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2015-01-24

会社の同窓会にて

昨晩は、昔勤めていた会社と、その兄弟会社で3社合同の同窓会があって行ってきた(兄弟会社の1社は今の勤め先だが)。

昔勤めていた会社は、本当に右も左もわからない小娘だった20歳の私を雇い入れてくれた会社。そこで兄さん姉さんの仕事ぶりに触れ、「仕事って楽しいものなんだ」という認識を得たのが、そこで私が収穫した一番大きなことだと思っている。けれど、今の自分の仕事からたぐり寄せてみると、核となるすべてはその当時の仕事と直結しており、多大な影響を受けて今があることを改めて思い知る。

1996年のネット黎明期に、なんの専門知識ももたぬ私を受け入れ、私を社会に接続してくれ、インターネットに接続してくれ、デジタルで物事をつくる人のキャリア支援事業に接続してくれ、その中でも人材育成という仕事に接続してくれたのが、この会社だ。そして今振り返れば、私はこの18年ほどの仕事人生のほとんどを、デジタルとクリエイティブと人材育成を掛け合わせた世界で過ごしてきた。

当時20代前半から40代前半だった人たちは、昨日30代後半から50代後半にシフトして集まった感じだ。しかし、みんな見た感じが全然変わっていなくて、とにかく元気に笑って再会できたのが何より嬉しかった。この歳になると、身近な人の死も大病も経験しているので、まず心の中を占拠するのは「健康であればもうそれだけで、それ以上に望むことがあるだろうか…」というおばあちゃんみたいな気持ちだ。歳を重ねるほどに「足るを知る者は富む」という構えになる。

私も当時から化粧っけないまま(一切の変化なし…)、髪型も変わりなく(多少軽くなっているのだが…)、体型も変わらずで(若干細くなっているのだが…)きているので、冷凍保存でもしてたんじゃないかとからかわれたが、当時から比べればそれなりにいろいろと苦労もしまして、内面はいくらか成長もしました、と思う。

ということは、だ。ここに集う人たちも同じ10数年という年月をさまざまに生きてきたのであって、私と同等か、おそらくはそれ以上の経験をして、いろんな思いなり考えなりを味わって、今ここにいるに違いないのだ。けれど、なかなかそういうことまでは同窓会の中で話し込むわけにもいかない。そこでやっぱり行き着くところは、今とにかく健康で良かった!である。で、帰途についた。

今後再び新しい関係で重なりあう人もいれば、そうでない人もいるだろう。それは仕方ないことだ。というと後ろ向きな感じだけど、前向きにみて、人の交わりとはそういうものだと思っている。働く場所は離れ離れになり、おそらくはこの先ほとんどの人と職場をともにすることはないだろう。あの共有空間は、すでに失われたものだ。その失ったものを潔く受け止めながら、今後また違うかたちの新しい関係を築いていけたらいい。

得たものでなく、
失ったものの総量が、
人の人生とよばれるものの
たぶん全部なのではないだろうか。*

というのは、大人になればなるほど心に染み入ってくる。惜しむほどの「失ったもの」をもてたなら、それがいずれ豊かな人生と振り返れるものになるのかもしれない。

「今」はどんどん終わっていく。これを書いているうちにも、今はどんどん終わっていっている。いつだって私たちは今を失いながら生きていて、それをずっと意識してはいられないから、前へ前へ生きていく。けれど、あるとき改まって振り返ってみると、どこか感慨深く、いとおしい気分のわく「失ったもの」が見出される。こういうものを丁寧に味わいながら、前に向かって生きていけるのが健やかだ。思い出話だけでつながるほど年老いちゃいないし、それだけで終わっちゃつまらないよねという性分の私たちでもあるし、これからはこれからだ。

退職後しばらく音信不通になっていた人たちとも、ここ数年はFacebookを通じてつながるようになっていた。だから近況にはなんとなく触れていた方も少なくなかったが、直接お会いしてお話しできる時間はまったく別物だ。さらに十数年ぶりにお会いできた方もいて、とっても素敵なひとときを過ごすことができた。主催くださった方々に心から感謝だ。

*長田弘「奇跡 -ミラクル- 」(みすず書房)

