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2014-05-25

慣れない心意気

とある打ち合わせの席で、雑談。その方いわく、以前とある社員研修か何かの場で、みんなが「A4サイズの紙を4つ折り」していたときのことだそうだ(A4紙を上手に折る研修ではなかったと思うので、たまたま目にしたんだろう)。

「A4紙を4つ折りするときって、ふつうは両端あわせて真ん中で2つに折った後、もう一度真ん中で2つに折ってきれいに端をそろえるじゃないですか。なのに見てたら、1/4くらいかなというところで適当に折って、それを繰り返して結局うまく端が合ってないって人がいて…」という笑い話(実際は、手元で実演してくれたのでもっとわかりやすかったんだけど…)。

私が「3つ折りじゃなくて?4つ折りだったんですか」と尋ねたら、4つ折りにする場面だったというので、「それは挑戦ですよ!」と返した。その人は、目見当でうまく端を合わせる挑戦をしていたのではないか、と思いついたのだ。「面白いこと言いますねぇ」と笑われつつ、「確かに○○職だと、そういう能力は必要かも」なんて話を伺いつつ、雑談は終わった。

その場では私も半分冗談で言ってたんだけど、実のところ、これは私のように学習支援を生業にする人間にとって大切なポイントだなぁと振り返った。

というのは、特に「自分が教える側、相手が学ぶ側」という向き合い方をした場合、相手が何かを「やらない」ことを、そのまま「できないから」と結論づけてしまうのは、あまりに簡単で、誰でも陥りがちなことだからだ。

その経験を重ねて、「人に教える」立ち位置から人をみることに下手に慣れていくと、「やらない」ってのは「できないから」「その能力がないから」という見立てを、あらゆるシーン、あらゆる人を相手に適用しだしてしまう。

そこに決して魂を売り渡さないで「いつまでも慣れない」ことが、プロとして従事する人間には欠かせない。たくさんのパターンを知りながら、むやみに自分の知るパターンにあてはめないで現場の仕事にあたれるのがプロってもんだろう。

「この人が○○をやらないのは、○○ができないからだ」というのは、何も考えないで出せる唯一の解ではないか。素人にもできる、最も簡単な見立てだ。そこを、単純にそう結論づけない、あるいはもう一歩ブレイクダウンした洞察と仮説を立てられるのがプロの仕事だ。

だとすると、洞察力や仮説力も大事だけど、安易なところに魂を売り渡さない心意気ってのが大事だと思うんだな。魂を売り渡してしまったら、その人のいろーんな可能性をイメージするって初動がとれなくなってしまう。

その人の学習を支援したいのが幹にあるなら、自分の限られた情報、知識、想像力の世界でその人の今も今後も、安易に決めつけたりせず、発想を豊かにして、どう貢献できるかを考えたい。素直に、実直に、真摯に。

2014-05-18

情報のまちがいを見抜く目

言わずもがな、世の中は情報で溢れかえっており、いまや発信元は法人個人さまざま、権威友人知人他人もごちゃまぜで、発信者のバックグラウンドも多種多様だ。情報の根拠・精度もまちまちなら、情報が発信された背景にもいろんな人の思惑が絡み合っているふうで、書き手の文章力もさまざまなら、読み手によっても受け取るものがちがってしまう。「正しい情報とは何か」というのは、大変に難しい時世だなと思う。

だけど、だからこそといってもいいけれど、「まちがった情報とは何か」というのを一旦立ち止まって整理しておくのは悪くない。最近読み返した本に、これに言及する内容があって、なんだか身にしみたので、とりあえずリストを書き留めておく。

次のまちがいリストは、議論の技術や科学についての理論家や専門家によって整理された一覧(*1)を、R.J.Marzanoら(2003)が大きな4つのカテゴリーに分類したもの (*2)。私たちは情報を発信するときも、受け取るときも、こうしたエラーをおかしがちだ。

ほんとうは、いろんな具体例をひきながらまとめたいところだけど、あれこれ考えていると切りがなくて何時間も経ってしまうので、とりあえずここに項目だけ並べておく。都度、身のまわりの具体例と照らし合わせながら吟味したい。酒の肴にしたら、一項目で一杯いける感じがする。

