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2014-03-28

「モバイルIAシンキング」が出る

戦友?の坂本貴史さんが執筆した本が出る。「モバイルIAシンキング クロスチャネル時代のIA思考術」というタイトルで、以前出した「IAシンキング Web制作者・担当者のためのIA思考術」のシリーズ第二弾という位置づけ。前作の紹介は、ここでしている。

3年前の前作は、基本PCサイトをベースとしたIA実践書だったのに対し、今回はマルチデバイス時代に対応し、モバイルサイトに焦点化したIA実践書。2冊とも、演習を通じて知識以上のスキルを学ぶことをねらった本だ。

前作同様、本の奥付に「企画協力」というかたちで私の名前を入れてくださっているのだけど、今作はほんと、沿道で応援するおっさん状態の働きしかしていないので、ちょいときまりが悪い。

前作のときは、著者がその執筆に着手する前から一緒にIAテーマの講座づくりをしていて、こちらで演習の設計をした課題も書籍の素材として使われていたから多少の協力感があったのだけど、今回はひと通り書き上げたところで編集者にお声がけいただき、ゲラの演習部分を数個つまみ読み。

本作りも大詰めなら、こちらもちょうど仕事が半端なく立て込んでいる時期で、双方かなり切羽詰まった状態でのやりとりだったので、「課題」の出し方に焦点をしぼって、いくつかの演習に共通する改善提案を一つだけさせてもらった。言うだけ言って、そこからはこちら完全にノータッチ。ラストスパート、著者と編集者でその部分をひと通り書き直していったというから脱帽である。

そして本日、出来立てほやほやの書籍を編集者からいただいた。会社帰り、演習部分をつまんで仕上がりを見てみる。「課題」の出し方に多少もっさり感はあるけれど、やはりお題想定を置いての著者の「思考のプロセス」「回答例と解説」を読めるのは面白い。

実際の仕事の現場では役割分担が前提だから、たとえ同じプロジェクトメンバーでも、AさんもBさんも完全に仕事がかぶっているということはないだろう。一方、研修や勉強会、こうしたトレーニング本では、同じ課題想定で個々人が思考してアウトプットしたものを、複数の人で照らし合わせて吟味できるのがおいしいところ。同じ想定で課題にあたったのに、自分には持てなかった視点、表現できなかったアウトプットを突きつけられ、そこに痛みを伴う発見と学びがある。

演習部分をささっと読んだ感想としては、個々の演習体験から学ぶことより、IAシンキングの長期的な訓練方法を伝えるところに熱が入りすぎていて、演習まわりのポイントがやや抽象的な説明に寄っている感もある。ただ見方を変えれば、著者が日々どんな視点をもってさまざまなサイトを分析的にみているのかを知り、取り入れるヒントが注入されている文章だ。

あと、これは私の見立てにすぎないけれど、著者はIAの実践家然としている人物で、難しい概念をいかに正しく言語化して正しく知識習得するかというのではなく、実務にどう活かすかという実際的な価値に焦点を置く。なので、正確な意味を確認するための辞書的な位置づけではなく、より妥当性高い解の導き方を探るプロセスをたどって実務力を身につけたい人には、良いきっかけが詰まった本だと思う。

書店発売日は4月8日、ネット発売日は4月11日とのこと。興味のある方は、ぜひお手にとってみてください。

2014-03-27

歯のかぶせもの

この間、歯のかぶせものが取れてしまって、10年ぶりくらいに歯医者に行った。10年前に行った歯医者でかぶせてもらったのは、10万円するセラミック製のものだった。「金歯や銀歯は保険がきいて安くなるけど、目立つから女性はとくに嫌でしょう。セラミックは白いから目立たないし、10年くらいはもちます。保険がきかないので10万円しますけど。お好きなほうを選んでください」という話で、10年前の私は先方の思うつぼに従順に収まった。

