脱皮
3週間ほどが一気に過ぎた。ここに文章を書いているときのような、もやぁんとした思索時間なく過ごしていたから文章を書くのが止まっていたのか。はたまた、ここに文章を書くのが止まっていたから、もやぁんとした思索時間がなかったのか。たぶん表裏一体なんだけど、ともかく振り返ってみると一気に過ぎたなぁと思う。
この間は思索するというより、自分の直観に従うばかりだった。仕事のことも、家族のことも、健康のことも、あれもこれも。その場ですぐの判断が求められる状況だったからというのもあるし、自分の直観が答えを明確に指し示しているのを感じ取って、それ以外の選択肢に検討の余地なしと断じたのもある。
そうして我に返ってみると、ここしばらくでずいぶんと自分の直観に信頼をよせて生きていることに気づいて、なにか脱皮したみたいだな、と思う。実際はそんな立派な節目じゃないだろうし、自分の直観を過信してもいけないという気構えは持ち続けているつもりだけど。でもまぁ、つまるところ己の直観だよな、という思いに確固たるものを感じないでもない。どっち、つかず、にしておくのが良いんだろう。
最近は現実問題に心をくだいていることが多かったけど、ときおり時間ができると「老子・荘子」(*1)を開いていた。老子の考え方のある部分は、たいそう自分と相性が良い。
私は「言葉や概念」を尊いものだと思っているけれど、「言葉や概念」と「真理」の間には常に人の価値観が入り込んでいることを前提にもっておきたいとも思っている。ある人・ある集団・ある時代の考え方次第で、“それ”には別の言葉が与えられるし、別の区分け方で二分、三分割される。場合によっては人の認識世界に存在せず、名を与えられないこともあるし、名を同じままに善と悪、優と劣がひっくり返ることもある。
“それ”の「言葉や概念」のずっとずっと下におりていったら、「真理」の層には何にも二分されていない世界が広がっていることを自分の基礎にもっておきたい。とはいえ私は仕事してなんぼの人間なので、その上で、そのときどきの誰かの目的のために言葉を与えて世界を二分し、概念化していく気は十分にある。ただ、その目的から離れれば、いつでも無に帰れる人間でありたいし、そのときどきの目的にかなった言葉や概念とは何なのかを都度吟味して選べるようでありたい。
そんなことをもやもや思いながら本を読んでいると、期せずして「直観」という言葉に遭遇する。
ありのままの真理は何によってとらえることができるか。ただ一つ、体験的な直観によるほかはない。直観は、ありのままのものが入ってくる唯一の通路である。
部分取り出して語られても薄気味悪いだけかもしれないが…、私が思っていることは単純なことだ。思い込みにすぎないかもしれないけど、確かに自分の直観が指し示す先が最も真理に通じている気がする。だから、自分が体験的に直観するところを大事にして生きていこうと。最近そちら寄りに脱皮の感がある。
それにしたって真理というやつは(少なくとも私が腑に落ちる真理のとらえ方というのは)、紀元前4世紀にはもうこんなふうに表されていたのだ。地域を越えて、時代を超えて価値ある知恵というのは、老子に限らず先人があふれるほどに残している。そう思うと、自分は今同じ時代に生きている人のいくらかでも役立てるようにして、それで生涯を終えられたら十分だなと腹をくくれる。
息の長い知恵にいくらかでも学びつつ、自分が同じ時代に生きて袖ふれあう縁をもった人たちの何かのたしになるような仕事をやっていけたら幸せなことだ。いずれそれは跡形もなくなってしまうだろうけれど、普通の人の生というのは、それで十分幸せではないかと思う。というわけで、今年も年末まで忙しそうだけど楽しくやろう。
*1:森 三樹三郎「老子・荘子」(講談社学術文庫)
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