4つのエラーカテゴリー

●論理のまちがい(7種類)
矛盾:相矛盾した情報を提示してしまう
偶然の一般化:例外をもとに論証していることに気づかない
原因の誤認:出来事が起こった順序が乱れて因果関係がおかしくなったり、出来事の背景を単純化しすぎる
先決問題要求:主張の根拠が、主張の言い換えにすぎない
論点回避:論点について触れないようにトピックを変えてしまう
未知論証:「対立する主張が立証されていない」ことを根拠にして主張する
合成/分割:一部しかわかっていないのに全体について主張する(合成の誤謬)/全体の傾向をもとにして、それがあてはまらない場合もあるのに、部分についてその傾向を主張する(分割の誤謬)

●攻撃(3種類)
井戸に毒を入れる:説明しようとする立場に完全に入れ込んでいるため、自分と反対の立場の人が示すものすべてを否定する
人身攻撃:人の主張を、(真実でも疑惑にすぎなくても)その人への評価の低さをもって退ける
権威濫用:主張の妥当性に権威を用いる

●参照における弱点(5種類)
偏見による判断:正しいと思っていることを支持する情報を受け入れ、それに反する情報は否定する
信頼性の欠如:対象となるトピックについて、信頼できない情報源を用いる
権威論証:論点に関して最後に権威を持ち出す
多数決論証:主張の正当性の根拠を、その人気に頼る
同情論証:かわいそうな話を根拠に主張する

●誤情報(2種類)
事実の混乱:正しそうに見えるのにすでに正確ではなくなった情報を用いる
概念や一般概念の誤用:概念や一般概念を誤解したり間違って使ったりして主張する

義務教育の情報リテラシーとかは、この辺をブレイクダウンした学習教材をつくって、まずは世の中にあふれる情報の読み方を学ぶと良さそう。大人社会は手をつけられないほど混沌としている気がする今日この頃だけど、情報に振り回されず、うまいことつきあっていきたい。

*1: Johnson-Laird, 1983; Johnson-Laird & Bryne, 1991: Toulmin et al., 1981
*2: R.J.マルザーノ、J.S.ケンドール著「教育目標をデザインする」(北大路書房)より

2014-05-12

歯ブラシと愛着と

私は歯ブラシを3本所有している。家の、会社の、カバンの中ので3本。日に、だいたい5回磨いている。朝起きてすぐ、会社で朝ご飯を食べた後、昼ご飯を食べた後、夜ご飯を食べた後、寝る前で5回。

健康・美容には極めてずぼらな人間だが、こうやって考えると歯の手入れは褒美をつかわしたいほど小まめだ。その割りに今は歯医者通い中で、毎週のように痛い目にあっている。話はとぶが、今日は目医者の日だった。今日は先生に、そろそろ年貢の納め時だと言われた。手術の日も近い。これも震い上がるレベルに憂鬱だ。いろいろとガタがくるお年頃なのだ。

それは置いておいて、今日は明るく楽しく歯ブラシの話を書きたい。日に5回の歯磨き、これを毎日と考えると、人生における歯ブラシとの関係はあなどれない。

しかしながら、私は生まれてこのかた歯ブラシというものを気にとめたことがなかった。普段はもちろん、買い求めるときすら、なんとなくくたびれてきたなと思ったときに、なんとなく適当なものを手にとって買い替える、これを何十年と繰り返してきた。

自分がどこのメーカーの、何というブランドのものを買ってきたかもわからないし、柄の色ですらこれまでピンクが多かったのかブルーが多かったのかわからない。

「家」のものは家の近所のドラッグストアに出向き、歯ブラシ売り場で目線の高さに陳列されているものから、硬さが「ふつう」というのを唯一意識的に選んで、あとはそのとき店が無言に薦めるがまま従ってきた。

「会社」「カバンの中」のものは会社近くのコンビニで、お昼購入ついでに買う。会社近くのコンビニは、お昼時間に行くとレジ待ちで長蛇の列ができる。ちょうどその列のところに、うまいこと歯ブラシが陳列されている。コンビニのそれは選べるほど品揃えがないから、歯ブラシと歯磨き粉がセットになった携帯用は選択の余地がない。コンビニという流通を制するものが、私の会社用、携帯用の歯ブラシを制する。