2015-01-11

電気毛布を買った

年始に電気毛布を買った。きっかけは実家での電気毛布体験だ。母が他界してから、私は実家に帰ると母のベッドで寝かせてもらっているのだけど、そこには電気毛布が敷かれていて、冬場にこれを体験する度、なんてあったかいんだ…と感銘を受けていた。朝起きたときの、ぐっすり眠れた感といったらない。

しかし、電気毛布の初体験は数年前のこと。なぜ、これまでは買おうと思わなかったのか。「電気毛布は親が使う贅沢品(子どもはあんか)」という無意識の縛りが働いていたのか、自宅にものを増やしたくないという基本思想が食い止めていたのか。その辺りかと思うのだけど、世の中にはこういう潜在顧客が結構いるのではないか。

つまり一つに、それに対する子どもの(あるいは若い)頃からのイメージが固着していて、「これは大人が買うor使うもの」と無意識に思い続けている。ゆえに、実は自分ももういい大人になっていて可処分所得もそこそこあるのに、それを買うor使うという発想に至っていないという人。

一つに、新たにものを買うというのが、なんでもかんでも「場所をとる」につながっていて、それはほとんど場所をとらないのに「部屋が狭いから買わない」と全般的に買い物拒否志向な人。

その意識化に成功し、晴れて思い込みから脱した私は、この度電気毛布を手に入れたのだった。何きっかけだろう、寒さへの拒否反応がついに強大なエネルギーをもって私の無意識に風穴を開けたのだろうか。

思い立ったが吉日、年始の休暇中に実家から東京に戻ると、事前の情報収集もせず、なじみの大型家電量販店に足を運んだ。私は元来面倒くさがりであり、買い物は「あれこれ見て回るプロセスも楽しいわー」というより、「できるだけ効率的にこれと決めて買ってしまいたい」タチだ。特にプライベートな暮らしに関わるものはそうで、買うと決めたらぱっと一つに決めてぱっと買ってしまいたい(そして即日からぬくぬくあったまりたい)。

電気毛布に「電気しき毛布」と「電気かけ毛布」の2種類があることを知ったのは、量販店の売り場に行ってからのことだが、今さら「かけ毛布としき毛布、どちらのほうがいいだろう」までスタート地点を引き戻すのも面倒くさい。ここはもう、当初の想定どおり「しき毛布」に限定して物色してしまおうと決める。「しき毛布」はすでに実家で使用経験があり、効果も簡単操作も承知済み、この選択にハズレはないのだ。外は冒険にあふれているのだから、うちで使うものくらい安定した幸いを求めてよかろう。

ざっと見回したところ、電気しき毛布の棚は、とある通路の片側にまとめられている。ここだけ見ればOKということなら、一つに決められそうだ。売り場があんまりだだっ広く商品が多すぎると、面倒くさがりはそれだけで心がおれてしまう(加湿器は3列あったので帰った…)。

電気毛布は、1点に絞り込むのも楽だった。「電気毛布」→「しき毛布」の後は、「洗える」→「パナソニック」ブランドだし、これでいいや→「シングルサイズ」の3ステップで1つに絞り込み、在庫ありを確認するまで5分とかからなかった。今回の絞り込みは「洗える」が決め手だったといえよう。一気に客に絞り込みをさせる「洗える」の力は素晴らしい。電気なのに洗えるのだ。

そこから一応、「洗える」っていってもなんか制限ありそうだよなぁと思い、見本でかかっている商品のタグの注意書きをチェック。「ドラム型洗濯機では洗うな」「乾燥機には入れるな」などと書いてある。何ならOKなのかは明示されていないので、同じフロア内の洗濯機売り場のほうに目をやると、ドラム型洗濯機と縦型洗濯機に分かれている。つまり縦型洗濯機ならいいということかしらと見通しを立てつつ「縦型洗濯機」をGoogle検索。あぁ、従来型のを縦型と呼ぶのねと学習し(基本的な暮らしの知識がない)、念のため店員さんをつかまえて、これは縦型洗濯機なら普通に洗ってOKということかと確認。ついでに、何かしら購入前に店員さんからこの商品説明を受けておいたほうがいいのでは?と思い、「普通に洗って干せばいいんですよね?」みたいな何でもない質問を投げてみる。そうだとの解に加えて洗濯時の一言アドバイスがあり、気が済んだので「では買います」とレジへ。で、そのまま持ち帰ってきた。という電気毛布の買い物の一部始終。

