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2014-10-27

夏陰

連れていかないでっていくら頼んだって、人はいずれここからいなくなってしまう。連れていくときは連れていっちゃうんだって知ってしまった今では、何を願えばいいかも見当たらず、ただ静かに目を閉じて手を合わせる。

自然にさからう気もなくて、不老不死を望むわけでもなくて、親より子のほうが長く生きて親を見送るべきだというのに異論もなくて、だけど送り出すことのさびしさも不安も恐怖も消し去ることなんてできなくて。それが10年後か、30年後か、もっと早く訪れるのか、わからない。何がいいかなんて答えはもたないし、私が答えをつくるわけでもないし。私たちの命はいつだって自然の成り行きのなかにある。

時おり、その恐怖にやられる。いつか、いなくなっちゃったら、もう二度と会えない。母は余命宣告から1ヶ月ちょっとでいなくなっちゃって、それっきりだ。それっきり一度も、もう何年も会っていない。それまでずっとこの世界にいたのに。心のどこかで、ずっとここにいると信じていた人が、ある日ここを去って、二度と会えない人になってしまう。時おり、その恐怖にやられる。ほどほどに気を落として立てなおす術は、それなりに鍛えてあるのだけど。

スガシカオの「夏陰〜なつかげ〜」という詩に、こういう一節を見つけて、いやはや久しぶりに歌詞に感じ入ってしまった。

ずっと今日と同じ日々が願わなくても続くと思ってた

こんなに決定づけられている真実もないよなと思うのに、なぜだか信じることをやめられない。大切な人たちと、ずっと一緒に生きていけたらという気持ちが、どこかにずっとあって、気を抜くとすぐ、いずれお別れするという真実を、忘却の彼方に追いやってしまう。

不老不死を生きていくのは大変だし、一生がいずれ終わるのは、それでいいと思っているのだけど、実際問題、気持ちが全然受け入れていないのは、もう仕方ないんだよな。大切な人と別れるのはつらいものなんだから、ずっと一緒の世界に生きていたいんだから。仕方ないのだ。

どんなに大事な人も、どんなに強靭な人も、どんなに永い信頼関係を誓った人も、誰のせいでもなく、ここからいなくなってしまう。それが、自然のこと。私たちにできることは、この時間の尊さを、この関係の尊さを、味わい尽くすことくらいだ。そしたらもう、たとえ耐えられなくても、悔いはないから。帰り道には、そんなことを思う。

2014-10-25

太陽と娘

父が調子をくずし、励ましと家事と買い出しをしに実家へ。帰るやいなや家の中の窓という窓を一通り開け放し、太陽がさんさんと、風がそよそよとふりそそぐおうちにしたら、それだけですっかり気分が上向きに。太陽って、すごいなぁと思った。

あと、娘というコンセプトも、なんかすごいなと思った。娘が帰ってきて、あれやこれやおしゃべりして、がちゃがちゃ洗い物して、ぐぃんぐぃん洗濯して、うぃんうぃん掃除機かけて、がさごそがさごそ家事をやって、ちょこまかとごはんを出して、居間で一緒に過ごして日が暮れていくだけで、父というのは元気になっていく。

なんという自然現象だろうか。自然の強大な力に恐れ入った。感じ入った。今日の秋晴れに、心から感謝します。

2014-10-23

どう実行できるかの4階層

私たちが普段「スキル」と呼んでいる心的手続き(何を知っているかではなくて、どのように実行できるか)は、4つの階層に分けられる。下から「単一ルール」「アルゴリズム」「方略」「マクロ手続き」と高度になっていく。これを理解するのに、日頃お世話になっているコンビニの仕事で考えてみた。

スキルの4階層図

単一ルールというのは「〜なら、こうする」という"if-then"の組み合わせで1セット。複数の手順を含まないルール群も含む。

コンビニのレジで、お客さんが店内に入ってきたら「いらっしゃいませ」と挨拶する。これで1セット。お客さんが店外に出て行く時は「ありがとうございました」と挨拶する。これで1セット。こうしたルールが集まって、ルール群をなす。

