読む力
「舛添要一さんの発言について」という福島みずほさんのブログ記事が、Facebookの方々でシェアされていた。ざっと見たところ、舛添さんの女性差別発言を叩いて終わるものばかりで、ちょっと驚いた。違う読み方をした人は、静かに通りすぎ、この記事の拡散を避けたということかもしれないが。
私がこれを読んで第一印象で思ったのは、「引いてる文章が古いなぁ」だった。福島さんのブログ記事は2014年1月末日、つい最近アップされたものだけど、引用されている文章は、女性差別発言のが1989年と25年前のもの。それ以外も1996年、1998年と15年以上前。福島さんが発信したいメッセージに使える素材が、古いのしか見あたらなかったんだろう。
四半世紀、人が変わるには十分な時間だし、当時とは時代背景もずいぶん変わっている。1989年は平成元年。私はまだ中学生だ。その頃の自分の周辺の風景を思い返すと、時代的にはまだ、家内がうちを守って、主人が外で働くというのが一般的な家庭観だったように思う。すでに例外はぼこぼこと出ている時期だったろうし、うちの母も何かしら仕事はしていたけれど。
その頃から25年、人も時代も激動を生きながら価値観を変えてきた。もちろん、その頃からずっと舛添さんの考え方が変わっていない可能性もあるし、生理うんぬんというのは時代とは関係ないかもしれないが。自分が生きた25年の年月をたどると、私にはそう安直に2014年現在の舛添さんの価値観を25年前と変化なしとは想定できないのだった。昔の発言を切り取って、25年後のその人を断罪するのは、「一度の失敗で評価を決めつけて、敗者復活の機会を与えない社会って良くない!」と言う世の価値観に反するのではないか。
福島さんにここで鼻息荒くもの申したいのでもない。彼女は批評家じゃない。政治家として自分が民衆に発したいメッセージがあって書いているのだろうから、そこに存分に主張が入ってくるのも、読み手としては想像に難くない。1996年の文章を引いて、「福島の人々をはじめ、原発立地県や周辺の人たちの原発反対の気持ちを全く理解しているとは思えません」とつなげるのはどうかなぁと思うけれど。ともあれ、引用した記事の年数は明記されている。
私がこの一件にふれて意識した対象は、読み手だ。民衆一般、自分たち自身のこと。人が書いた文章をどう読むかということが、今の時代にはすごく問われているように感じていたのだけど、それを改めて考えさせられる一件だった。
書き手と読み手は、対等だ。書き手がどう書くか、それを読み手がどう読むかは、どちらも本人に委ねられている。そして書き手にも読み手にも、主観がある。私の文章にだってある。どんなに主観を排除しようと努めても、私たちは自分を介して何かを発信するし、自分を介して何かを受け取る。「自分を介して」からは逃れようがない。
同じ人の同じ発言を聞いても、受け手が発信者に抱いているイメージによって受け取り方は変わるし、発言している内容に関する予備知識によっても見え方は変わるし、どう肯定的・批判的に受け取って加工するかという編集力の豊かさによっても、入ってくる刺激は大きく変容する。
女性差別発言を例にとると、明らかに時代に合わないのでわかりづらいけれど、この記事の上のほうで引いている舛添さんの発言は、それも一理あるという読み方もできるのではないか。何かの制度や主義って、そう名づけるからには何らかの特徴があるわけで、民主制や民主主義にも特徴があり、特徴があるからには強みと弱みの両面をもたざるをえない。
民主制は、悪くすれば「衆愚政治」に堕落するというのは、紀元前にアリストテレスが指摘していることだ。どの政治体制にも腐敗する可能性はあり、「君主制は独裁制になりやすく、貴族制は寡頭制になりやすく、民主制は衆愚制になりやすい」ことを指摘していたという。(飲茶「史上最強の哲学入門」)
心を落ちつけてフラットに読めば、民主制にそういう側面があるのは納得するところ。むしろ、腐敗すればそうなりうるという民主制の弱点をわかっていない政治家では、実際のところかなり仕事するのが厳しいのではないかと思う。体制の強みと弱みを両面わかった上で、全体最適を設計しつつ、個々の状況に寄り添って、どう良い解を具体的に導いていくかを考えていくのが仕事だと思う。
扇情的なメッセージの言いなりになって煽動されないことが、民主主義社会における民衆の務めかもしれない。なんて、直観だけで生きているような私が何を言うかという話だけど。テーマは関係なく、多様な書き手の文章を読むことが前提になったインターネット後の世界に立って、改めて思うのだ。書き手のメッセージをどう読むかは、最終的には、書き手の責任ではなく読み手の責任である。
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