夏陰
連れていかないでっていくら頼んだって、人はいずれここからいなくなってしまう。連れていくときは連れていっちゃうんだって知ってしまった今では、何を願えばいいかも見当たらず、ただ静かに目を閉じて手を合わせる。
自然にさからう気もなくて、不老不死を望むわけでもなくて、親より子のほうが長く生きて親を見送るべきだというのに異論もなくて、だけど送り出すことのさびしさも不安も恐怖も消し去ることなんてできなくて。それが10年後か、30年後か、もっと早く訪れるのか、わからない。何がいいかなんて答えはもたないし、私が答えをつくるわけでもないし。私たちの命はいつだって自然の成り行きのなかにある。
時おり、その恐怖にやられる。いつか、いなくなっちゃったら、もう二度と会えない。母は余命宣告から1ヶ月ちょっとでいなくなっちゃって、それっきりだ。それっきり一度も、もう何年も会っていない。それまでずっとこの世界にいたのに。心のどこかで、ずっとここにいると信じていた人が、ある日ここを去って、二度と会えない人になってしまう。時おり、その恐怖にやられる。ほどほどに気を落として立てなおす術は、それなりに鍛えてあるのだけど。
スガシカオの「夏陰〜なつかげ〜」という詩に、こういう一節を見つけて、いやはや久しぶりに歌詞に感じ入ってしまった。
ずっと今日と同じ日々が願わなくても続くと思ってた
こんなに決定づけられている真実もないよなと思うのに、なぜだか信じることをやめられない。大切な人たちと、ずっと一緒に生きていけたらという気持ちが、どこかにずっとあって、気を抜くとすぐ、いずれお別れするという真実を、忘却の彼方に追いやってしまう。
不老不死を生きていくのは大変だし、一生がいずれ終わるのは、それでいいと思っているのだけど、実際問題、気持ちが全然受け入れていないのは、もう仕方ないんだよな。大切な人と別れるのはつらいものなんだから、ずっと一緒の世界に生きていたいんだから。仕方ないのだ。
どんなに大事な人も、どんなに強靭な人も、どんなに永い信頼関係を誓った人も、誰のせいでもなく、ここからいなくなってしまう。それが、自然のこと。私たちにできることは、この時間の尊さを、この関係の尊さを、味わい尽くすことくらいだ。そしたらもう、たとえ耐えられなくても、悔いはないから。帰り道には、そんなことを思う。
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