いやー、素晴らしい。ぬくぬく。あったかい。シングルサイズなら5〜6千円出せば十分なものが買える。操作も簡単、温度調節の1点しか触るところがない。そしてまったく場所をとらない。下に敷いてしまえば、もはや目に入らない。見えないけどあったかい。見えないのにあったかいのだ。

人って即効性を求めるとどうも、上からかけるもの、立体的で動きがあるものに吸い寄せられがちだけど、じんわりと堅く下から支えるもの、静かで平らなものにこそ、地味ながら確かで安定した価値が見出されたりするものよねぇと感じ入った(適当すぎる拡大解釈だという自覚はある)。素晴らしい、電気毛布のある生活。

2015-01-09

宛てもなく「声」の話

とあるビジネス書の翻訳本を読んでいて、あることに気づいた。脳内で再生されている著者の声が、子どもの頃にみていた日曜洋画劇場の吹き替えの声だということに(著者が男性なので、男性の主人公の声だ)。ただでさえ、テンション高めの分厚い本で読むのにエネルギーを使っているというのに、この声のおかげで著者が終始「テンションMAX!」のような感じになってしまっているが、これは著者のせいではなく私のせいだったのか…。

しかしながら、それに気づいたからといって私に自分の脳内で流れる声をコントロールする力はなく、声質はそのままだ。著者は、相変わらずものすごいハイテンションだ。これはもう仕方ない。最後までこれでいくしかないのだ。

そう考えると、お気に入りの漫画が、映画やテレビドラマとして実写化されたときに感じる「なんかイメージと違う…」という不快感は、「絵」が違うというのもあろうが、それと同等かそれ以上に「声」が自分の脳内で流れていたのと違う、という違和感もありそうである。

しかし、それがどんな声だったら合っていると思うのか、自分の脳内に具体的なこれという声を再生できるわけでもない。たぶん、自分の中にはもっていないのだろう。その声は、現実世界のどこかに在るんだろうか。これだ!という声を誰かが発して、これだ!と思うことがあるんだろうか。それとも抽象と具象の間の、自分の想像世界にしかないものなのだろうかな。謎だなぁ。

私は「声」というものにさほど意識を向けてこず、いい大人になってから、ある時はたと気づいたのだった。人は、自分の自覚している以上に「声」というものに影響を受けているものなのだなと。目に見えないから、それをそれと認知しづらいが、「声」というのは思いのほか、人が印象をもつのに多大な影響を与えているのだった。

とある朝のラジオ番組の爽快感が、話の内容でもかかる音楽でもなく、パーソナリティの声によって生み出されていたり。とある話の説得力が、話の論理構造というより、低音で響く話し手の声によってもたらされていたり。歌詞がいい、メロディがいいと思って聴いていた音楽の、実はアーティストの寂び声にやられているのだったり。

人類学者の川田順造さんの本の中にある、

声は人間の生理の、深くやわらかな部分に直結しているらしい。*

には、ちょっと感じ入ってしまった。

それにしても、自分の声を録音して聞いた時のあの衝撃というのは、ちょっとどうにもならない。聞き慣れるか、聞かないか、録音しないかしかないのだろうけど、あれの初体験は徐々に低年齢化しているのではなかろうか。私は小学生のときにカセットテープで録音したのを聞いて度肝を抜かれたけれど、今の子は親が撮影してくれた動画とかで、もっと早くあの衝撃を覚えるのだろう。大変なことである。

*川田順造「聲」(筑摩書房)

2015-01-04

実家の書類整理

12月初旬に実家に帰ったとき、父が書類の整理をしたがっていたので、大晦日は実家でたまった書類の束を広げて大掃除した。家の中はいつもこぎれいに保たれており、年末だからといって大物を掃除することもないのだけど(いや、やろうと思えばいくらだってやるところはあるんだけど)、家の中にはこれと別に小空間高密度領域という小宇宙があって、ここをどこかのタイミングできちんとやっつけておかないと、後で大変なことになるのだ。

