行き先は自由
おとといの日曜日、昼過ぎにふとiPhoneに触れたら「12:12」だった。そこから本を読んだり場所を移動したりして次にふとiPhoneに触ったら「13:13」だった。おおぅ。そこからまた、本を読んだり場所を移動したりして次にふとiPhoneをさわったら「14:14」だった。おおおぅ。さすがに三度目はびっくりした。こういうことって、なんで起こるんだろう。しばらく考えてみるも、答えの当てはない。
こういうのって、怪奇現象的にとらえる人もいれば、なんかいいことあるかもしれない!と意味づける人もあるかもしれないし、何かそういう時期なのかしらと「時」にフォーカスする人もいれば、何か私すごい力が備わってるんじゃないかしらと「自分」にフォーカスする人もあるかもしれない。答えの当てがなければ、行き先は自由だ。
「なぜ?」と問う人間だからこそ不思議現象になるのであって、「なぜ?」と問う人間がいなければ不思議現象は生起しない。とすると、ことの発端は人間が「なぜ?」と問う生き物だから、という行き先もありかしらとか、ごちゃごちゃ考える。
最近の世の中はどうも不穏なことが多く感じられるのだけど、ことに向き合った自分の行き先は自由なんだよな。巡り合ったことに注意を向けるのも向けないのも、どの側面に注目して、何を受け流すかも、どんな意味づけをして、どんな意味を与えず踏みとどまるかも自分次第。自分がその世界をつくってる。
そして自分次第でありつつも、自分は広大な無意識と無知と未知の世界に放たれている。何かには気づいていて、だからこそそれに注意を向けているわけだけど、一方であるところから先は見えていないのであろうし、そのことに気づけていないのだろうし。自分が何かにこだわってそれを注視しているのだとすれば、その死角で何かを見逃していたりするのだろうなと。なんらかの自分フィルターごしにそれをみているのだとすれば、何かを見誤っていることもあるんだろうなと。
情報化社会のなかで生きていると、ものすごくたくさんの情報に触れる機会はあるんだけど、実際に自分が真っ当に取り扱えるだけの力量をもった情報ってすごく少ないんだろうと感じることが多くて、危なっかしいなぁと思う。危なっかしいなぁと思いつつ、うまいことつきあっていくしかないんだろう。行き先は自由。広大な無意識と無知と未知の世界で自分が行き先を決めていることをわきまえて、うまく舵を取っていくのが大事なんだろう。
そして自分がきちんと内奥に迫れるところ、自分がその先に意味を見出せるところを軸にして、しっかりやろう。しばらくずっと忙しい日々が続いている。これが、私がしっかりやるところなんだろう。そこをしっかりやる。
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