときに、母が都度都度そばで軽く言葉を添えて教えてくれていたのだ、今思えば。初ボウリング場では、これがそれだった覚えがある。

中学にあがってすぐ、私が家の電話を「はい、林です」ととって電話対応を終えたときにも彼女は、これからは「林でございます」って出たらと軽く促した。そういうことを、彼女はこつこつ、こつこつと、私が大人になるまで積み重ねてきたのだ。振り返ってみると、私が今好んで取りいれている所作や言葉遣いや人への配慮は、もとをたどると母を起源とするものが大方という気さえする。

大人になって家を出てからも、20代、30代と歳を重ねていく中で、それまで自分は使ってこなかった「あなた」とか「かしら」とかいった母の大人言葉がふっと口をついて出てくることがあって、面白いものだなと思う。その言葉を使うのに自分が年相応な時期を迎えると、子どもの頃に聞いていた母の大人言葉が、ひょいと顔を出して私の口からこぼれるらしい。そして、それを機に自分の言葉として馴染み定着していくのだった。面白いものだなぁと思う。

今や自分と同じ世代の友人たちが、その母をしている。場面場面で都度都度、その日々のちょっかいが、きっと人間の大事なところを作っている。敬意をこめて、そう思う。

2015-04-15

傾いた会釈

ある公的な場で時おり顔を合わせる年配の男性に挨拶するのだけど、どうも挨拶が返ってくる気配がなかった。

それを意識しだしての初回、挨拶しても反応はないが、自分に向けられていると思わなかったとか、とっさにうまく声が出なかったりとか(私はそういうことがあるので…)、そういうこともあるよなとやり過ごした。

二度目、私が挨拶した瞬間に目があった。なので、私がその人に向けて挨拶しているのを相手は確かにわかった、というのを私がわかったことも相手はわかったはず。という状態なのに、そこから目をそらされた。下を向いて、聞こえなかったかのようにふるまった。これで、これはわかっていて無視されているのだなとはっきりした。

そのときは、えぇ…と消沈した。世の中で最も過酷な反応は、無視でしょう。ただ、好き嫌いを抱かれるような関係ではない。単に目下の、特別関わりあいのない人間に挨拶を返すという習慣をもっていないというふうだった。でも私は私で、何がなんでもと食ってかかる気合いもない一方、目上の人を前にして、あちらがせぬならこちらも…と挨拶しないのも礼を失する気がして選べない。

それで再び顔を合わせたとき、少し声を張ってきちんと届くように挨拶をした。意識しだして三度目だ。そうしたら、また視線はそらされたけど、首をかしげるようにして傾きがちに会釈した(ように見えた)。声は聞こえなかったけれど、戸惑いつつも反応を返そうとしていた(ように見えた)。これは!と思った。そのとき私のなかに芽生えたのは、嬉しい!だった。

そうなのだ。ごくごく単純に、嬉しかったのだ。これには自分でも、そうなのかーと興味深く思った。挨拶したとき、反応を返してくれるって、すごく嬉しいことで、こうすべき!という礼儀とかマナーとか二の次なのだ。挨拶をして、挨拶が返ってきて、挨拶を交わしあえたら、単純に気持ちいいし、嬉しいのだ。傾いた会釈は、そのことを実感させてくれた。ものすごく単純で、原初的な感情を味わった。

その後に考えたこと。若者がどうこうって言うけどむしろおじさんおばさんのほうが礼儀がなっていないとか、いい大人なのに…とか言ってしまうのはたやすい。だけど、実際には歳を重ねれば重ねただけ習慣の年輪というのがあって、若者よりずっと変わることは難しい。挨拶にかぎらず、いろんなこと。誰でもいくらかは持っている「積み重ねてきてしまったこと」ってあって、それを変えるのは、自分でわかっていてもものすごく難しいのだ。