それから10年もった。十分役割を果たしたということだ。しかし、その当時、10年歳とった自分がかぶせものを新調する日がくるなど、思いもよらなかった、というと語弊があるが、想像しなかったなぁという現実が今ここにあって、ちょっと戸惑う。

今は新しいかぶせものを作っている最中だ。特別、価格破壊も起きていなければ、寿命も延びていないようで、セラミック製のかぶせものは「10年もつ10万円」のまま。一方、私のほうは今回が最後かもしれないなぁという感じがあって、そんなことさすがに10年前は思わなかったなぁと、この10年の年月、この10年に起こったこと、その過程で身についた自分の死生観を思うのだった。

もし、また今回のかぶせものの寿命が来て、新しいのに入れ替えることになったら、今度はさらに「今回が最後かもしれないなぁ」感が強まり、「最後じゃないかもしれないなぁ」感が相当弱まるかと思うと、歯の治療というやつに深い感慨を覚える。

この間、京都の親戚がこちらにやってきたので、一緒に食事をした。叔母が、もうね、何があってもおかしくないから、子どもを「いってらっしゃい」と送り出すときはいつも、もうこれが最後かもしれないって思うの、と話していた。叔母が我が子に寄せる想いに共感するのも失礼な気がして、また父もその場にいたので娘がそれに共感しちゃおしまいよーと思い、ただうなずいて話を聴いたのだけど、私ももうこれが最後かもしれないなぁというのは、人と別れた後にちょいちょい頭をよぎる。

父の世代がよく別れ際に「さようなら」と言うのを、どきっとした気持ちで受け止めるのだけど、いずれ私にも潔く「さようなら」と言える日が来るだろうか。今はまだ度胸がなくて口にできない。まだまだ人生、頑張りどきってことなんだろう。また会いたい、そんな人であふれている。

2014-03-26

一元的な発信を、多元的に受け取る

ワークライフバランスという言葉がいっときよく聞かれたが、高橋俊介氏の「自分らしいキャリアのつくり方」によれば、

仕事とプライベートのどちらを大事にするかという質問に対し、「両方とも大事にする」と答えた人の仕事とプライベートの葛藤にかかわるストレスレベルがいちばん低かったそうである。(名古屋大学大学院の金井篤子教授の調査)

つまり、仕事とプライベートのどちらか一方を選んだ人のほうが、仕事とプライベートの葛藤にストレス感じていたということ。

個人にとっての「仕事とプライベート」と似たように、会社にとっての「社員と株主と顧客」も、誰のもの?誰のためのもの?誰が一番大事?と、よく取り上げられる。こちらも「どれも大事」という解があっていい。

「どれも大事。一つには選べないよ」とひよっているだけじゃあまり幸せ感がないけれど、「どれも大事」で成立する価値連鎖を生み出すところにこそ、人間の創造力は発揮されるべきじゃないか、と私は思う。

ステークホルダーに優先順位をつけるのではなく、社員、株主、顧客のあいだでバリューチェーン(価値連鎖)をつくるビジネスモデルを考えるべきなのである。 どうやら経営も人生も、どれか一つではなく、大事なものはすべて大事なのだという姿勢でいたほうが、総合的により高い満足度を得られるのが現実のようだ。

誰の人生にだって、たいていは大事なことが二つ以上あり、それが何かは人によって違う。仕事だ、プライベートだとひとくくりにまとめても、何の仕事で、その仕事のどこを大事なのかは、分解すればするほど人によって明らかな違いが出てくる。

一人の人間においても、その時々で変わるもので、大事なものは時とともに変遷するし、また一時的にも入れ替わりを繰り返す。

そして、人間が大事にできるものは、一つの時間に一つしかない。どんなに有能な人間でも、0.001秒単位で考えたら、誰だってそうだろう。私たちは今のところ、自分の気持ちと身体を、一つの時間に一所にしか置いていられないのだ。

