相談にのる難しさ
今は特にカウンセリング業というのはやっていないんだけど、人の相談をきく機会というのはいくらかある。人の相談をきくというのは、すごく難しい。その難しさを、ものすごく分かりやすく書いてある文章に出会ったのでメモしておく。
これは、私が尊敬する河合隼雄さんの著作「私が語り伝えたかったこと」の一節。心理療法家の河合さんのところに、警察が人を連れて訪ねてきたとして、なかなか人の役に立つのは難しいことを示す例である。
警察の人が、「ちょっとこの人、困ってるんです」というので連れて来られる。見たら服装は変な、汚いのを着ている。「どうしたのですか」と言ったら、「自分の住んでる所が分からない。自分の家が分からない。家が分からないけど、家に帰りたいんでどうしたらいいか」といって警察へ入って来た。そんな人、どう話をしていいか分からない。しかも、どうも耳もあまり聞こえないみたいだし筆談をやっていたら、自分の名前も「何だったかなぁ」などというぐらいになってくる。「結婚してるのですか、お宅は?家族は?」と言うと、「五十近いけど、結婚していない。恋愛はしたことはあるけども、失恋して、もう死のうと思って遺書も書いた」。「そうすると、一人でいるんですか」と言うと、「いや、養子といるんだけども、養子の家とめちゃめちゃもめて、けんかばかりしてる」と。そういうふうに何を聞いてもいいこと一つもないのですね。そういうおじさんが警察に連れられてやって来た。そういうときに皆さんはどうしますか、と。その人に、「もうちょっと普通の服を着るようにして、できたら結婚でもして、養子とも仲良くなって暮らしたらどうですか」というふうなことをいうほうがいいのか、悪いのか、なかなか難しい。
「この人の名前を聞いたら、みんな迷うと思います」と続けて正体を明かす。答えは、ルードビッヒ・バン・ベートーベン。
このベートーベンさんが私のところへ来られて、私も一生懸命になって、とうとう服装もちゃんとされて、みんなとニコニコ話をするし、養子とも仲良くなる、そして結婚もされまして、非常にめでたいとなったとします。もう作曲は全然おやりにならなくなりました。ということになるのではないでしょうか。そう思いませんか。
私はベートーベンの伝記を読んでいて思ったのは、何かベートーベンが自分で自分を縛っているというか、自分を不幸なほうに不幸なほうに追いやっているような、「もうちょっと、あんた、うまいことやったらいいのに」と言いたくなるようなときに、だいたい下手なことをして、ふと気が付くと、八方ふさがりという言葉がありますが、七方ふさがりにしてしまって一方だけ開いているのです。何が開いているといえば音楽です。その全部を込めたものすごい大変な人生を、ただ音楽という世界だけにちゃんと表現していて、その表現はベートーベンが死んでから、いまだにわれわれはそれを聞いてものすごく感激するというものを、あの人は作ったわけですね。だから、そういう人が来られた場合に、僕らは何ができるだろうというふうに考えると、これはすごく難しいことです。
相談を聞いているときというのは、とにかく目の前で相談者が話をしているとか、そういう状態なわけで、それ以外に「目の前の事実」というのはない。そういう状態で、単に「目の前の事実」だけをもとに、その時代その文化圏にポピュラーな解答を示しても、なかなか本質的にその人の役に立つことは叶わない。
どれだけ時間の尺を広げたり狭めたり調整しながら、その人の直近の問題、数年先の現実的な問題、人生の問題、時には時代を超えてその人の死後も含めた可能性を見据えて話を聴けるかということになってくる。
そういう時間の尺の話もあれば、その相談をどんなフレームで捉えるかという話もある。局所的で小さいけれども奥行きのあるフレームで捉えるべきか、とにかく広大なフレームで捉えたらいいか。そこにも、いくらでも段階は設けられて、1mm単位で大きさを調整しながら、こんな枠組みかなぁと頭を巡らしつつ話を聴く。
はなから「できっこない」という偏見があったら話にならないし、現実的な難しさを無視して「できる、できるよ」と励ましても相談は煮詰まらない。その人の想定している大きさや深さを、漠然とでもイメージを共にできなければ、相談以前に話が噛み合わない。
その人が何を大事にしたいのかという焦点を見誤ってもキャッチボールにならないし、その人が潜在的にもつ可能性というものに信頼をおかなかったら、見えるものも見えてこない。相手の心に手を伸ばすようにしてすくい取りながら(イメージです)、フレームを入れ替え差し替え、物差しを伸ばし縮み伸ばし縮み、フォーカスをあわせて話を聴く。受け取って、返す。これは、相当に難しいことだ。
この本の別の章で「アイデンティティ」についても言及がある。アイデンティティって「私は私である。私以外の何ものでもない」という単純なものではなくて、「私は私であって、私でないものでもある」というふうに西洋でも考える向きが出てきているし、日本人はもともとそういうふうに自分のアイデンティティをイメージする人が多いようだ。
ニュートン、ガリレオが言い残したことも「私」の意見の中に入っているし、父や母がかつて生きた生き方も、「私」の中に入っている。「私は私であって、私以外のたくさんの何ものかでもある」というふうに捉えたほうが、「アイデンティティの問題はもっとおもしろくなる」し、「私、私といっているアイデンティティよりももっと広くなってくる」のではないかと書いている。
私はこってり日本人性質なので、こういう「私」の捉え方が大変しっくり来た。こんな壮大な話をまとめる気もないけれど、そういう広がりをもって人のアイデンティティを感じながら、人の相談を聴きたい。そのためには、長さを自在に調整できる長尺で目の細かい物差しと、形や大きさを自在に変えられる柔軟なフレームが必要だ。それを使って入れ替え差し替えしながら、中心をはずさず話を聴くこと。そういう道具を磨きながら、相談してくれる人との間に見えるものを少しずつでも豊かにしていけたらと思う。
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