つい先日のこと、家用の歯ブラシを買い換えようと近所のドラッグストアを訪れると、目線の高さに同じブランドの歯ブラシがズラリ並んでいて圧倒された。同じブランドなら、あとは硬さで、ふつうか柔らかいか硬いかの絞り込みをすれば終わりと思っていたのに、そのブランドはどうも全部が違うもので10本をゆうに超えて20本近く別の商品が並んでいたのではないか。極細とか、0.2mmとか、大きな文房具屋のボールペン売り場のような装いで、「ここから選べと?」と、くらくらした。

ブランドは「メディオーラ」。聞いたことないなぁと裏をひっくり返してみるが、製造元は知らない社名。大手というふうじゃない。少しよそ見してみると、デンターシステマ(ライオン)も、GUM(サンスター)も、4列だ毛腰タイプだ超先細だと、品揃え豊かだ。

あちらからもこちらからも「あなたにあったものを!」と選択を迫ってくるのだが、「3列か4列か」「細か極細か超極細か」「レギュラーかコンパクトか」と問われても、意識の低い市民には特別これという希望がない。硬さすら、柔らかいのが好きとも硬いのが好きとも希望がないから「ふつう」を選んでいるまでで、「ふつう」がちょうどいいなぁと思って意欲的に選択しているわけじゃないのだ。

自分がこの辺に相当ずぼらであるという自覚はあるので、こだわりある人向けなのだろうと不戦敗し、下にかがみこむ。下のほうには、硬さしか選択の幅がない意識低い人向けのブランドがあるんじゃないかと考えた。読みが当たり、硬さしか選びようがなく、馴染みのブランド(クリアクリーン)を見つけたので、それの「ふつう」を買って帰った。これはつまり、硬さ以外は全部、私たちがちょうどいい感じにノーマルに作ってありますからご安心くださいってことなんだろう、と都合のいい解釈を胸に抱いた。

それにしても、メディオーラはデンターシステマもGUMもおさえて、主役扱いの陳列。あれは今や世の中で、よく知られたブランドなんだろうか。そう思って家に帰ってから、ネットで調べてみた。が、検索に全然引っかからない。ブランドサイトもないようだし、Amazonでも売っていないよう。最寄り品だから流通にお金をかけてるのか。限られた情報をたどり、購入者のブログ記事でメーカー名を確認できたので、メーカーサイトへ行ってみた。

製造元は、大阪にある稲田歯ブラシという会社らしい。サイトのメニューに「OEM」とある。大手メーカーさんの歯ブラシも、あるいはここで作っているのかもしれないなどと思いつつ、創業が昭和11年かぁと感服しつつ。Facebookにもページを作ってあるようだったが、見にいってみたら「いいね!」が0件。ページ作った人も「いいね!」押してないのか…。そんなこんな、しばらくページをめくっていると、なんだか愛着がわいてきて、次はあれ買ってもいいかもなぁなどと思い始める。あれがどれかはわからないが…、あれの中のどれかから。こんな潜在顧客の作られ方もあるかーと個人的には面白くたどってみたが、あんまり参考にならないかもしれない。

時間をかける、時間をかけて関わるというのは、非効率と一刀両断されがちなご時世だけど、物事のたいていは両面をもっている。自覚的に時間をかけたのであれ、結果的に時間がかかったのであれ、時間がかかる行いというのは、例えば「愛着」というのを生むんであるな。愛着、実に人間らしい。そうだな、時間をかけると「定着」するって類いもある。「着」するのが時間をかけて行うメリットか。

最後に書くのもなんだけど、このブログにさしたる意味や結論はない。気の抜けた話をだらだら書きたかっただけだ。すっきりした。

2014-05-07

知識活用と濫用のはざま

ゴールデンウィークのはざま、Yahoo!ニュースで、学生がキャリア選択で重視するのは「ワーク・ライフ・バランス」という記事が取り上げられていた。

「若い時分からワーク・ライフ・バランスとか言ってないで働け」という大人の反応を引き出したい記事なのかしらと穿った見方をしつつ読み終えた後、Twitterの反応をみてみたら「ほにゃらら相互フォロー」というよくわからないアカウント名のtweetで埋まっていて、なんだかなぁという感じに終わっていた…。