一つひとつの基本的な「〜なら、こうする」ルールが身についていないと、仕事にならない。

2階層目のアルゴリズムは、このルール群に固定的な手順を与えたもの。この手順は通常変わることがなく、決まった一連の流れを経て決まった結果を生む。

お客さんを「いらっしゃいませ」と迎え入れて、レジで商品を読み取って合計金額を伝えて、お客さんがお金を用意している間に商品を袋につめて、お金を受け取って、おつりを返して、「ありがとうございました」と送り出す、みたいな一連の手順で売上を上げる。

もう少し小さい単位で考えるなら、お客さんが冷たいものと温かいもの合わせて持ってきたら「袋分けますか?」と尋ねる。分けたいという返答だったら2つに分けて入れる、分けないでいいという返答だったら1つにまとめて入れる。「あれしたら、これして、あれする」という一連の固定的な手順、流れがある。

こういうひとまとまりのルール群は、どんな職務にも大小いろいろとあり、一連の基本的な流れを覚えて動けるようでないと、なかなかまとまった仕事にならない。

3階層目の方略は、アルゴリズムのように決まった手順をもたないもので、全体の流れの中で適宜使われる一般的なルール群。

レジ仕事にもいろんな段階があり、いろんなお客さんが、いろんな組み合わせで商品をもってくる。その全体の流れの中で、必要なルールを状況にあわせて組み合わせて適用する。必要ないルールは持ち出さない。

このくらいのボリュームだったら、袋は中サイズ。おにぎりとお惣菜とヨーグルトだったら、お箸とデザート用スプーンをつける。パスタや丼ものが来たら電子レンジで温めるか訊く。大きくて柔らかいものと小さくて重たいものは袋を2つに分ける、タバコの場合は云々、切手の場合は云々、カード決済のときは云々、宅配便のときは云々…。状況にあわせてその場でルールを組み合わせる。

一番上のマクロ手続きは、多様な成果や結果を生む強靭な手続きで、相互に関係する多くの手続きを実行する。ビジネス界で言われる、ソリューションとか問題解決とかの領域と考えたら良さそう。

コンビニの例だと、お客さんの好みとか、急いでるとかのんびりしてるとか、コーヒーマシンやコピー機の前で困ってる人がいるとか、レジは今混んでるとか空いてるとか、店舗売り上げが最近好調だとか厳しい時期だとか、そろそろクリスマスケーキとおせち料理のご予約承りますだとか、このお客さんは家に帰るだけだからおしぼりなしで、このお客さんは残業っぽいのでおしぼり入れてあげようだとか、あらゆる状況を踏まえて今最適な動きを手際よく決めて立ち回れるってことになろうか。

ともかく、下3階層のスキル(単一ルール/アルゴリズム/方略)は、練習によって自動化、無意識化ができるとされている。いずれ機械にとって変わられかねない。一方、一番上のプロセス(マクロ手続き)は、意識的に行う領域とされている。

何年やっていても頭に汗かいて難しいなぁ難しいなぁと思いながら苦悩する仕事があるけど、これはそもそもどんな玄人がやっても、自動化されず意識的にやっているところなのだと思えば、いくらか慰められる。今日も頑張ろう。

ちなみに、これから寒くなるので、コンビニのレジでは次のアルゴリズムをぜひ採用いただきたく。温かいもの、冷たいもの、常温のものが合わせて提示されたら、袋を分けなくていいと返答された場合にも気を抜かず、温かいものと冷たいものの間に常温のものを挟んでレジ袋に入れる。あったかいお茶と、冷たいヨーグルトの間に、常温のおにぎりを挟んでくださる店員さんは、私の経験上4割程度。でも、これはアルゴリズムの領域と思うので、一度覚えたら大丈夫なはず。切望。

※一連の定義説明は「教育目標をデザインする -授業設計のための新しい分類体系」R・J・マルザーノ(北大路書房)参照。

2014-10-20

極論すれば

極論というのは、極端な議論のことだ。「極論すれば」とは、「一方に思いきり偏ったことを言えば」ということになる。極論て何のためにあるのか考えると、それをそのまま答えとして適用するためにあるのではなくて、あくまで答え探しの途中で使われる、問題を理解するための道具だよな、と思われた。

