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2015-01-09

宛てもなく「声」の話

とあるビジネス書の翻訳本を読んでいて、あることに気づいた。脳内で再生されている著者の声が、子どもの頃にみていた日曜洋画劇場の吹き替えの声だということに(著者が男性なので、男性の主人公の声だ)。ただでさえ、テンション高めの分厚い本で読むのにエネルギーを使っているというのに、この声のおかげで著者が終始「テンションMAX!」のような感じになってしまっているが、これは著者のせいではなく私のせいだったのか…。

しかしながら、それに気づいたからといって私に自分の脳内で流れる声をコントロールする力はなく、声質はそのままだ。著者は、相変わらずものすごいハイテンションだ。これはもう仕方ない。最後までこれでいくしかないのだ。

そう考えると、お気に入りの漫画が、映画やテレビドラマとして実写化されたときに感じる「なんかイメージと違う…」という不快感は、「絵」が違うというのもあろうが、それと同等かそれ以上に「声」が自分の脳内で流れていたのと違う、という違和感もありそうである。

しかし、それがどんな声だったら合っていると思うのか、自分の脳内に具体的なこれという声を再生できるわけでもない。たぶん、自分の中にはもっていないのだろう。その声は、現実世界のどこかに在るんだろうか。これだ!という声を誰かが発して、これだ!と思うことがあるんだろうか。それとも抽象と具象の間の、自分の想像世界にしかないものなのだろうかな。謎だなぁ。

私は「声」というものにさほど意識を向けてこず、いい大人になってから、ある時はたと気づいたのだった。人は、自分の自覚している以上に「声」というものに影響を受けているものなのだなと。目に見えないから、それをそれと認知しづらいが、「声」というのは思いのほか、人が印象をもつのに多大な影響を与えているのだった。

とある朝のラジオ番組の爽快感が、話の内容でもかかる音楽でもなく、パーソナリティの声によって生み出されていたり。とある話の説得力が、話の論理構造というより、低音で響く話し手の声によってもたらされていたり。歌詞がいい、メロディがいいと思って聴いていた音楽の、実はアーティストの寂び声にやられているのだったり。

人類学者の川田順造さんの本の中にある、

声は人間の生理の、深くやわらかな部分に直結しているらしい。*

には、ちょっと感じ入ってしまった。

それにしても、自分の声を録音して聞いた時のあの衝撃というのは、ちょっとどうにもならない。聞き慣れるか、聞かないか、録音しないかしかないのだろうけど、あれの初体験は徐々に低年齢化しているのではなかろうか。私は小学生のときにカセットテープで録音したのを聞いて度肝を抜かれたけれど、今の子は親が撮影してくれた動画とかで、もっと早くあの衝撃を覚えるのだろう。大変なことである。

*川田順造「聲」(筑摩書房)

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