かくいう私も、いわば年配者側であって、とくに会社の席についているときとか、けっこう朝の挨拶をなおざりにしがちだし、日中に会社を出入りするときも、ひっそり出ていきがちで微妙である。私の仕事は社外とのやりとりに偏っていて、社内の人が私の所在がわからないと困るという事態がほとんどないので、私ごときの外出に周囲の集中を欠くのも気が引けて、ひっそり出かけてしまいがちなのだ。

閑話休題、その「積み重ねてきてしまったこと」みたいなのに立ち向かうのは、なかなか簡単じゃない。そういうとき、力になるのは、外から吹いてくる風だろう。自分ではなかなか変えがたいことを、外から期待されたり、静かに促されることによって、変化を起こす機会を得る。みずから変化を起こすことも大事だけど、人との関わりあいの中で、それこそ、ある公的な場で顔を合わせるくらいのすれ違いの仲で、それが程よい風として作用するのが人間関係の乙なところかなとも思うのだった。

挨拶ネタついでに書くと、私は偉い人にみられる挨拶の「はーい」返しに昔から違和感をもっている。過去の実体験としては、学校の先生が校門の前でやっていたり、まぁ社会に出てからもないことはない。こちらは「おはようございます」と言っているのに「はーい」と返してくる。それって「はーい、よくできました」の意味ですよね?でも、こっちは評価してほしくて挨拶してるんじゃないんですよ、気持ちよく朝の挨拶してるんですよ、そちらも気持ちよく挨拶返しましょうよ!と、礼儀に厳しい女子校時代によく思っていたな、胸のうちで…。

勉強会もいいけど発表会も

これまた仕事画面の脇の付箋アプリに書きとめた走り書きですが…(つまり無責任な思いつきメモ)。実務者の集うイベントには、勉強会だけじゃなくて、実績発表会みたいなのがあったらいいのではないかと。「いい感じでスマホアプリ作れるとこ教えて!」とか時おり言われるんだけど、私いろんな方とSNS上でつながらせてもらいながら、どこの誰がどの分野でいい仕事するとかって実はぜんぜん知らないのだった。

紹介しろというのはつまり、広報力じゃなくて実力あるところ、有名なんじゃなくて仕事できるところを求められているわけだけど、そこの按配というのを全然わかっていない。実際は一緒に仕事してみないとわからないところも多分にあるわけだけど。そう、多分にある!でも、それはそれとしても。

小さな実績発表会がぽろぽろあって、「これを作りました」だけじゃなく、「これをこういうところに苦労しながらこんな技術を使って作って、こういう技術力は相当あります」みたいな仕事ぶり、実力のほどが垣間みられる発表会的集いがもっとあったら、お客さんと引き合わせたりできるかもなぁと思ったりする。そういう場で、だいたいこういう相場感で、このくらいの予算・期間規模のプロジェクトを好んで受けるとかの情報ももらっておければ、だいぶ引き合わせやすくなる。

話を掘り下げる質問のうまい人が一人いれば、発表する人は訥々としゃべるので全然構わない。話し方がうまい人、ビッグな仕事を語れる人じゃなくて、「お客さんの要件と期待に応えて」「いいもの作れる」人の話を具体的に聴ける場があるといいね、なんて思う今日この頃。

みずから場を起こすのは今の業務的にもなかなか体力不足なので、とりあえずおしゃべりの機会に、すこし意識的にそういう話も尋ねていけたらなと思った(飲みに行くと具体的な仕事の話を全然していない気が…)。でも飲むと忘れちゃうかもしれないので、そんな折にはみずからぜひお話しください。私、自慢とか思ったりしないので無害です。教えてください。

ってところが気になることに思いをはせると、みずから言い出すのはいやらしい自慢に聞こえてしまうって懸念が先に立って発信が少ない面があるかもしれない。あと、本人にとっては日々の業務なので、全うにやっている人ほど特別なことはしていないという認識があって言葉にしていない安定品質ってのが隠されている気もする。でも仕事をお願いする側からすると、それこそがすごい大事だったりして。