それが明らかなら、その現実を起点に私は考えたい。

とくに最近は、人間の見方が一元的かつ断定的な人がふえている。「女は細かい」「中国人はすぐ会社を辞める」「アメリカ人はカネにうるさい」「血液型がA型の人は几帳面だ」ーこれら表面的な属性にすぎないものを、すべての個人の内面的属性と無理やり結びつけるのは、不健全な人間観の最たるものである。

Webページの記事タイトルで多元論を語っていては、誰も人が来ない。だから実際と照らして極端かもしれないけど、とりあえずもの申すときは一元的に主張する。それはそうかもしれない。一元的に主張を述べることで、そこからさまざまな議論が立ち上がり、それについて考えを深める場を生み出せることもあるだろう。

という世の中を前提とするなら、コントロールしやすいのは、情報を受け取る側なんだと考える。ときに無理やり対置させられることもあるAとBの議論の底には、一元的には言い切れないものがあるという下敷きを置いて、情報を受け取り、議論に参加する。

そのほうが、真実だし、発展的だし、可能性の世界に開かれていると私は思う。私たちはAとBを対置させて議論した先に、既出のAとBを踏み台にして、その二つを統合的にとらえ新たなCというコンセプトを生み出す。そこにこそ人間の創造的な営みがあるんじゃないかと、ぼんやり思う。

「どっちが大事?」「どっちが正しい?」「○○はダメ」「○○はみんな〜だ」、そんな乱暴に言い切れるほど、人間の個体は単純じゃない。自分自身の複雑性をよくよく省みれば、納得感を覚えるはずだ。他人だって同じだけ、あるいは自分の想像をはるかに超えて、深淵で複雑な人間なのだ。

という、これは「自分らしいキャリアのつくり方」の感想文です。今日は所用で午前休で、これから真面目に働きます。すいません。

2014-03-17

「変わってる人」という称号

この間、「hysさんて変わってますね」と言われた。「変わってる人」という称号を与えられたとき、私はまず身構える。放っておくと、その回数を指折り数えて「私よく変わってるって言われるんです」と言う人になってしまうのではないか、と怯えるのだ。

それで、意識的にその言葉を鷲掴みにして、自分の心に下手に定着しないようにもぎ取るというのを、若い時分よくやっていた。今では放置してもそういう心配はなくなったのだけど、「身構えて適切に対処する」という初動は癖づいているところがあってなかなか抜けない。

自分に自信がない状態で無防備にあれを受け取ると、無意識にその称号に寄っかかり出すのだ。今のまま自然体でいても、私は世の中において希少性高い存在と、許された感覚に甘えたくなる。自分の存在に不安があればあるほど、そこに安住したがる。だから若いときなんかは、この称号を与えられると、どこかで喜んでいた気がする。しかし、それはまやかし物であり、不安からくる拡大解釈だ。

我々は「あなた変わってますね」と言われる体験には希少性がないことに、気づかなくてはなるまい。

誰も悪気なくして、「君ってほんと凡人だね」なんて念を押して言わぬものだ。私は悪気なく言われたことがあるけど、それこそ稀な体験だろう…。一方で「君って変わってるね」とは、極めて変わってる人だと思わなくても、ちょっとした会話の中でいくらでもあがるものだ。世界中で一日に何万件、何十万件と発せられているに違いない。

しかし、私は自分のことをことさら凡人と強調したいわけでもないし、変わってる人と信じたいわけでもない。

人は基本的に個別性をもつ生き物だ。そういう意味では、みんな変わってるとも言えるし、みんな他人と違う面があるという意味では、みんながみんな変わっているのだから、みんな変わらないとも言える。日本語大丈夫か…。

ほんとどこにもこれといって特徴のない、どっかから持ってきたものの寄せ集めみたいな人もいるよ、と言う人があるかもしれない。あるいは、自分自身をそのように感じている人がいるかもしれない。