それはさておき、個人的に関心をもったのは、記事より調査そのものだ。学生に対して「キャリア・アンカー」を使って仕事の価値観を問うているのに、違和感を覚えたのだ。

キャリア・アンカーというのは、キャリア研究の世界ではよく知られるシャイン氏が提唱したもので、「キャリアを歩む上でけっして断念したくないほど大切なもの」を8つのアンカー(いかり)として表したもの。

例えば、仕事を選ぶとき、自分の専門を究められるところを第一に考えたい人もいれば、一つのことを究めるよりいろんな部門・職域を体験して人を率いる立場に昇り、組織全体でできることを大きくしていくのが面白いという人もいる。

どんな仕事に携わるかより、自律的で自由な職場環境が欠かせないという人もいるし、安定した仕事、あるいは仕事とプライベートのバランスを何より重視する人もいる。

起業家とひとくくりにいっても、何か立ち上げたい事業アイディアがあるから起業したい人もいれば、これという事業アイディアがあるわけではないけれども、事業を起こして成功させるという挑戦に生きたいがために起業する人もいる。

どれが、より素晴らしいといった優劣や善悪はない。8つの価値観をフラットに眺めてみて、これだけは断念できないという自分のアンカーを知っておけば(また優先順位を知っておけば)、キャリア選択の際、自分の仕事観に照らして答えを検討しやすいだろうという、そのためのツールだ。自分の価値観を否定的にとらえている人にとっては、こういう仕事観もあっていいのかと自分を許せる、自己肯定のツールにもなる。

この調査では、「あなたはどれを重視する?」というのを、学生が答えやすい8つの選択肢に展開して問うている。調査内容は、こちらのアイデム「2015年度就職活動に関する調査」24ページで確認できる。

ただ、自分のキャリア・アンカーは10年ぐらい仕事経験を積まないと見えてこないと言われている。仕事でどうしても犠牲にしたくないものって、実際に仕事に就いて、仕事内容や環境がいくつか変わる経験をもってはじめて、実感をともなって見えてくる。シャインはそのように話しており、私もそう思う(個人差はあるだろうけど)。

本人の内側に十分な仕事観が育まれていない状態でキャリア・アンカーを問うのは、学生に対して「自分をより深く知る」機会を提供するより、「早計に自分の価値観を狭めてしまう」作用を懸念した。それが冒頭に述べた違和感。

ただ、これは学生へのメッセージではなく調査としてやっているものだし、全体像を知らない立場で特別これに批判的な思いを寄せるわけじゃない。自分ごととして、この間EC業界で働く社会人向けに講演する機会があり、私もちょうどキャリア・アンカーを取り入れて話をしたので、それについて考えた。

私は社会人向けを前提にこのネタを採用したので、それは良しとして、例えばもし同じ話でいいので学生向けに講演しろという依頼があったとき、私はキャリア・アンカーの話を取り外す検討を怠りなくできただろうか。この一件で考えることをしなければ、組み込んだまま話してしまっていたかもしれないと思うと、冷や汗をかく(別に学生向けに話す予定があるわけじゃないが)。

必ずしも抜くことが正しいと思っているわけじゃない。場合によっては、「これは実際働いて10年くらい経ったときに見えてくる軸だと言われているんだけど」と言い添えて、「仕事をやってみて初めて見えてくる価値観も、こんなふうにあるから、まずはやってみよう」と促すツールとしては有用かもしれない。ものは使いようだ。でも、考えなしに採用すべきじゃない。

理論自体の責は、その理論の提唱者にあるけれども、その理論をどんな文脈にのせて何の目的で誰に向けて提示するかは、語り手の責だ。自分が講演する立場としても、講師を手配して学習の場を提供する立場としても、改めて肝に銘じたい。細部まで、怠りなく、届けたい人に向けて作りこむこと。

