歯のかぶせもの
この間、歯のかぶせものが取れてしまって、10年ぶりくらいに歯医者に行った。10年前に行った歯医者でかぶせてもらったのは、10万円するセラミック製のものだった。「金歯や銀歯は保険がきいて安くなるけど、目立つから女性はとくに嫌でしょう。セラミックは白いから目立たないし、10年くらいはもちます。保険がきかないので10万円しますけど。お好きなほうを選んでください」という話で、10年前の私は先方の思うつぼに従順に収まった。
それから10年もった。十分役割を果たしたということだ。しかし、その当時、10年歳とった自分がかぶせものを新調する日がくるなど、思いもよらなかった、というと語弊があるが、想像しなかったなぁという現実が今ここにあって、ちょっと戸惑う。
今は新しいかぶせものを作っている最中だ。特別、価格破壊も起きていなければ、寿命も延びていないようで、セラミック製のかぶせものは「10年もつ10万円」のまま。一方、私のほうは今回が最後かもしれないなぁという感じがあって、そんなことさすがに10年前は思わなかったなぁと、この10年の年月、この10年に起こったこと、その過程で身についた自分の死生観を思うのだった。
もし、また今回のかぶせものの寿命が来て、新しいのに入れ替えることになったら、今度はさらに「今回が最後かもしれないなぁ」感が強まり、「最後じゃないかもしれないなぁ」感が相当弱まるかと思うと、歯の治療というやつに深い感慨を覚える。
この間、京都の親戚がこちらにやってきたので、一緒に食事をした。叔母が、もうね、何があってもおかしくないから、子どもを「いってらっしゃい」と送り出すときはいつも、もうこれが最後かもしれないって思うの、と話していた。叔母が我が子に寄せる想いに共感するのも失礼な気がして、また父もその場にいたので娘がそれに共感しちゃおしまいよーと思い、ただうなずいて話を聴いたのだけど、私ももうこれが最後かもしれないなぁというのは、人と別れた後にちょいちょい頭をよぎる。
父の世代がよく別れ際に「さようなら」と言うのを、どきっとした気持ちで受け止めるのだけど、いずれ私にも潔く「さようなら」と言える日が来るだろうか。今はまだ度胸がなくて口にできない。まだまだ人生、頑張りどきってことなんだろう。また会いたい、そんな人であふれている。
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