複雑な問題を「いったん」シンプルに考えてみましょうよ、そうしたら今より問題を深く理解して答えを検討できるかもしれないじゃない。そんな持ち出されようではないか。問題を理解するための道具であって、問題解決に直結する答えになるものじゃない。そういうニュアンスが、極論には内包されているのではないか。極論は結論にはならない。少なくとも、安易に極論を結論に選んじゃいけない。そんな気にさせられる。

世の中は複雑なことばかりだ。実際は複雑な問題なのだから、仮想のシンプル空間を作って問題の理解を深めたら、もう一度「実際は複雑な問題」という前提を取り戻して考えないと、まともな答えに至れないではないか。仮想のシンプル空間を前提に導きだした極論を、そのまま結論にするって法はない。そんな声が聞こえる。私の脳内にはいろんな人が住んでいる…。

世の中の多くのことは、複雑さの中にある。だから、複雑さの中で考えることを放棄したくない。私はそう頭がきれるほうじゃないので、答え探しはいつもすごい時間かかって頭から煙出ちゃったりするんだけど、だからといって答えを「極論」で片づけてしまうようになったら、もう全部がストップしてしまう。

世の中の複雑さを前提として、頭をつかって極論Aと極論Bの間に答えを創りだす。それこそが人間の知性であって、人として生きる醍醐味じゃあないか。なんてことを「辞」という文字を見る度、よく考えてしまう。

2014-10-19

ボタンのキャラ

小学生低学年の頃、誕生日プレゼントか何かで親にラジカセを買ってもらった。カセットテープが一つだけ入るもので、あとはラジオが聴けた。昭和50年代の終わり頃だろうか。

カセットテープを入れる扉の上に、左から右へ「一時停止」「取り出し」「停止」「巻き戻し」「早送り」「再生」「録音」という感じで6〜7個のボタンが並んでいた。取り出しと停止は同じボタンだったかも、記憶が定かでない。

ともかく、そこに並ぶボタンは今の時代に見るような薄っぺらいものや平らなものと一線を画す、そりゃーもうゴツっと存在感のある立体ボタンだった。見た目はどれも同じなのに、押した感触にそれぞれ特徴があって、なかでもキャラの濃いボタンとなると、押し感だけで何のボタンか判別できるほどだった。

一番左の「一時停止」ボタンは異様に軽かった。押し込んでも最後まで押しきれずに少し浮いた感じで止まった。サザエさん一家でいったら、タラちゃんのようなキャラだった。押した感じはいかにもチョイ役ふうなんだけど(というとタラちゃんに失礼だが)、録音するときには、一時停止ボタンを押してから録音ボタンを押すというのが当時の常套手段であり、これによって一時停止ボタンは揺るぎない価値を手中におさめていた。

一番右の「録音」ボタンはたいそう押すのに力がいって、とても重たいボタンだった。録音ボタンを押すと、引きずられるようにして再生ボタンも押された。録音ボタンが行くぞ!といったら、再生ボタンは一緒についていくことを余儀なくされていた。そういう意味では明らかに、録音ボタンは波平さんであり、再生ボタンはフネさんだった。

録音ボタンを押すだけで、再生ボタンまで引きずりおろすような荒技は、子どもの私には到底できなかったので、録音するときには再生ボタンに人差し指を、録音ボタンに中指をおいて、せいの!で気合いをいれて2つのボタンを下ろした。押すというより、下ろすという感覚が正しい重量感だった。録音ボタンは物的に、たいそう固く重たかったのだ。

いかに用意周到に構えていても、今だ!と録音したいタイミングでささっと押せるものではなかった。しかし、録音したいタイミングは風のようにやってくる。テレビやラジオで、好きな歌手の歌が流れる機をつかまえるのだ。うまく風をつかまえて、ささっと録音ボタンを押したい。というわけで、一時停止ボタンを押して少し引っかかったような半押し状態にして、録音ボタンと再生ボタンを「えいっ」と下ろし、そこで待機。録音したいタイミングがやってきたら、軽いタッチで一時停止ボタンを押して録音開始。こういう手順だった。