また情報にあふれた昨今では、理論を聞きかじることが多いだけに、普段から身の丈にあった理論とのつきあい方をしていきたいと気が引き締まる。副作用を知らず、その薬のメリットだけで薬を処方するようなことは、人に対してはもちろんだけど、自分に対しても厳に慎みたい。

一方で、身の丈にあった理論やツールの活用をしていけることも、大事なことだ。おっかなびっくりになり過ぎて、触れない使わないではもったいない。自分が直面していることの目的に応じて、うまく理論やツールとつきあっていきたい。バランス大事。

そのための基本的な約束ごとの一つが、その理論なりツールなりを知るときに、それの外側にも目を向ける心がけ。それの中身を知ると同時に、それの上の階層にあがってそれがどんなものか捉える、それの隣や対極にどんなものがあるかを捉える。

そうすると、こういうときには有用だけど、こういうときにはそぐわないという活用と濫用のはざまが見えてくる。「それ」以外のことを知らずして「それ」を知ったとは、決して言えないのだ。

2014-05-06

講演から、公園へ

しばらく、ここに文章を書く余裕なく時が流れた。2〜3月のどこかから4月半ばくらいまで、多様な案件に恵まれ、大型案件はラストスパートへ、緊張は日に日に高まる一方で、仕事に明け暮れて過ごした。4月半ば、年末から取りかかっていた案件が一段落し、4月末、ある会社で大勢を前にキャリアについて講演するという慣れない仕事を終え、ここまで駆け抜けて、ぷはぁっとゴールデンウィークに突入した。

ゴールデンウィーク中、友人と都内の大きな公園をぶらぶら歩き、時にはベンチに腰かけて、新緑を眺めながらおしゃべりする機会が二度あった。普段なかなか公園に足を踏み入れることがないので、立て続けにそんな機会に恵まれたことを意味深く受け止めた。

講演から、公園へ。はぁ、なるほどなぁ。しばらくどっぷり仕事人間した後、締めくくりに「自律的にキャリアを開発していく必要がある」という趣旨の講演。公園散歩は、その役割を脱いで、自分がもとの定位置にもどる儀式だったのかもしれない。って書くと、相当に大仰な意味づけだが、気の置けない友人と公園を歩いた後の脱力は、結果的にそういう意味をもった。

講演というのは、その場に求められる登壇者としての役割を負って話すことになる。こういうメッセージを贈ってほしいんですという主催者の意思を汲んで、「では、私はこういう立場の人間として、こういう構成で、こういうメッセージを発しよう」ということを形づくって臨む。会の趣旨、登壇者、話すテーマによっても違うだろうけど。

もちろん、そこで話すことは、私が心から思っていることだ。だけど、そこで話すことが、私が心から思っていることのすべてじゃない。そんな短時間に、こうも思っていますが、こうも思っていますとか、自分が思うことを並べ立てても仕方ないわけで、例外も挙げだせば切りがないから、そこで求められるメッセージにそって、自分の能力の及ぶかぎりシャープに話を構成することになる。だから、私のある部分を取り出して、そこで求められる役割として人格化して登壇するのだ(と書くと、たいそう立派な登壇者のようにうつって実際にそぐわないが、まぁとりあえず)。

で、講演が終わった時点で、「こういう立場の人間として、こういう構成で、こういうメッセージを発しよう」という役割を脱いで、部分的な私から、もっと混淆する本来の定位置に戻さないと、どうも私という人間が中途半端になってしまうわけだけど、慣れないものでその着脱を意識的にできていなかった。

しかし、友人と公園を歩き、新緑を眺めながらあれこれ話しているうち、自然と役割を脱いで、もっと混淆する自分というのに戻っていって、ずいぶんすっきりした。混淆する自分に戻ってすっきりするというのもおかしな話だが、まぁそのほうが自然体ということだろう。

今後もしキャリアについて話す機会をもったときは、この着脱を意識的にやりたい。そういう意識があると、たぶん話す内容も変わるだろう。今回話すメッセージとは対極にある考え方も取り入れながら、両視点から大事なことを整理して伝えられたらいい。というのは言うは易し、行うは難しだけど。

とりあえずゴールデンウィークはけっこう脱力して過ごせたので、これから始まる2014年第2部も気持ち新たに頑張ろう。

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