記憶と記録
過去にアクセスする方法として、記憶と記録ってあるじゃないですか。マシンは記録を残して、あるとき関連する記録を引っ張りだす。人間は記憶を残して、あるとき関連する記憶を引っ張りだす。なんとなく、そんなイメージをもって生きてゆく。
そうしてゆくうちに、「記憶には長期記憶と短期記憶、作業記憶とあってだな」みたいな知識を授かる機会に巡りあう。短期記憶を通過して長期記憶にそれをしまっておき、必要があったら作業記憶(作業メモリ)に持ってきて処理をする。そんな知識を得て、なるほどと理解する。
そうすると、もともとあったイメージが知識の裏づけを得て具体的な像をもち、ものすごい強固な信念に育つ。ひとたび人間の記憶を、コンピューターの記録と同じような構造で理解する情報処理モデルを知ってしまうと、なるほどなるほどと納得してすっきりしちゃって、その知識の芝生に腰おろして落ち着いちゃって、それが全部になってしまう。そういう無意識の罠に、昨日はっとさせられた。
しかも記憶(きおく)と記録(きろく)って、ひらがなにすると同じ三文字だし、「き」で始まって「く」で終わるし、真ん中も母音にしたら「お」で一緒だし、漢字で書いても「記」まで一緒って5割一緒だし。聞こえ方や見た目が似ていると、無意識のうちに構造のありようも似ている気にさせられてしまう。無意識は怖いというか、私って単純というか。
でも、ここで今一度、人間の記憶というのを考えてみると、今まで見てきた境界がいろいろ曖昧になって見えてくる。いつでも自在に思い出せるわけではなくて「今、何かを見て」からしかアクセスできない記憶が、どこにどう保存されているというのかとか。それを想起したときに起こった心のなかのざわざわ感は今の感情100%なのか、いくらかは記憶の中にあったざわざわ感なのかとか。同じ記憶の中の1シーンに居合わせた私とAさんの記憶の「まったく別物」感っていったい…とか。同じ過去の1シーンを残す私の記憶とデジカメの記録のはざまにある異次元っていったい…とか。
記憶というものの曖昧さに焦点をあわせてぼーっと追っていくと(怪しいほうへ)、記録と同じような構造では捉えようのない別の見方がいろいろありそうな気がしてくる(正気に戻る)。これまで捉えてきた見方の前提になっていた知識が「ある一つの知識」に階層を下げ、別の見方の余地が生まれてくる。これまで枠組みしていた境界がほどけてゆく感じがする。
知識というのは人間が体系化して作っているものだから、基本的に人間の何らかの企てに基づいている。いわば人間の策略ありき。人間の策略がない見方を自然というなら、何らかの知識体系で物事を捉えているとは、何らかの不自然が埋め込まれた状態と言えて、いつだって私たちはそこから見える部分をそこから見る構造で捉えている、そこにはいつも取り逃しがあるとも言えまいか(怪しいほうへ)。
理解できればすっきりする。だから、それらしき何かの知識を得ると、すっかりそれを理解した気になってしまう。そこに働く絶対視、全体と部分の同一視みたいな無意識から極力逃れて、混沌とした自然を残して、自分の認識とその限界をできるだけ適切に把握しておきたいと思う(比較的まともに戻る)。
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> 記憶というものの曖昧さ
これって,体温というか,概念としては同じでも時間軸で変わる“何か”のことかなーと思います。
ちょうど昨日お話した“動的平衡”にも通ずるような気がしていて。
投稿: 馮富久 | 2015-03-20 08:04
記憶、過去、時間とたどっていって、時間というもののわからなさに通じていきますよね。それによって変わる何か。んー、動的平衡も、ご紹介くださった対談本で触れてみたいと思います。難しそうだけど…(笑)。
投稿: hysmrk | 2015-03-20 09:31