ここまでの説明に、何か意味があるのかというと、実はまったく意味はない。スマートフォンのアプリで、赤くぽちっと描かれた平面の録音ボタンを見ていたら、昔懐かしいゴツっとした録音ボタンを思い出して、あれは重たかったなぁ、というだけで書いた。この文章にどんな意味を与えるかは、ここまで読んでしまった方の豊かな感受性にゆだねたい…。

ちなみに、あと残りを考えると、早送りはカツオくん一択、となると巻き戻しがワカメちゃん、停止がマスオさんまでは必然的に決まり、ガチャッと一番騒がしい取り出しがサザエさん、ということになろうか。タマ、ごめん。

2014-10-17

体系的な知識を身につけること

学校教育にフォーカスしつつも、大人の学習にも応用可能という感じの本を読み返しているのだけど、そこで見つけたHerbert Simon氏(1996年)の言葉。

「知っていること」の意味が「情報を覚えて暗唱できること」から「情報を発見し利用できること」へと変わろうとしている(*1)

20年近く前に「変わろうとしている」と言っていたんだから、今やもう「変わった」かな、とか思いながら一度は読んだのだけど、いや?と引き返した。

これ、もともとだったりして、と。「知っていることの意味」となるとどうかわからないが、世の中に求められていたものは、もともと「情報を覚えて暗唱できること」ではなく「情報を発見し利用できること」だったかもしれない。

「情報を発見し利用できること」まで教育がカバーするには、大変な手間と時間がかかる。教育する側に深い理解と指導能力も必要となる。全国的にこれを施そうとしたら、あんまり対象人数が多くて、そこまで育成・評価する仕組みを整備するのが難しかった。結果的に、教える人を全域に配置して、筆記テストで覚えているかどうかを評価するまでが限界。これなら大量生産の仕組みがまわせるというので、これまでの教育目標は「情報を覚えて暗唱できること」に甘んじていた、ということなのかも。

だけど、いよいよ世の中が複雑になってきて「情報を覚えて暗唱できること」だけでは渡りづらくなってきた。教育目標は「情報を発見し利用できること」を目指さないではいられなくなった。また追い風としてテクノロジーが進化し、情報を発見し利用できるだけの深い理解に至っているかどうかを指導・評価する仕組みも、現実的なものとして考案・整備しやすくなってきた、という感じだったりして。

ここまでは勝手な妄想、与太話であるけれども、いずれにせよ「情報を覚えて暗唱できること」から「情報を発見し利用できること」へと必要な能力の軸が移行しているということなんだろう。

ここで一つ疑問がわく。じゃあ、これからは情報を覚えなくていいのか。これを検討するにあたって、熟達者の特性を引き合いに出してみる。

熟達者の優れた思考力や問題解決の能力は、自分の専門分野に関する豊かな知識体系に依存している(*1)

と言われる。熟達者が優れた思考力・問題解決力を発揮するためには、それを下支えする豊かな知識体系が必要ということ。

つまり、「これは何か」を説明でき、「こういうときは、こうしよう」と単純なルールを覚えるだけではなくて、それと他との関連性、原理、重要な概念といった知識体系を深く理解することで、「なぜそうでなければならないか説明できる」「どういうケースでは適用外なのかわかる」「代案を考え出せる」「応用して使える」ようになるという話。

それがないと毎回、短命の情報をゼロからイチ、イチからゼロで出し入れする繰り返しになるから、学習もいちいち大変になる。日々、断片的な情報の寄せ集めでTipsを読み流すだけではなくて、どこかである程度まとまった知識を書籍なり講座なりを通じて体系的に身につけておく。重要な概念を核において、知識が相互に関連づけられている状態まで一度もっていっておくと、Tipsや最新ニュースの類も、その基盤知識の上でアップデートできるので、継続的な学習を求められる仕事関連の知識習得では、長期的にみて大変効率が良い。

