子どもと遊ぶ
このあいだ友だちの家に遊びに行って、彼女の子どもたちと遊んだ。何度か顔を合わせてはいるものの、そんなに頻繁におじゃましているわけでもないので、最初は子どもたちもおっかなびっくり。でも、あのね、あのねと話しかけてくれるので、目をみて、うん、うんと話を聴いていると、粘土で遊ぼうとか、ウルトラマンで遊ぶのだと言って、いろいろおもちゃを持ってくる。
上の子が粘土の固まりを、丸形とか星形の枠でくりぬいて、面に顔を描いて遊ぶので、私も真似して残りの粘土を使って素手で人型を作ってみる。顔の部分に目と鼻と口を描いて、頭の上に波平さんのような髪の毛を一本のばして見せると、「何これ?」と彼。「髪の毛」というと、ケラケラ笑って喜んでくれた。お姉ちゃん、嬉しい。
何にでもなるけど、何になるともわからない粘土という固まり。こういうもので遊ぶのは、すごく楽しいもんだなと思った。できあがっている形を選んで遊ぶのではなくて、なんとも意味をもたない固まりを使って、自分なりの想像力をもって形作るということ。選べる選択肢が限りなく無数になったとき、それを創作というのかなと、ぼんやり思った。
程なくその人型粘土は彼の手によって引きちぎられ、痛いよーというと、またケラケラと笑っていた。
下の子に「こっち来てー」と呼ばれ、ついていくと洗面所。彼が蛇口をひねり、じゃぶじゃぶ水をためて、ウルトラマンやら何やらを水面に泳がす。向かいの部屋のおもちゃ箱から、大きいの小さいの、いろんなフィギュアが登場する。ウルトラマンの黒いやつを渡され、「これは弱いの」といって黒い役を仰せつかる。弱いからにはブクブクーと溺れてみたりして、赤いウルトラマンに助けを求めたりした。助けてくれなかったが…。
しばらく水遊びした後、居間に戻って一休みすると、「ねぇねぇ、さっきの水の大冒険、もう一回やろうよー」と、下の子から声がかかる。あのさっきの遊びに「水の大冒険」なる壮大なタイトルがつけられていることに、お姉ちゃんは感動を覚える。嬉々として、再び洗面所へ。
自然と「ぶくぶくー」とか「助けてー」とか口をついて出るのに気づいて、そういえば昔、妹とよくお人形さんごっこをしていたっけと思い出した。わが家にはなぜかぬいぐるみだけはたくさんあって、よく2人で遊んだ。あのとき、2人でものすごくたくさんの物語を即興で作っていたんだなと、今さら感動してしまった。幼稚園生から小学生の低学年くらいまでだろうか、何年間かにわたって私はずっと日常的にそれをやっていたのだな。それで妹を泣かしたこともたくさんあった気がするけど、そういう中で培われたものがお互いに(ということにする)いろいろあったんだろう。
兄とは近所の子らと連れ立って沼地におりていってザリガニやらおたまじゃくしやら蛙やら取りに行き、どろんこになって遊んだ。兄にはよく泣かされ、妹はよく泣かした。けろっとして、また少し後には一緒に遊び出した。こういうのは、本当にありがたい経験だったなと、今にして改めて感じ入る。
子どもと遊んでいると、いろいろ追体験するようだ。子どものない私には貴重な体験。そして楽しい。が、使う体力はんぱない。世のお父さんお母さんには恐れ入る。改めて脱帽です。
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