時間は自分のなかにある
入り組んだターミナル駅の構内なんかを歩いていると、故障したかなにかで止まっているエスカレーターに遭遇することがある。点検・修理中だと立ち入り禁止になっているんだけど、まだ手つかずの状態だと、その止まったエスカレーターをみんな昇ったり降りたりしているので、私も利用する。
この経験が一度でもあるたいていの人は、止まったエスカレーターに突入するところで歩く速度を落とし、最初の一歩を慎重に踏み出すに違いない。私はその後の一段一段まで気を抜かず、普通の階段の昇り降りとはまったく違うという心構えで足を運ぶ。脳内シミュレーションして相当慎重に臨んでも、身体がついていけず、つんのめってしまうからだ。
ここ、つまり、止まったエスカレーターの上は身近な異次元空間だ。そのシチュエーションにはなかなか遭遇できないけれど、場として見ればごく日常的な、時間の停止を疑似体験できる空間と言えよう。そんな体験、大金も払わずにできるなんて思いもよらないので、今日までそんなふうに考えたことがなかった。浅はかだった。今度機会が巡ってきたら、もっと大事に味わおう。
それにしたって、あの疑似的な時間消失体験で得られる違和感は、体に深く刻み込まれて忘れることができない。体が時間に乗っていないというのは、なんとおかしなことだろうか。今もそのおかしな感覚を、もやりと身体が思い出せる。
逆にとらえると、夜眠りにつこうと部屋を暗くしても横になっても、私の体はいつだって時間が動いている前提なんだなぁと気づかされる。人の無意識は、その動力の働き続けるのを自然のものとして生きているのだ。と、かれこれ長いこと、人は時間と空間を前提に生きているという当たり前のことを、つらつら文章にして書いているだけなのだけど。
止まったエスカレーター以外で、時間が止まっているのを目の当たりにした経験はもう一つあって、それは自分の時間は止まっていないのに、目の前の人のなかの時間が停止したというやつだ。母が息を引き取ったとき。あの光景は、時間というのは人のなかにあるんだ、というのを痛烈に感じさせる。
人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。
先ほど読み終えた、時間どろぼうの名作として知られるミヒャエル・エンデの「モモ」より。
今日は若干無理くりな感もあるが、11時から19時まで急遽休暇とし、たまった振休を消化中。拾い物のような時間もまた、儲けもん的味わいがある。夜の打ち合わせにそなえて、そろそろ仕事モードを復活させねば。
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