最初は大変だけど、熟達者と言われる人は、当たり前のものとしてこういう知識体系を敷いている。そう考えると、少なくとも今の人間の脳内システムでは、「情報を覚える」ところは軽視できるものではないんだろうと思う。変わったのは、「暗唱すること」ではなく「深く理解すること」へと、目指す方向がずれたのかなと考えた。もともと、そうだったのかもしれないけど。

*1:「授業を変える 認知心理学のさらなる挑戦」米国学術研究推進会議 編著/北大路書房

学んだことをどかす作業

赤ちゃんの頭の中には、

言語、数の基本概念、視覚対象の物理的特性、生物や無生物の運動などの情報を素早く学習できる生得的制約が備わっている(*1)

という。つまり、人間は赤ん坊の頃からなんらかの「知識」をもっており、その後延々と「まっさらから学ぶ」ということはなく、なんらか既有知識をもとにして新しい知識を獲得したり、物事を理解したりしているということ。

学習を支援する立場としては、学習者がすでに持っている知識を特定し、それをいかに効果的な「足場」として持ち出し、能率的な学習・転移を促せるかが、腕の見せ所となる。今回の学習者が、学習テーマに関連してすでに知っている知識が何なのか。何を足場として新しい事柄を提示したらわかりやすいのか。

正しい知識ばかりではなく、その学習テーマに関連した思い込み、誤概念、先入観といったものも含む。あればそれを取り出して、「こういうふうに思っているかもしれないけれど、実は違う」という「どかす」ステップが必要になる。それを組み込まないと、知識は足場からくるってしまう。

どかす方法も、「実は違う」と言ってどかせるものではなかったりする。乱暴にやると、学習者が長く大事にしてきたものを真っ向から否定し、自尊心を傷つけて険悪に終わってしまうことになりかねない。それでは、本来目的の学習成果に結びつかず、むしろ遠のいてしまう。

すごい仕事ができる人が、必ずしも教えるのが上手とは限らないとは、こうした背景だ。その新しい知識を学ぶとき、学習者がどんな誤概念を持ち出しやすく、どんな誤認識に至りやすいか。それをどう、どかしたらいいか。ここについて理解がないと、この「どかす」ステップをうまく組み込めない。

ここの学習者理解をいかに深め、研修設計に反映させられるかが大事な仕事のひとつだ。これこれをどかす必要があるから、今回はこういう導入にして、こういう課題を出すことで、誤認識があった場合は顕在化させてフィードバックする演習を組みこむ。「講師」という肝の役割を実務スペシャリストにお願いする私のような人間は、この辺の設計仕事を務められてこそ、いる意味があるというもの。慎重に、慎重に。

それにしても、この誤認識。我がごととして考えても慎重なつきあいが必要だ。激変の世の中にあって、役割が変わったり、職場を変えたり、同じ職場にいても外のイノベーションによって前提が覆されることが避けられない時代。一度身につけたものが通用しなくなって、学習棄却して学びなおす局面は今後も増えていくだろう。40代であれ50代であれ容赦なく、時代は変化を求める。

有効とされて必死に覚えた知識・スキルがいつの間にか価値を失っていたり、「これが当たり前」と言われて身体にすり込んできた行動様式・規範・価値観が、ふと気づくと非推奨のふるまいに変わっている、なんてことが起こる。これを自分で気づいて棄却するのは、けっこう骨が折れる作業だけど、できるだけ「あぁ、変わったのね」と軽やかに、通用しなくなったものは棄てて新しいものに適応できる柔らかさをもっていきたい。そのほうがだいぶ、生きるのが楽そうだ。

*1:「授業を変える 認知心理学のさらなる挑戦」米国学術研究推進会議 編著/北大路書房

2014-10-15

境界線を引く人

最近は人と会って話し込んだり、本を読んだり、考え事に至らぬぼんやりとした思索で時間が流れていっていて、インプット期間といえば聞こえはいいけれど、役立たずといえばそれまで…というような過ごしようだった。今日久しぶりに仕事の本を読んで、あぁしばらく現実世界の本を読んでいなかったんだなと自覚した。そろそろこっち世界に戻って役に立たねば。ということで、ここで一区切り入れるために、ぼんやりとした「境界線」関連の話をメモしておく。