それが本当にそうだとして、私は、それは、今のところ未分化なのだと捉える。人間は、個別の種を持って生まれている。しかし、分化するのは生まれてからだ。分化させるのは環境であり、また自分自身の意思だ。その繰り返しの中で、私たちは他と違う人になっていくし、バイオリズムだってあるから、生まれてから死ぬまでいつだってむきむき成長を欲し続ける人も稀だろう。なんだかんだと長い時間のなかで、成長の分化プロセスが死ぬまで続いていく。私は人の可能性をそんなふうに信じている。

もちろん、未分化に終わる個体もある。個別性を育むことを拒否する個体もあるかもしれない。私はその個体に対して、こうすべきという答えをもっていない。ただ、分化したいという人の支援を、私の仕事としたい。だから、私は人の学習を支援する。人の健やかな可能性の世界に目を向けて生きていきたい。適当に思うことを書いていたら、思わぬ着地点にたどり着いた。

2014-03-15

クラウドソーシングサービスについて

駆け足で思ったことを乱暴に走り書いたメモ。

クラウドソーシングサービスは早晩普及する。普及するものは、徐々にいろんなとこから新規参入があって細分化して専門化していくのが常。

としたら、資本力あるトップ層は今のところ採算取れなくても踏ん張ってそのまま行くとしても、あとは早いうちにニッチ路線をとって、かなり業界絞り込んだサービスいっといた方が、後々成立する可能性あるんじゃないか。

いずれにしても、それらあらゆるクラウドソーシングサービス事業者をわさっと束ねるプラットフォームはYahoo!さんとかが担い、そこはもう別レイヤーの大資本の仕事なんだろうなぁというイメージ。

そしたら、翻訳ならConyacみたいに、今のうちにWebサイト制作ならとか、アプリ開発ならとか、統計ならとか、イラストならとか、ほにゃのクラウドソーシングならうち!と絞って、特化型の機能とサービス作り込んで経験値あげておいたほうが、先行した恩恵を後々得られやすいかなとか。それをどれくらいの範囲に設定するかもセンスだけど。あと投資できる額の兼ね合いとか。

あと、oDeskが時給型の案件を主流にして、真面目に仕事しているかマウスとキーボードの動きで自動検知するシステムを入れているというので、これはまったく対極のサービスニーズもあると思われた。とにかく成果物の出来が重要なんだ、時間でとらえるものじゃないんだという納品物を前提に、いかにそれに最適化した仕事の質評価システムを作り上げ、提供するか。

業界を絞り込んで、その仕事特有の評価システムを作り上げ、明らかに妥当でない納品物を自動で検知する機能を搭載したり、あるいは中の人が納品物を専門的にチェックしてくれるサービスを提供したり、要件をヒアリングして人と案件をマッチングしてくれる人力コーディネートサービス提供まで手を広げるのも、業界特化ならできるかも。

ライティング特化だったら、納品物に自動校正かける機能とか。プロの校正者が納品物にチェックいれるサービスをオプションでつけるとか。

追記:って書いた後にだけど、けっこういろいろありますな。クラウドソーシングサービスまとめ・2014年2月

だからつまり、長沼博之さんの「ワーク・デザイン これからの<働き方の設計図>」は面白いな、という話。

2014-03-09

転換期という時代背景

ある企業さんから、春先に開く社員総会で100名強を相手にキャリアの話をしてくれないかという相談が舞い込んだ。昨年3月にSlideshareにアップしたスライドを見て、お問い合わせくださったそう。講師らしき経験は数えるほどしかないので、いつも以上にびびりながら打ち合わせに出向いたのだけど、そういう状況ならこういう話はできるかなということに落ちつき、結局お引き受けすることになった。

しかし私の日常は、キャリアの中でも「学習」にフォーカスをしぼった仕事にどっぷり浸かっている。「キャリア」という広域の概念をすこし浴びなおして言語感覚を刺激してから話す内容をまとめるのが良かろうと思い、2冊ほど最近のキャリア本を買ってみた。