前に実家で手をつけたのは「調味料入れ」と「薬箱の中」だ。あれはまさしく、小空間高密度領域だった。場所的にはものすごいスペースを割いているわけじゃないんだけど、いざ掃除するとなると、お酢だのごま油だのラナケインだの、なぜか同じものが何本もあるので、一つひとつ賞味・消費期限を確認していくのに一苦労。新しいものだけ残して、期限切れを捨てるよう仕分けしていくと、整理するのに小一時間を要す。

ああいう所は、一線を越えるともう手がつけられなくなってしまう。いざ整理しようと思っても、その場がはきだす戦意喪失力が半端なく、生涯触れずにやり過ごすか、分別せずすべてを捨てるかしか選択肢がなくなってしまうのだ。そして先々に引っ越しイベントがない実家などのケースでは、前者になる確率が高い。一線を越える前に時期を見極めて、えいっと立ち向かう必要がある。

で、今回は書類の整理。書類というのは、例えば家の保険だったり、車の保険だったり、ガン保険だったりの書類。放っておいても、あれやこれやの郵便物が実家には大量に届いているのだ。それがかろうじて一所にまとめられており、古い期限切れのから期間中のものまで、どさっとファイリングされている。これでは急に必要になったときに書類の整理から始めねばならない。

では!と父と娘、書類の束を挟んでテーブルに向き合い、父が書類を一つひとつ取り上げ、二人で吟味していく。これは3年前の→捨て、これは4年前の→捨て、これは2年前の→捨て、これは今の→イキと仕分けしていく。捨て行きのものは娘のほうに寄せ、個人情報が含まれているものとそうでないもの(ガイドブックとかパンフレットの類)に分ける。イキのものは、これは何系の書類、これは何系の書類と分類し、父のほうへ戻す。

間違って大事な書類を捨てないように二人で確認しながら、コツコツやっていく。45分くらいやっていると、父が一度「あぁ、じゃあくせぃ」みたいな弱音をはく。そこで娘、「ここまで頑張ったんだから。ほら見て!この書類の束。これだけ処分できてすっきりしたんだから、あと少しだよ」と、いつもよりテンション高めに励ます。

こんなこと、自分一人でやっていたら言えない。たぶん私が「あぁ、じゃあくせぃ」の役を買って出ている。父が弱音をはくから、私はバランスをとってサポート役にまわれるのだ。やはり、これは一人でやってはいけない。この手の作業は身内と二人ペアで行うことが肝要だ。あと、一人は老眼が始まっていない者を割り当てること。で、こちらも小一時間かけて完遂。

それから実家の書類の整理をするときは、娘(息子)はゴミの書類を中心に扱うようにし、父(母)はイキの書類を中心に扱うようにする。イキの書類をファイルに戻したり、もとの場所に戻したりするのも父(母)がやったほうがいい。いざという時に、自分でしまっておいたほうが、すぐに「あれはここにこういうふうにしまってある」というふうに思い出しやすいからだ。ゴミの類は覚えておかなくていいものであり、また量も多いし、個人情報書類の分別もあるので、こちらで一通り扱うようにすると、役割分担として適切だと思う。と、役に立つのか立たないのかよくわからない豆知識風に終わる。

2015-01-03

本人に言う

考えごとは一人ですることが多いけど、人に相談を持ちかけるときは本人に言うことが多い。自分のことはだいたい自分で決めてしまうので、自分一人で結論を出せないことは、だいたい人が絡んでいる。その場合、その絡んでいる当人に意見を聴くのが一番効率が良いように思う。

相談は本人に言うメリット。現実的に望ましい答えは、関わる人や組織、乗っかっている文脈によって変わることが大いにありうるから、他所で相談するより当事者と話し合ったほうが回り道せず納得解にたどり着きやすい。

あとは、自分の中だけで閉じ込めておくのが重たい話も、当事者内で口にして開放できれば他所でこぼす心配も減って自分も相手も安心だとか。ケースによっては、脱文脈化した情報だけがネット上に拡散して、見知らぬ人から過激な攻撃を受け、疲弊する事態も避けられるかもしれないとか。