僕たちが『存在している』と認識しているものはすべて、僕たち自身がそういうふうに存在するように『区別』しているからこそ、そういうふうに存在しているのであり、決して『そういうもの(実体)があるから存在している』のではない(*1)

というわけで、噛み砕いて言うと(言ってもらうと…)

本来、世界の真の姿とは、「AともBとも言えないような、どっちがどっちにとも言えないような、そんな全てがドロドロと混じりあった海のようなもの」なのだ。僕たちは、そんな「ドロドロの海(全てがつながった巨大な関係性)」の中から、わざわざ「これをA」「あれをB」として区別して切り出し、また、「A→B」という特定の方向の関係性のみを切り出し、「○○現象」などと名付けたり「AがBにした」などと語ったりしているのである。 もちろん、そのような「名付け」「語り」は、何らかの「価値基準」で切り取った世界の「一部分」にすぎないのだから、その「名付け」「語り」が世界(全体)を正しく表現するということはありえない。(*1)

というわけなのだなぁと…(お任せすぎる)。

境目のない世界に、境界線を引く。境界線を引くのは常に人間であり、人間が何らかの価値基準に従って、言葉を与え、どこかに境界線を引き、区別を生み出している。逆に言えば、そこに誰も何の価値も見いださない限り、そこはドロドロと混じりあった海のままなのだ。境界線は引かれないし、言葉は与えられない。

だから、どんなふうにも、境界線は引けるのだ。人力で境界線を引いて区別しているのだから、人力でその境界線を消して引き直すこともできる。混沌としたドロドロの海のまま、境界線を引かずにおくこともできる。不用意に、意味のない言葉を与えないこと、下手に区別を持ち込まないこともできる。人力でしか、境界線は引けないのだから。

どんなところに意味を見いだし、どんなところに価値基準をおくのか、その信念によって境界線の引き方が変わるから、そこんとこを、慎重にやりたいなぁと思う。明るい意味をもつほうへ。

そして、素はできるだけ無でありたい。用を果たしたら、もとに戻って価値基準をできるだけまっさらにする。そうやって案件、用件ごとに「行って帰る」ができるのが理想かなぁと思うんだけど、やりすぎると今以上に味気ない人間になってしまうのかもしれない。

それはとりあえず保留としても、最近読んだ別の本にも「境界線」という言葉が出てきて、上と重ね合わせるようにして味わった。いろんなところで境界線の上に立っている人がいる。自分だって、あるところでは立っているのだろうし、この先新たな境界線に出くわすこともあるだろう。そこに立つ人の気持ちに心を寄せる思慮深さを大事にしたい。

自然を守ろう、環境破壊はいけないことだというのは簡単で、まったく正しいことのように思えますが、電気を使い、文明がもたらす便利さを享受しているのは、ほかならぬ自分たちであることも、見逃すわけにはいきません。 境界線の上に立つ、というのは、たとえば、そういうことです。 どちらか一方が正しいと信じこんで、疑いもしない人間は、もう一方を、理解しがたい他者として糾弾して排斥しようとするかもしれない。理想を掲げて声高に自分の主張をする人間は、しばしば、そういう己の傲慢さに気づかないものです。 のぼせやすく、そのことで失敗ばかりしていた私は、自分が、そういう人間になってしまうことをなによりも恐れました。 自分は正しい。そう強く思うときほど、注意深くなろう。物事は、深く考えれば考えるほど、どちらとも言えなくなるのだから。 境界線の上に立っている人は、私に、そのことを教えてくれました。両側が見えるからこそ、どちらにも行けない哀しみがあるのです。 (*2)

そろそろ、現実世界に戻らねば。

*1「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」飲茶/マガジン・マガジン
*2「物語ること、生きること」上橋菜穂子(構成・文:瀧晴巳)/講談社

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