(泳ぐことの)価値のありか
先月のこと、毎朝通っているフィットネスクラブにテレビ局の取材が入っていて、私もプールの中から数分のインタビューに応じた。ちらっと見えた番組名&健康ネタという観点から、勝手に朝10時からの健全無害な情報番組をイメージしていたのだけど、プールからあがってきてフロントで改めて番組名を確認しネットで調べてみたら、深夜0時過ぎからのエグめなバラエティ番組とわかった。放送日までは何の素材に使われるのかと戦々恐々としていたが、結局ほぼ映らずに済み安堵。取材に応じるときは何の番組かくらい確認しようという学びを得て一件落着した。
それはさておき、プールで訊かれたのは、つまるところ「なんでこんな朝っぱらから毎日泳いでるの?」という質問だった。「なぜか毎朝泳いでいるアラフォー女性」として取材を受けたのだ。
いや、なぜって、健康のためとかも言えなくはないんですけど、正直なところ、とにかく気持ちいいからなんです。水の中って気持ちよくて、水の中を泳いでいると本当に気持ちいいなぁと、泳いでも泳いでも毎日気持ちいいなぁと思うので、それで泳ぎ続けている感じでして…。
こうやって文字に起こしてみるとアラフォーにしては稚拙極まりない感が漂うけれども、とにかく「そんな答えになっちゃいますけど、それでもよければ」と言うと、先方が「いいんです、いいんです、それでいいんです」と言うので取材に応じた。そして放送されなかった…(笑)。まぁ私があの番組のディレクターでも、私の素材は撮るだけ撮っておいて使わない気がするが…。
それもさておいて、ここでの本題は、なぜ私は泳ぐのか、なぜこのアラフォー女性は泳ぐのか、なぜ人は泳ぐのかである。
何かしている人に対して、それをしていない人が「なぜそれをするのか」と理由を問うとき、問われた側に期待されているのは、その有用性はどこにあるのかを答えることだろうと考える。できるだけ簡潔明瞭に「○○のためにやっているんです」と目的を伝える、それを望まれているのだと、その場の自分の役割を位置づける。
だからこそ私は「健康のためとかも言えなくはないんですけど」と前置きしたのだろう。ご期待は、その活動の有用性を明示することにあると思うのですが、正直に第一の、最上位の、真正な理由を答えようとしますと、どうもそこに理由がある気がしないんです。じゃあどこにあるのかと言われても、それをうまいこと言葉に表せない。それでも、どうにか伝えられるかぎりを尽くそうとしたら、出てきたのが「とにかく水の中は気持ちいい」だった…という自分なりの振り返り。
哲学者のマーク・ローランズは、走ることの価値について書いた「哲学者が走る」の中で、こんな前書きを記している。この言葉に乗っからせてもらうなら、私は何かのために泳いでいるのではなくて(いや、それもありつつ)、泳ぐことそれ自体の価値に浸っていると言えそうだ。
わたしたちは、あることを他の何かのためにすることで人生を送っており、その他の何かもまた、別の何かのためにする。際限なく他の何かのために何かをする人生70年、いや80年、何か価値のあるものを追い求めて、ほとんど得られるためしのない何十年。何か他のことのためにだけではなく、それ自体の故に重要であるものに触れれば、このような追い求めを少なくともしばらくは止めることになるだろう。少なくともちょっとの間、価値を追い求めるのではなく、価値の中に浸るのである。*
私は特段、別の何かのために何かすることを悲観してはいないし、何かの目的を定めてそのために仕事する時間に有意義さを感じている面もたぶんにある。けれど、そうした構造をもつ活動だけで、生きる時間のすべてを埋めつくしていると、「それがもたらす他のものの故に価値がある」というものの見方・接触の仕方しか、いつのまにかできなくなってしまう。「それ自体に価値がある」という価値のあり方を、認識したり、理解したりすることすらできなくなってしまう。それはどうも貧しい感じがする。視野の狭さというか、奥行きのなさというか。
泳ぐことには、健康、ダイエット、リラクゼーションなど、それがもたらす有用性の機能も確かに認められる。それはそれで、私も十二分に価値を味わっている。けれど、それがすべてではない。人はどうも、一つにしぼろうとか、最上位はどれかを決めたがる感があるが、価値のありかは一つと限らないし、順番も曖昧なものだ。有用性だけにあるのじゃないし、それが最も上位にあるとも限らない。
有用性の価値が語られやすいのは、それが言語化して共有しやすいからではないか。それに内在する価値が語られにくいのは、それが言語化しづらく、ゆえに本人の中でも認識しづらく、認識できても人と共有しづらいからではないか。でも、言い表しやすいものが、最も真正な価値をもつわけじゃない。そこんところを、たとえ人にうまく伝えることができなかったとしても、自分の中では見誤らずにいたい。それに内在する価値の存在に気づけること、その尊さを理解すること、それに直接触れている時間を大事にして生きていきたい。
不思議なことに、泳いでいる間は、その価値に直接触れている感じがするのだけど、泳ぐのをやめてプールから上がり、水の中を離れると、その価値はどうにもつかみどころがなくなってしまう。あったことに覚えはあるのだけど、それがどんな価値だったのか、具体的に掌握できている感じは持続しない。とても曖昧で、しかしながら存在を無しにはできないもの。日常的に触れ続けていないと、きっと損なわれてしまうんだろう。そんな危うさを感じる。
一方で、泳ぐことに内在する価値に触れる時間を持ち続けていれば、自分が体験していない他の人の活動に内在する価値にも、想像力をもって関わっていけるのではないかという期待がある。その存在に気づき、その尊さを理解し、その人の活動を大事にできる気がするのだ。そのためにも、末永く泳ぎ続けられたらいい。という、これは有用性の価値ですな。
*:マーク・ローランズ「哲学者が走る」(白水社)
最近のコメント