もちろん当事者内にとどめず、第三者に相談を求めるべきとき、意見を求めたほうが有意義なときもたくさんある。けれど、仕事なら直接クライアントに相談してみるとか、人づきあいなら直接その当人に意見を求めるなどして、それを受けて改めて自分で考えてみて答えを模索する(これは大前提)。この率直な二者間のコミュニケーションを前提にして、第三者を巻き込むにしても基本は当事者飛ばしをしないのが、無駄に話がややこしくならず、好みのアプローチだ。

以前、「言うか言わないか」という話をここに書いたのだけど、それとあわせて「誰に言うか、誰に言わないか」ということも大事な選択だと思う。何かを伝えるときのコミュニケーション手段を盲目的に決めてしまうと、誰かにだけそっと言えば目的にかなったものが、必要以上に広く多くの人に伝わってしまって、逆に目的から遠のいた着地に至ることがある。自覚的に選んだものではなくても、結果的にその手段を選んだ責任は自分で負うことになる。最近は、その辺の難しさを感じることがままある。

何を言うか言わないか、誰に言うか言わないか、そしてどう伝えるかという問題が、現代はことに複雑に絡み合っている。どんな言葉で、どんなタイミングで、どんな媒体で。文字に書き残すのか、残らぬ声で届けるのか、自分の声と視線と表情を総動員して伝えるのか。人に何か伝えることは、時としてすごく難しい。だから、その手段に対して選択的でありたいし、自分の選択に対して自覚的でありたいと思う。

そして決して上手とは言えない自分のコミュニケーション能力を前提にすると、力量に左右される文章力や話力を磨き続けることも大事だけど、人間の生来的なコミュニケーション手段も軽視せず、大事にして力を借りたいと思う。視線と声と肌触り、その力の大きさと尊さを最近よく思う。

2015-01-01

2015年の年越え

2015年、あけましておめでとうございます。

年末は実家に戻り、父と妹とともに年を越した。ここ数年は、父も私も1月1日0時を迎える前に就寝してしまうのが恒例だったが、今回は妹もこれに参戦、眠いと言って私より先にリビングを後にした。私は今回頑張って、23:50まで起きていた。子どものように途中眠気と戦いながらも、テレビを観るのも実家で過ごすときだけなので、年末年始くらい世間に触れようと思い、NHKの「紅白歌合戦」を最後まで鑑賞。23:45に「ゆく年くる年」が始まり、ぼーんと除夜の鐘の音がなるのを聴いて、テレビを消した。すると家の外から遠くの除夜の鐘の音が届き、それに耳を澄ましながら寝床に向かった。ということで今回、我が家は0時前に完全消灯だった。それもまた良し。

元日は年頭の挨拶に始まり、家族で杯をまわしておとそをいただくのを2周。その後、おせち料理とお雑煮をいただく。昔は父が年頭の挨拶で「宇宙→世界→日本→我が家」の話をしていたのだけど、最近はその辺を父がはしょるようになったので、今年は私が宇宙の話を…。というか、最近観た「インターステラー」の感想…。というか、基礎知識がないので映画の前に予習で(3割だけ)読んだ新書「重力とは何か」の感想か。

宇宙は137億年前に生まれたそうだけど、えぇ!?じゃあその前には何があったの?とか考えると、わけがわからなくて。そんな状態で「インターステラー」を観て、宇宙を視覚的にどどーんと見せつけられると(しかも3時間)、また別の角度から、自分の生や、家族、親しい人たち、自分が生きている世界がいとおしく感じられた。そういう自分の目の前のミクロな世界を大事に過ごしていきたいと年頭の挨拶をしたら、妹が隣りで「おぉー」とうなってくれた…。

あわただしかったり、せわしなかったり、いろんな人の想いや意見がこんがらがったりする世の中で生きてはいるけれど、そうした中でも、ある種淡々と、自分が大事だなと思うものを大事にして、生身の人と向き合う時間を大事にしてやっていけたらと思う。

目的を概念化しすぎず、対象を集団として捉えすぎず、そこにいる人の真正な想いや志しを淡々とくみとってサポートする時間を重ねていけますように。自分の心を豊かに動かしてそれを感じ取りながら、人に対して強くしなやかに向き合っていけたらいいな、と思いつつ新年の幕開け。

昨年こちらに足を運んでくださった方に、心から感謝を。本年もよかったら、どうぞよろしくお願いします。

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