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2014-03-17

「変わってる人」という称号

この間、「hysさんて変わってますね」と言われた。「変わってる人」という称号を与えられたとき、私はまず身構える。放っておくと、その回数を指折り数えて「私よく変わってるって言われるんです」と言う人になってしまうのではないか、と怯えるのだ。

それで、意識的にその言葉を鷲掴みにして、自分の心に下手に定着しないようにもぎ取るというのを、若い時分よくやっていた。今では放置してもそういう心配はなくなったのだけど、「身構えて適切に対処する」という初動は癖づいているところがあってなかなか抜けない。

自分に自信がない状態で無防備にあれを受け取ると、無意識にその称号に寄っかかり出すのだ。今のまま自然体でいても、私は世の中において希少性高い存在と、許された感覚に甘えたくなる。自分の存在に不安があればあるほど、そこに安住したがる。だから若いときなんかは、この称号を与えられると、どこかで喜んでいた気がする。しかし、それはまやかし物であり、不安からくる拡大解釈だ。

我々は「あなた変わってますね」と言われる体験には希少性がないことに、気づかなくてはなるまい。

誰も悪気なくして、「君ってほんと凡人だね」なんて念を押して言わぬものだ。私は悪気なく言われたことがあるけど、それこそ稀な体験だろう…。一方で「君って変わってるね」とは、極めて変わってる人だと思わなくても、ちょっとした会話の中でいくらでもあがるものだ。世界中で一日に何万件、何十万件と発せられているに違いない。

しかし、私は自分のことをことさら凡人と強調したいわけでもないし、変わってる人と信じたいわけでもない。

人は基本的に個別性をもつ生き物だ。そういう意味では、みんな変わってるとも言えるし、みんな他人と違う面があるという意味では、みんながみんな変わっているのだから、みんな変わらないとも言える。日本語大丈夫か…。

ほんとどこにもこれといって特徴のない、どっかから持ってきたものの寄せ集めみたいな人もいるよ、と言う人があるかもしれない。あるいは、自分自身をそのように感じている人がいるかもしれない。

それが本当にそうだとして、私は、それは、今のところ未分化なのだと捉える。人間は、個別の種を持って生まれている。しかし、分化するのは生まれてからだ。分化させるのは環境であり、また自分自身の意思だ。その繰り返しの中で、私たちは他と違う人になっていくし、バイオリズムだってあるから、生まれてから死ぬまでいつだってむきむき成長を欲し続ける人も稀だろう。なんだかんだと長い時間のなかで、成長の分化プロセスが死ぬまで続いていく。私は人の可能性をそんなふうに信じている。

もちろん、未分化に終わる個体もある。個別性を育むことを拒否する個体もあるかもしれない。私はその個体に対して、こうすべきという答えをもっていない。ただ、分化したいという人の支援を、私の仕事としたい。だから、私は人の学習を支援する。人の健やかな可能性の世界に目を向けて生きていきたい。適当に思うことを書いていたら、思わぬ着地点にたどり着いた。

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