まず1社の中でやるのもいいんですよね、会社員の場合。すでにやっているところもあると思うんだけど、社内だと社外秘のことも隠さないでしゃべれる分、気も楽だし準備も楽。場所もその辺の会議室でできるし。回を重ねてそういう場がこなれてきたときに、外部からゲストを呼んだりして広げていくのだと、スモールスタートで始めやすいかもしれない。と、とりあえずアイディアだけ書き散らしておく。

私が知らないだけで、すでに同業者の間では日常茶飯事なのかもしれないんだけど…、そういえば研修を提供していて、クライアントの事業会社に、いいWeb制作会社の見つけ方を教えてほしいと言われたのは一度や二度ではないし。そう考えると、もう少し広い範囲で、実力のほどが交わされる仕組みやら仕掛けやらは充実して良いんだろうとやはり思う。

なかなか実力が垣間みられる「自分の仕事」「わが社の仕事」をまとめたり発表したりする機会って、作らずに過ごしてしまう。わが身を振り返っても。cremaさんのこの間のインタビュー記事の、ポートフォリオ作るべし!にも、ですよねぇ…と思ったばかり。イベントを設けると、期限ができるからいいかもしれない。部屋の汚い人が、ホームパーティーを企画することによって部屋をきれいにできるみたいなものか。違うか。

2015-04-12

旅先の適当な隣人

日曜の朝、近所のコーヒー屋で本を読んでいたら、Oh, Japanese Kindle!! と声をかけられた。4人の小学生くらいの男の子を連れた6人家族のお母さん。たまたまこのご家族が私の席の隣に座ったのだ。欧米人はやはりたいそう大人っぽく見えるが、もしかするとあのお母さん、私と同じ年の頃だったのかもしれない。

明らかに家族で海外旅行に来たという感じだったので、何かの足しになればと思い、Kindleを手渡して触ってもらった。縦に左に流れる文字を体験してもらい、カバンの中にあった紙の文庫本も一緒に見せて、日本語はこういうふうに文字が流れていくのだと説明したら(というか身振り手振りで分からせた)、へぇ、そうなんだーとお父さんも子供たちも関心を示してくれていた、ふう。

文字は何個あるのだと聞かれたので、とっさになぜか、ひらがなとカタカナが52個ずつで、漢字がたくさんと答えていたが、全然違った。なんだ、この数字…。どっから出てきたんだろう。

ひらがなとカタカナは文字単体で数えたら46個ずつ、漢字は常用漢字で2136個だった。ほんと、旅先のコーヒー屋で隣り合わせた現地人の言ったことは間に受けちゃいけないな、と思った…。すみません。

最近は体感的に、海外からの観光客がすごい増えた感じがする。数年前からアジアの旅行客が増えたなぁとは思っていたけど(渋谷もそうだけど、新宿の伊勢丹とかすごい)、最近はなんだか欧米圏の旅行客によく会う。円安だからか。

ここ一週間ほどでも、3回声をかけられた。1件は今回のイギリス人ぽいご家族でKindle話。1件はフランス人ぽいカップルで皇居の東御苑に行きたいというので交通案内。これももう少しで新宿御苑を案内するところだった。危なかった。もう1件も欧米圏の5-6人の団体で、目の前のしゃぶしゃぶ屋を探していたので道案内。これも、ビルはあっていたんだけど、案内する階を間違えていたことが後でわかって一人反省会。英語は仕方ないにしても、質問の答えそのものは間違えないで案内できるようになりたい…。

たぶん私の生息範囲は、これからもぐんぐん外国人率が高くなっていくだろう。5年前、10年前を思い返すと、この都市にして、あの頃の日本人率が妙に高すぎたんだな、とも感じられる今日この頃だ。英語も、なぁ。話せるにこしたことはないですなぁ…。と、そのコーヒー屋にて。しばし書いていなかったのでリハビリ的にスマホ走り書き。

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