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2014-10-20

極論すれば

極論というのは、極端な議論のことだ。「極論すれば」とは、「一方に思いきり偏ったことを言えば」ということになる。極論て何のためにあるのか考えると、それをそのまま答えとして適用するためにあるのではなくて、あくまで答え探しの途中で使われる、問題を理解するための道具だよな、と思われた。

複雑な問題を「いったん」シンプルに考えてみましょうよ、そうしたら今より問題を深く理解して答えを検討できるかもしれないじゃない。そんな持ち出されようではないか。問題を理解するための道具であって、問題解決に直結する答えになるものじゃない。そういうニュアンスが、極論には内包されているのではないか。極論は結論にはならない。少なくとも、安易に極論を結論に選んじゃいけない。そんな気にさせられる。

世の中は複雑なことばかりだ。実際は複雑な問題なのだから、仮想のシンプル空間を作って問題の理解を深めたら、もう一度「実際は複雑な問題」という前提を取り戻して考えないと、まともな答えに至れないではないか。仮想のシンプル空間を前提に導きだした極論を、そのまま結論にするって法はない。そんな声が聞こえる。私の脳内にはいろんな人が住んでいる…。

世の中の多くのことは、複雑さの中にある。だから、複雑さの中で考えることを放棄したくない。私はそう頭がきれるほうじゃないので、答え探しはいつもすごい時間かかって頭から煙出ちゃったりするんだけど、だからといって答えを「極論」で片づけてしまうようになったら、もう全部がストップしてしまう。

世の中の複雑さを前提として、頭をつかって極論Aと極論Bの間に答えを創りだす。それこそが人間の知性であって、人として生きる醍醐味じゃあないか。なんてことを「辞」という文字を見る度、よく考えてしまう。

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