そのうちの1冊が児美川孝一郎さんの「キャリア教育のウソ」という本で(これは学生の就職活動寄りの本なんだけど面白かった)、その中に

転換期とは、かつての古い「標準」は崩れているが、新しい「標準」はいまだ生まれていない時期のことである。

という一文があった。なるほどなぁ、うまいこと表現するものだなぁと思いながら読んだ。

転換期に立っている時に、「今は転換期です」って言い切るのって難しいよなぁと思っていた。A→Bに転換した後に、AとBの間を「あの時は転換期だった」と指し示すのは比較的楽ちんだと思うんだけど、確立されたBがない時点では、先々に一通りが転換し終えてBに落ちつく保証もない。一向にBが確立されなければ、今は転換期とはならない。Bがやって来ないなら、今は崩壊期や終末期かもしれない(でも、んなこと言い出したらやっぱりさびしいので、何らかのBがやってくる可能性を信じるか、あるいは自分たちで創り出す意志をもって、「転換期」と言うことになるとは思うんだけど)。

けれど、いずれにせよ時代の大きな転換期となれば、100年〜300年くらいの尺で見る必要があるんだろう。と思うと、かつての古い「標準」が崩れている時点で、これはもう「今は転換期です」としてしまって、とりあえず自分が生きている時代は「死ぬまで転換期であり続けるのだ」と割り切ってしまったほうが、すっきり生きられる気がする。

生きている間と言わず、その後も転換期が終わる保証はないのだし。もしかしたら、この先ずっとずっと転換し続けて、どこかに落ちついて数百年という日々は訪れないのかもしれない。人のキャリアは多様化の一途をたどるのかもしれない。

この本は、「何歳になったら、たいていの人はこうする」という標準が成り立たなくなったからこそ、今「キャリア」という概念が脚光を浴びているというのに、正社員として就職することを念頭においた、崩れ去った「標準」ベースのキャリア教育をそのまま続けているのは滑稽だ、と指摘している。

帝国データバンクによると、企業の設立から倒産までの平均年数は、時期にもよるけど、ほぼ30年超に落ちつくそうだ。今後はもっと短命化するだろうし、会社の設立からずっといる人など限られるから、社員が出入りするのを前提とすると、終身雇用どころか、20年同じ会社に勤務するというのが、なかなかイメージできない世の中だ。

一方、個人が働く期間は40年、50年と長期化の様相。「仕事」とか「働く」という概念自体も、いろいろと多様化していくのだろうし、転換期を生きているんだという前提で、変化とともに生きることを楽しみたいと思う。

とか書いているうちに誕生日を迎えた!Googleのトップページにアクセスしたら、Googleロゴがケーキになってた。というわけで、日が明けて一番最初にお祝いしてくれたのはGoogleだった…。ありがとうございます。この一年も、どうぞよろしくお願いします。

2014-03-08

甥っ子のオンラインパーティー

私の甥っ子(上の子)は今、闘病生活で長期入院している。病棟には両親以外入れないので、甥っ子(下の子)とは長く会えない状態。二人はケンカしつつも基本よく一緒に遊ぶ仲良しなので、離ればなれなのもすごくかわいそうなのだけど、まぁそうこう言っていられない事態なので、しっかり完治させて早くおうちに帰ってくるのが一番。

昨日は甥っ子(下の子)の誕生日で、義姉が家で下の子と一緒にケーキ、兄が病院で上の子とケーキを囲み、FaceTimeを使ってライブ中継しながら一緒にお誕生日会をしたそう。こういうとき、テクノロジーって素晴らしい!と心底思う。

治療がかなりハードなんだけど、昨日は上の子も元気な笑顔を見せてくれた。という写真を兄からもらい覗き見て、涙ぐむ叔母…。

そして、普及しているデバイスにプリインストールされているFaceTimeの強さを思う。身近にあるということ、存在を知っているということ、すぐ使い出せるということ、操作につまづかないということ。いろんな人の仕事がそこに結実して、笑顔を生んでいる。仕事って、ほんと尊いと思う。

ここんとこ並行案件数が史上最高値を更新しつづけている。私は私なりにできることをせっせと頑張ろう。

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